上田貞次郎「Dialogueケンブリッヂの夢」

1915年(大正4年)

 

緒言

 

世界の歴史上忘るべからざる一九一四年の秋、僕が英国ケンブリッヂにいたときのことである。ある晴れた日の午後、はらはらと散るライムの落葉をながめながら、パイプ煙草をふかしている間に、ついうとうととねむってしまった。そのときの夢物語を綴ってみたのがこの書物である。

 

夢のうちに会った人が三人ある。一人はいままでドイツに留学していたが、こんど学位を得て帰朝しようという瀟洒たる青年紳士。これは僕が子供の時から知っている某県豪農の子でその名を新島進一という。洋行前には熱烈な帝国主義者であったが、近ごろは変わって社会主義に興味を有している。

 

次は僕の同窓の先輩で実業界にその名を知られた中川成吉。二十貫もありそうな大男で、顔に光沢のある元気満々たる人物。学校にいるときには、ミルの経済学を三度くりかえし精読したので有名になった。大の個人主義者だが、いまでは実際の経験によってすこぶる穏健な説を立てる。

 

それから最後の一人はどうしてここへ来たかわからないが、七十近くの老人。さすが昔の武士教育に鍛えられただけあって、体格の頑丈な、広額隆鼻でしかも両頬に流るるごとき雪白の長髭をなびかせている。風骨高邁の国士。古山巍というて亡父の旧友だから僕はよく知っている。彼はもと明治政府の大官であったが、よほど前に退官して貴族院議員に勅選されている。

 

この三人のうちで古山と中川は一週間前からケンブリッヂに滞在していたが、いずれもこれという用事がないので散歩をしたり、碁を打ったり、時としては僕の主張でボートを漕ぎにいったりして遊んでいた。

 

しかるに面白いことには二人とも議論家で、話をすれば必ず高論風発ということになる。古今の英雄を品評するかと思うと、東西の風俗を比較する。その他いかなる問題でも行くところとして可ならざるなしだが、中にも日本の政局に関する議論が最もよかった。

 

ある朝、例によって三人が古山のホテルのスモーキングルームへ集まったときに、老将軍が一の名案をだした。

 

古山 中川君も上田君も、日本にいるときはなかなか忙しくてゆっくり会うこともできないが、今度はいろいろお説を聴いて非常に面白く日を送りました。しかしこう論客がそろうのも珍しいことだから今日は一日、真面目に討論してみたらどうだろう。

 

  古山様の気のお若いにはいつも敬服しますが、討論会とはいよいよふるってますね。

 

中川 それは私も賛成です。じつは会社の用事ができて明後日までに、ロンドンへ帰らなけりゃならなくなったので、皆様の御論をうけたまわるのも今明両日になりました。

 

  そこで気焔の吐きじまいだから大いにやろうというんですね。これは面白いでしょう。───時に古山様、昨日からまた一人議論家が来てこのホテルに泊まっているのですが、その人も仲間に入れましょうか。これは新島進一という青年で未来の代議士です。

 

古山 ああそれは結構。その人さえ遠慮しなければ私どものほうは構わずやる。ねえ、中川君。すべて討論は遠慮があっては面白くない。負けたときは快く降参するとして、行くところまで行こうじゃないか。

 

中川 大賛成。ただし水かけ論はやらぬことにして。

 

  新島という男は水かけ論もやりかねないが、遠慮するなといえばどんなことをいい出すかわからないような男です。

 

こんなことをいっている間に、新島が散歩でもしていたと見えて、外からふらりとやってきた。さっそく紹介していまの話をすると大喜びだ。

 

古山 そこで今日の討論については私に一の注文があるが、皆様聴いて下さい。先日からだいぶ議論を闘わしたが、ややもすれば枝葉に走って論が詰まらないから、今日は問題を順序よく出して、その問題ごとに各々の意見を述べるとしたらどうだろう。そして問題の出し方と議長を上田君に一任したら。

 

  いや僕は書記官になりますから、議長は御年役の貴老に願いたいものです。

 

中川 そうでない。これは古山様のいわれるとおり、君がやらなけりゃいかぬ。君がわれわれのうちでいちばん学者で公平だから、問題の順序を立てるにも、皆の意見をまとめて水かけ論を押さえるにも最適任者だ。

 

古山 そうそう。こうして四人寄ってみると、私が旧式で、中川君が新式で、新島君が最新ということになる。そうして君は誰のいうこともわかりそうだから、ぜひやってくれたまえ。

 

  そうですかね。それではともかく、私が議事整理役になりましょう。──それで問題はどんなことがいいんですか。

 

古山 何でもいいが、当今の大問題がいちばん面白そうだね。

 

中川 よいでしょう。題を設ければ「新日本の理想」とでもやるかね。

 

それからスモーキングルームを出て古山翁のシッチングルームへ行った。

 

第一章 新旧思想の混流

 

  討論の基礎として、まず皆様の根本主義を明らかにしておく必要があると思います。すなわち将来日本の社会組織、および国民道徳の精神をいかに導かねばならぬか、ということについて、皆様のお考えを順々に述べていただきたいのです。これは古山様からお始めを願いましょう。

 

古山 僕のはただ、旧式の考えというだけで、とうてい筋の立った理屈にはならないが、いまの世の中を見るとじつに心配なことが多いのです。昔は上に、天子、将軍、諸侯があり、中流に士族があり、その下に百姓、町人があって、おのおのその家柄により身分相応のことをしていたから、社会の秩序というものが整然と立っていた。その中でも士族が国の中堅であった。彼らは名誉ある先祖の血統をうけているのみならず、家禄に生活していたから、少しも衣食の心配をする必要がない。したがってその志は修身斉家治国平天下にあり。その学問は今日のような細かいところまで進んでいなかったけれども、一身を犠牲にして君国のために尽くすという精神があった。廉恥を貴び、節義を重んずる士風が存していた。そして平民はこれにしたがい、これにならって上下相和するということになっていた。維新後には諸侯が藩籍を奉還して聖天子が上に立たれ、その他は四民平等となったけれども、国家の中堅はやはり旧士族の階級であった。すなわち役人とか、軍人とか、学者とか、または銀行会社の重役とかいうものは、主に旧士族であって、これらの人がみな愛国の至誠をもっていわゆる挙国一致して働いたのです。三百年の鎖国の夢から覚めてみれば、世界各国はじつに弱肉強食のありさまで、日本のごときはうかうかしていれば、外国に併呑されそうな形勢が見えた。そこでわれわれは、この西洋諸国に負けまいと思えば、西洋の知識を利用するにしかずと思って洋式の陸海軍を組織し、洋式の学校を起こし、鉄道電信をしいて、国民の進歩を促した。その粉骨砕身の結果が日清、日露の両戦役にあらわれて、今日は世界の一等国とまでいわれるようになったのです。しかるに前門の狼を逐えば、後門に虎が襲ってくるとでもいおうか、日本国がようやく世界列強の間に立って、独立鞏固の位置を得るに至ったと思う間に、早くも古来特有の精神が動きだした。すなわち西洋の個人主義とか、拝金主義とかが入ってきて、われわれの忠孝節義を侵さんとしている。現に近ごろ、東京で私どもの近所に大名屋敷のような立派な家が続々としてできるが、その持ち主はいずれもいわゆる成金党で、素養のない人たちだから家まで下品になっている。成金というのは要するに、弱い者たちをふみたおして資産を築きあげた人たちではありませぬか。それをいまの人は奮闘だとか、成効だとかいってほめるし、当人も得意でいる。こんな人が社会に勢力をもつとすれば、日本の前途はすこぶる危ういと私どもは思う。物質的に進んでも精神が腐れば国家は保たないのです。また、世間では明治政府を藩閥とか、官僚とかいって攻撃するけれども、明治初年の官吏は少なくともみな国家の重きをもって自ら任じていた。その政治をいま成金や百姓議員らに任すのはじつに心細いことである。このありさまで進めば、大和魂も武士道もすたれてただ金の世の中、腕の世の中になり、天下の蒼生その堵に安んぜず、ということになりはしないか。これが私どもの深く憂えるところです。特にいまの世界は文明とかいっても、国際問題になれば義理も人情もないのだから、このうちに立って日本帝国の勢力を強め、いわゆる国威国光を発展せしめんと思えば、どうしても一死国に報いんとする国士が出て、国民を導かなけりゃいかぬと思う。このように考えてくると、私にはいまの社会よりも維新前の階級組織のほうが、かえってよくなります。

 

中川 そうすると貴老のお説では、憲法を中止してさらに家禄をもった士族の階級を復活させるのがよいのですか。

 

古山 まさかそんな暴論は吐かない。もちろん士族の制度を復旧すればよかろうとは思うが、これはいまの時勢でむろんできないとあきらめている。ただ、士道の頽廃はじつに憂うべきことだからどうかしなければならぬ。これが私の問題で、諸君の智恵を借りたいところのなのです。

 

  できるとかできないとかの問題を別にしてたんに古山様の理想をいえば、昔の士族のような衣食に心を労せない階級をおいて、その人たちに高尚な人格を発達させて、ほかの人民はその指導にしたがっていくのが最もよいのですね。つまりプラトーの理想郷のようになりますね。

 

古山 私はプラトーなどを読んだこともなし、また哲学者でないから、できないことを空想してみようとも思わないが、いやしくも社会の秩序を保ち、国家の勢力を強くするには、上下の区別を立てることは肝要と思っている。すなわち一家としては夫婦別あり、長幼序あり。一国としては一天万乗の君主の下に士大夫と庶民の別あり。そこで上は下を愛しみ、下は上を敬うとなれば、万民みなそのところを得て満足し、協力一致して国威を海外に揚げることもできるのではあるまいか。

 

  近ごろの語でいえば、国家主義、家族主義、貴族主義で、そして帝国主義ですね。

 

古山 まあそうでしょう。ただし私はただ頑冥に旧思想を固執し、または旧制度を維持しようとはいわない。世の中が変わるものなら変わってもさしつかえないが、何らか日本固有の美風を失わないようにしてもらいたいのです。

 

  よくわかりました。──しからば次には中川君に願います。

 

中川 私も政治学から割り出して、理想を定めたのでない。主として自分の経験によって意見を立てたのですから、首尾一貫した主義を述べろ、といわるれば困るが、とにかく古山様とはだいぶ違った考えをもっている。私の考えでは明治のはじめに旧階級制度を打ち破って、四民平等の原則を立てたのがそもそも日本の今日ある大原因だと信じる。個人の権利を平等にして、家柄に関せず、おのおのその才智芸能を自由に発達させたから、各方面に人材が出てきたので、これを昔のままにしておいたならば決して進歩ということは望まれない。士族でも明治の進歩に貢献したものは、その内の力量見識ある人たちに限るので、その他に無気力、無節操で堕落したものはたくさんある。実際の事実は階級打破の結果、下級士族と士族外の実力者が柔弱なる上級士族の代わりになって国民を導いたのです。自由競争はいわゆる「強い者勝ち」で、古山様にいわせれば「金の世の中、腕の世の中」かもしれないが、私はさほど残酷なものとは思わない。かえって大体公平に、智者と愚者とをふるいにかける適当の方法である。そして智者が富貴顕栄の位置にのぼり、愚者がその下につくのは当然のことで、昔のように智恵の別なく、ただ生まれた家の格式によって一定の位置を定められるのは不公平きわまると思う。また、自由競争はすべての道徳を破壊するかのごとくいう人があるけれども、決してそうでない。昔のように「民は頼らしむべし、知らしむべからず」の主義で行けば、平民は羊のごとく率いられていくのだから、その考えも羊のごとく奴隷的になってしまう。しかるに自由主義の社会においては、各人みな自分の意思によって活動するのだから、自然に責任を感じて独立自尊の人になる。他人に依頼せずして自分の力で自分の運命を開拓する。互いに相励んで克己勉強する。各人は何人の奴隷でもない。何者の機械でもない。自由にその人格を発展せしむべきものである。それだから人間の価値が高められる。この人間の価値、個人の人格というものが認められなければ、国民全体としても品格が低いのです。

 

古山 つまり昨日のお話のとおり、すべての人民をみな名誉ある武士のごとき人格に仕立てるというのですね。福沢の独立自尊主義ですね。

 

中川 さようです。そこでこの意味からいうと、明治政府はそのはじめによい原則を立てたけれども、中ごろから方針を誤ったと思う。政府は先刻お話のとおり国防を充実し、学校を起こし、殖産を奨励して大いに国利民福を増進したけれども、その政治の方針が極端な保護干渉画一主義で、人民に対しては、ただ従順であれとばかり教えた。そこで実業家は政府に依頼し、学者は官憲におもねり、青年は官吏を志望し、いわゆる官尊民卑の陋習が今日まで存在している。それでも人民が西洋を知らない間は、政府が西洋の知識をもってこれを導いたからよかったけれども、いまとなっては日本も西洋の糟粕をなめてばかりいられなくなった。この場合にはどうしても政府の保護干渉をやめて、個人の自由を許し、そのオリヂナリチーとイニシャチーブを発揮させなければならぬ。だから僕は官業も反対、官立学校も反対、殖産奨励も反対です。特に文部省が学校に官権主義を持ち込んで、政治思想の発達を妨げたり、内務省が知事の勢力を通じて国民道徳を統一するなどということは大反対です。日本の代議政治がすこぶる幼稚で、こんにち古山様らに心細く思わせるのも従来政府が憲政教育を怠った結果があずかって力ありと信じます。

 

古山 なるほど、自由平等はよいのだが、明治政府の老物どもが世話を焼きすぎて人民を愚かにしたから、今日のごとき困難な状況に立ちいたった、といわれるのですな。

 

中川 さようです。たとい元は土百姓でも、素町人でも、士の教育を受ければ士になります。現今実業界はもちろんのこと、学界においても、政治界においても、また官吏、軍人の間においても平民の肩書きをもったものがたくさんに成効しています。万民平等の機会を与えて実力の競争をさせれば、自然に有為のものは上に立ち、無能のものは下に立って社会の秩序ができるのです。私は個人主義、自由主義です。

 

古山 よくわかりましたが、その個人主義、自由主義は忠孝の道義とどういう関係になりますか。

 

中川 個人主義は利己主義ではありませぬ。自由主義はわがまま主義ではありませぬ。各人が自ら重んじてその徳性を完全にし、他人に対してその人格を尊んで圧迫を加えないという意味です。親だから娘の身を売ってもよい、という道理はありませぬ。主人だから家来を牛馬同様に取り扱ってよいということもありませぬ。しかし子として親を思い、臣民として君国のために尽くすのは自然の人情です。また自ら重んずるものに、卑怯な行ないはできないはずですから、平和の取引においても、戦場の進退においても、俯仰天地に恥じない公明正大の働きができるわけです。この意味において個人主義は、二十世紀に応用された武士道です。

 

古山 そういわれるとちょっと賛成したくなるが、まだなかなか腑に落ちないところがある。まあ後になっていろいろ質問しましょう。

 

  そうです。いまは討論の予備として皆様の大体の主義を聴き取るだけにとどめたいと思います。──次には新島君の社会主義を聴きましょう。

 

古山 なに、社会主義かね。

 

  社会主義というても決して破壊主義や危険思想ではありませぬ。ぜひ貴老に聴いていただきたいと思っていたことです。

 

新島 社会主義といえば、日本ではただちに激烈な革命運動かのごとく考えられますが、それは昔のことでありまして、こんにち欧米ではそんな連想をするものはほとんどなかろうと考えます。そこで私どもの社会主義は中川様の個人主義と相対しております。個人主義は十八世紀の中世から十九世紀の末まで欧州の思想界を風靡した主義であって、中川様のいわれるとおり個人の価値を認めるという点においては結構な考えですが、実際の結果を見れば決して理論どおりに行ってはおりませぬ。なぜかというに、現在の財産制度というものを変更しないでたんに自由競争を許しただけでは、万民平等の理想が行なわれないばかりでなく、かえって不平等になります。昔の大名がないかわりに成金大名、すなわちいわゆる資本家ができ、また昔の奴隷同様な百姓がないかわりに、同じく奴隷に近い労働者ができます。今日の貧乏人というものは法律上自由の人に相違ないけれども、実際その日その日を食うや食わずに送ってるものを、金持ちと同等の位置において契約させれば、何でも資本家のいうことを聴くよりほかありませぬ。聴かなければ餓死するだけのことです。そうしてみればいわゆる自由は、餓死の自由になってしまいます。また、中川様は今日の世の中では万民平等の機会を与えてあるから勉強さえすれば誰でも立派な人になれる、といいますけれども、貧乏人の子には義務教育がようようのことで、中学などへは行かれませぬ。しからば実地の修業をしたらどうかというと、これも資本がなければ小売店でも開くことはできませぬ。資本を借りることが仮にできたとしても、大資本家の競争に堪えることはできない。そうして自由競争は何と弁解してみても優勝劣敗ですから、人情が酷薄になって自分さえよければ人は構わぬ、という利己主義に落ちていきます。

 

  このへんまでは古山様も御同論でしょう。

 

古山 そうそう。それがいわゆる奮闘的成効とかで、私の嫌いなやつさ。

 

新島 そこで守旧党は階級制度に帰れといいますが──。

 

古山 それから先が違うのだね。

 

新島 社会主義者は、百尺竿頭を一歩進めよというのです。大名や士族の特権を廃止して四民平等の主義を打ち立てるのみならず、土地や資本を公有にしてこれを人民全体の利益のために用いよう、と主張します。つまり法律上の平等では足りないから、経済上にも平等を推し広めるのです。個人主義の倫理は各個人が各個人のために働くことですが、社会主義の倫理は、各個人がすべての同胞のために働き、すべての同胞がまた個人のために働くことです。一方は利己説で、他方は利他説です。それで個人主義、すなわち資本主義の弊害は欧米各国ますますはなはだしくなりますから、西洋では中川様のいわれるような説はもはや時勢遅れです。日本が幸いにも後進国で欧米人の経験を利用する地位におりながら、いまさら彼らの失敗の轍をふんで、資本主義の弊害をくりかえす必要は断じてありませぬ。

 

中川 僕も日本では進歩党のほうだが、新島君に会っては顔色なしだよ。

 

古山 お説はいかにも面白いが、財産を国有にする方法はどうですか。

 

新島 財産を公有にするというても、その内の肝要なもの、すなわち土地、建物、機械等を国有または市有にすればよろしいのです。日本でも今日すでに鉄道国有、街鉄市有を実行しましたが、あれと同じ方法で電灯、ガス、鉱山、銀行、保険、汽船、倉庫、商店、工場を漸々に買い上げます。そうすればむろん公債の発行高が多くなりますけれども、公債を償還するために資本に課税していきますから、漸次に資本家というものが少なくなって、国家が唯一の資本家になります。

 

古山 なるほど。これはうまい考えだが、それからその国有や市有になった資本をどう運転しますか。

 

新島 これもいまと同じで官吏、公吏にやらせます。ただ、数がふえるのです。

 

古山 つまりは日本中の人がみな政府の役人と雇いになるのですね。それから月給は。

 

新島 月給は地位の高下にかかわらず、平等に当人の必要だけを渡します。たとえば子供の多い人には少ない人よりも多くくばり、病気や、出産や、死亡のときは平生よりも多くくばります。学校や病院はむろん料金を取りませぬ。ぜんたい、個人主義の社会では財産あり、力量あるものが労働少なくして所得多く、貧乏人と無能の者は労働多くして所得少ないという、不公平きわまる状態になっていますが、社会主義の社会ではほんとうの万人平等、その力量に応じて働かせ、しかも報酬は必要に応じて取らせるのを理想とします。

 

古山 わかりました。その実行いかんは疑うけれども、主義としては至極美しい。

 

中川 私も理論において社会主義は面白いと思うが、実行を疑うのです。第一、万人平等、力量に応じて働かせ、必要に応じて取らせるというのは結構なことだが、つまりできない相談でしょう。なぜかというに、人間はがんらい労働を好むものでないのだから、必要の物は働かぬでも取れる、必要以上は働いても得られぬとなれば、しぜん怠けます。各人が怠ければ社会全体の生産が減ずるから、その分配高も少なくなる。しからば経済上の平等というても、すべての人が貧乏になるよりほかないだろうと思われる。

 

新島 貴君は人間が怠けることばかり考えてるものと定めておられますが、必ずしもそうではありませぬ。現に小学校の教育は無月謝です。公立病院の施療も無代価です。水道の共用栓も料金を取りませぬ。道路や公園も通行自由です。そのほか西洋では老年者年金とか、労働者保険とか、全然無償または多くの補助を与えて貧乏人を助けております。これはみな個人の必要に応じて取らせる主義だけれども、そのために人が怠けはしませぬ。かえってこの種の設備をするほど、人間が教育されて勉強もする、犯罪も少なくなるではありませぬか。人は衣食足りて礼節を知るのですから、生活を安固にしてやって悪いはずはありませぬ。

 

中川 公立学校や、公立病院は仰せのとおり理論上から見て、社会主義の一部を実行しているに相違ないが、これは一部だから弊害がなく、かえって個人主義の欠点を補うことになるのです。もしこれを全体に及ぼしたら必ず、私が前に申したようなことになる。私どもが実際に多数の人を使った経験から判断しても、報酬の高を定めておいてただ働けというのは無理です。社会主義者でも世の中に怠けたものがないとはいうまいが、その怠けものに対してはどうしますか。

 

新島 真の怠けものは一種の精神病者ですから、強制的に働かしてもさしつかえない。すなわちこんにち義務教育を行なうように義務労働を課します。

 

中川 さあ、そこが私の好まないところなのです。政府が事業を独占しておいて各人に一定の労働を課するのは非常な圧制ではないか。世の中には働かないでただ考えていたい人もある。その自由を許してこそ、大発明家も、大思想家も出るのに、これを千篇一律の型に入れてしまおうとするのは、進歩の敵ではないか。ぜんたい、社会主義とか、社会政策とかいうものは、官業を拡張し、官府の干渉を多くするばかりで、民間の自由企業を圧迫するから、官僚政治へ後戻りするよりほかはない。

 

新島 ところが僕らの眼中には、民間とか官僚とかの区別はないのです。社会主義の政府は、真に民衆的の政府で輿論によって行動するのですから、個人の自由が束縛されるというても、一の階級が他の階級を圧制するのでなく、個人が一般の輿論にしたがうことになります。

 

中川 たとい民衆政府でも圧制を行なえば、やはり圧制政府で、専制政治と同じことではありませぬか。

 

新島 そうすると貴君の個人主義は無政府主義に近くなりますね。

 

中川 そんなことは断じてない。

 

古山 だいぶ天候険悪になってきたが、議長が仲裁してはどうかね。

 

  仲裁の必要はないでしょうが、理論からいえば個人主義は無政府主義と隣りあっています。もちろん無政府主義といったところがダイナマイトを持ち出すわけじゃありませぬがね。

 

古山 そんなものかねえ。

 

  個人主義はなるべく政府の干渉を除いて個人の自由を許そうと主張するのですから、その理屈を極端までもっていけば、強制的なものはみな悪いといわなきゃならない。義務教育も、兵役も、裁判も、刑法もみな悪い。租税を取るのも悪い。つまり政府をやめるよりほかに仕方がない。政府をやめるのはとりもなおさず無政府主義じゃありませぬか。これはもちろん中川君のごとき実際的個人主義者の考えていないところだけれども、理論は少なくともこのとおりです。

 

中川 なるほど、これは降参だ。いままで考えていなかった。しかし僕は理屈に基づいて意見を立てているのではない。実際の必要に応じて実行のできることを考えるのだ。

 

  そこで貴君と新島君と衝突する点を考えてみるに、貴君は平等よりも自由を重んじ、新島君は自由よりも平等を重んじるところから、意見が合わなくなると思うがどうですか。

 

中川 それに違いない。

 

  ところが僕はそれを調和させる一案をもっていますが、聴いてくれますか。

 

中川 よろしい。

 

  中川君は万民平等の機会を与えるといわれたが、現今の社会にはむろん機会の平等がない。新島君の論のとおり法律上の特権は廃されたが、じっさい金持ちの子と貧乏人の子と同等の便宜を有するとはいえない。

 

中川 それはやむを得ない。

 

  ところがやむを得るんです。親の財産を子に譲るということは個人主義から見て間違っているじゃありませぬか。子が親の財産に依頼するというのは、独立自尊じゃないでしょう。

 

中川 ふむ。

 

  それだから僕は相続権を廃止して、金持ちの子も貧乏人の子も同様に教育するのは個人主義の極意だと思う。

 

中川 しかしその財産を国庫に移すとすれば、やはり社会主義に到着するのではないか。

 

  そうでない。財産は国庫に移すけれども、その運転は個人かまたは会社に請け負わせる。入札をして報酬を多く出すものに落としてやる。だから国庫に移された事業は国庫と個人の共同事業になります。そのほかに個人が銀行から資本を借りてやるなら、どんな新事業でも勝手にできます。その利益も企業者の手に入ります。その本人が死ぬまではその人のものです。ここまで行かなけりゃ、自由競争が公平に賢愚をふるいわけるとはいえませぬ。

 

新島 しかしそれではやはり自由競争になる。強者は弱者を圧するではないか。

 

  むろんそのとおりさ。しかしこの場合の強弱は財産上の強弱じゃない。本人が天性賢か愚か。また国家の与えた教育をじゅうぶんに利用して勉強したか否かによって決するのだ。純然たる個人の価値の上下によって決するのだ。君の立場から見たら違うだろうが、中川君の立場から見れば、賢愚の区別もなく、勉強不勉強の区別もなく、同様の月給をやるのは不公平なんだから、これでさしつかえないどころかこの上の理想はありやしない。

 

新島 そうだ。

 

  それから君は先刻、力量に応じて働かせ、必要に応じて取らせるといった。僕もこれが真の社会主義と思うけれども、英国の社会主義者は通常その流儀をとらない。力量に応じて働かせ、結果に応じて取らせるというのだ。この人たちは僕の案に満足せざるを得ないと思うがどうだね。

 

新島 そのとおりだ。とにかく調和策として名案だが、僕には満足できない。

 

古山 相続の廃止はどんな方法でやるかね。

 

  最近社会主義の智恵を借りて相続税を追々に高く取ればいいでしょう。

 

中川 あまり名案でちょっとまごつかされたがやはり欠点がある。というのは、人間が後世子孫を思わないことになる。したがって怠ける。しからずんば奢侈の風がはなはだしくなる。つまりテーブル論で国を誤るもとだ。

 

  そう来るだろうと思ったが、日本の標準で考えてみるに、じっさい三万や五万の金は後世子孫のために必要だろうけれども、それ以上はかえって邪魔になる。自分で使うにしても一年に五万円は多すぎるでしょう。いまの実業家は子孫のためや、自分の奢侈のために働くのじゃない。権力を握るために働くのだと思う。そうすれば死後に自分のためた財産が国庫へ取り上げられても欲の皮がへこむことはありますまい。

 

中川 いや、そんなものではない。君のもやはり社会主義と同じ空論だから僕はとらない。しかし理想としては社会主義よりもはるかによい。

 

古山 私には社会主義のほうが何ほどかよいようだ。なぜかというに、相続権を廃止すれば家産がなくなる。家柄という考えもなくなる。いまの成金でも子孫になればまだよかろうと思っているのに、君の案を実行するとほんとうの成金ばかり幅をきかせるから社会の品格が大いに落ちる。社会主義のほうでも家産はなくなるが、そのかわり国家が世話して人心を和らげるから、人情が厚い道理だ。

 

  貴老は日本にいらっしゃるとき、社会主義は大嫌いでしたが、たいそうごひいきになりましたね。

 

古山 そうさ、近ごろまで社会主義などは、とうてい私どもと話のできるものでないと思い込んでいたが、昨今の討論でだいぶわかってきた。大いに国家の力を用いて社会の弊害を救済しようとするところは私どものいわゆる王道に近い。

 

新島 しかし家族主義や階級政治は僕らと合わない。この点に行くと中川様のほうが近いでしょう。

 

  相続税廃止に賛成しないところを見ると、中川様はやはり家族主義と階級政治の旧套を脱しませんね。

 

中川 そういわれても仕方がないけれども、僕は実際家だから一直線に理想にむかって突進することはできない。

 

  それでは総論はこれで終わります。

 

終わってみると室の中が煙草のけむりでいっぱい。灰皿にはマッチ殻や、シガーの灰や、シガレットの吸い口が山をなしている。これではたまらないという間に階下で昼飯の鐘が鳴ったから、これを休憩の合図としてぞろぞろ食堂へ下りていった。

 

第二章 政治問題

 

午食後は少し散歩することに議がまとまったので一同そとへ出た。町のかどを一つまわるとすぐに青々とした牧場へ出る。その牧場のいくつかを通り越してケム川の上流、バイロンスプールへ来たときに、古山の発案でこの青毛氈の上へ円座をつくって討論を続けることになった。空は薄曇だが雨になるほどでない。四隣には静かな森がある。ときどき山鳩の声と牛羊の声が聞こえる。

 

  根本主義の討論はだいたいすんだようですから、次には個々の実際問題に移ります。それで私はこれを政治問題、経済問題、道徳問題に大別するほかに細かい区別をしませぬから、この大きな区別の範囲内で皆様のお好きな問題をとらえて論じていただきとうございます。最初に政治問題から片づけましょう。古山様にお説はありませぬか。

 

古山 私の意見はもともと守旧的だから、別に新しい案がないです。皆様の意見が出たときに質問をしましょう。

 

  それではともかく後まわしにして中川君から願います。

 

中川 政治問題の範囲内では、私は議院政治の発達を第一に希望します。明治政府の事業は、先刻古山様の仰せのとおり、ともかく日本を貧弱未開の状態から救いあげて世界の列強と角逐しうるまでに進めたのですから、古今東西の歴史にまれなる大成功であるといわなけりゃならない。それはよくわかっていますが、しかしその政府の組織は決して大正の新時代に適するものでありませぬ。維新の際に揆乱反正の功を奏した薩長二藩の政治家が政権を掌握して、長く廟堂の上に立ったのは無理のないことではありますが、その時代はすでに去っております。彼らは各藩の士族、特に自藩の士族中才幹あるものを抜いて官僚を組織し、また新たに各種の学校を起こして青年官吏を養成しました。特に軍人の養成には非常に骨を折ったから、いまでも薩の海軍、長の陸軍といわれるほど多数の将校を出して要路を独占しました。そしてこれらの文武官吏は当時の日本で最も多く新知識をもっていたから、薩長元老のなさんと欲してあたわざることはないほどの勢力を築きあげた。そこでさらに華族の制度を設け、自分らをもとの公卿大名と同じ階級において豪然天下に号令した。彼らは明治天皇をたすけて帝国憲法を発布し、議会を開いたけれども、もちろん人民の意志にしたがう考えはない。代議士というものは、明治政府に用いられなかった少数の不平士族といなかの地主くらいなものだから、知識においても貫目においてもとうてい官僚の敵でない。その中には御用党もできて、つまり政府の道具に使われることになっていた。つまり明治政府はだいたいにおいて善政を行なったけれども、その方法は専制的であった。ベネヴォレント・デスポチスムであった。しかし専制政府と教育の普及とはとうてい両立することができない。人民教育が進めば何でも政府の言うところにしたがっておらないで、自治の精神がわいてくる。日本でも封建的の旧思想に育てられた旧時代の人民が没落して、明治の新教育を受けた子供が成長してきたから、もはやこのような政府に満足しない。であるから藩閥打破の声が、前には少数政治家の声であったのに、いまはほんとうに輿論の声になった。これが大正元年冬以来の政変の根本原因だと私は観察している。だから陸軍閥の桂公が出てもいかず、海軍閥の山本伯が出てもいかず、文官閥の清浦子は出ないうちに引っ込み、ついに元老が意を決して閥族以外の大隈伯を引き出すことになったのです。そうしてみれば今後内閣を組織しうるものは政党よりほかにない。したがって今日の急務は政党を完成するよりほかないと思います。日本の輿論政治はこれから始まるのです。

 

古山 政府の組織の善悪は別として、事実は貴君のいわるるとおりでしょうが、その輿論政治がはたしてうまくいきますか。

 

中川 さよう、少なくともいままでの閥族内閣よりはよい政治をするだろうと思います。なぜかというに、閥族内閣は少数有力者の意見を実行しようとしますが、政党内閣はそういうわけにいかない。ぜひ自分らを選挙した人民の意思にしたがわねばならぬ。閥族政治家といえども、もとより国家の利益を思うには相違ないが、とにかく彼らの信じて可とするところは、時として国民のために可ならず、ただ彼ら同輩のために利益であるかもしれない。たとえば陸海軍を拡張する場合にしても、それが国のためには絶対の必要でなくして、彼らの勢力を扶植するために必要なのかもしれない。しかるに政党政治になれば、いわゆる被治者が治者を監督することになりますから、国民の要求する減税を後にして急ぎもしない軍備拡張を行なうことはできないでしょう。もし一の党派が国民の利益に反するようなことをやれば、たちまち反対党の攻撃を受けて人望を失い、したがって政府を明け渡さなければなりませぬ。この場合には国民の前に争うのですから、妥協とか情意投合とかは行なわれないで政治が公明正大になります。

 

古山 なるほど理論はそのとおりかもしれぬが、いまの代議士は真に民意を代表しているでしょうか。じっさい代議士の選挙にはその人の人格や意見が重きをなすのでなくして、保険会社の勧誘員のような投票引受人の敏捷なのを使った人が勝つのではないか。はなはだしきに至っては、投票の売買もかなり行なわれているのではないか。一度の選挙に一万円を使う人のあるのはとうてい真面目の話でなかろうと思います。

 

中川 私ももちろん今日の選挙が必ず正直に行なわれているとは思いませぬ。しかし議会がいままでのように政府の道具でなくして、真に国政を左右するところの第一の機関となれば、選挙人も被選挙人もいっそう責任を感じて真面目になるということは確かに予想できます。特にいままでの選挙人は、代議政治の何ものたることを知らなかったけれども、これから先は新教育を受けたものがその資格を得るのですから、よほど心持ちが変わってくるだろうということは、私の大いに望みを嘱する点なのです。そこで私の切実に感じているのは、明治年間の教育が政治を度外視したことであります。今後輿論政治を完全にするためには、ぜひ政治教育を行なわなけりゃならぬ。政治教育はたんに憲法を教場で教えるのみならず、学校の寄宿舎またはクラブなどの組織をできるだけ自治的にして憲法政治の実地練習をなさしむべし。また中学以上の生徒に新聞を読ませぬというごとき狭隘なる考えを去って、むしろ当今の問題に興味を感じるように奨励すべし。地方の青年会のごときも二宮宗の派出所にしないで、自治の練習所にしたらよかろうと思う。輿論政治の前提条件として最も必要なのは政治教育です。教育は今日行なって明日からその結果があらわれるというものでない、気ながの仕事ですが、国民を改造するのにこれほど根本的な方法はないと私は確信している。

 

古山 しからば選挙が比較的公平にできるとしたところで、代議士に選挙される人はいままでのような地主連か、成金か、しからずんば弁護士くらいのものでしょう。その人たちは演説は上手かもしれないが、実際政務に通じていないでしょう。少なくとも官吏出身に比べて素人だと見なければならない。それに天下の政権をとらせて、はたして外国に負けないほどのことができますか。

 

中川 もちろん政党政治は官僚政治に比べて素人政治です。しかし素人が専門家に劣るとは定まりませぬ。かえって専門家のように細かいことに拘泥しないから大局を見て公平な判断をするものです。いままででも大臣として成功したものは、高等官あがりの専門家よりも実世間の経験をつんだ人に多かったようです。たとえてみれば、政治は家を建てるようなものです。どんな材木をいかに組み合わすかというような細かいことは専門家に任せなけりゃならぬが、客間を北向きにするとか、食堂を南向きにするとかいう大体の計画は、実際そこへ住む人でなければわからない。大臣はつまりその大体を定めるのが本職で、細かいことは法律技師たる官僚に任せるがよいのです。これも現今の議員らにはむつかしいといわれるかしらないが、じっさい政府に立つものは議員中のよりぬきであって、普通の議員ではありませぬ。いわんやこれからさき議会に出づるにあらざれば、台閣にのぼることができぬとなれば、はるかに多くの人材が翕然として日比谷に集まることは明らかに予想のできることではありませぬか。現に今日でも上級の高等官で天下の経営に志をいだいたものは、続々官界を去って代議士になりつつある。そのほか実業界からでも、教育界からでも有為の人材がたって議会に入ることは、今後ますます多いと思われます。であるから、私は、議会政治について少しも悲観する必要を認めませぬ。ただこのさい社会の先覚者たるものが率先して政党を重んじ、政党をたすけるように、早く時代の思潮を導いていくことが必要だと信じます。

 

古山 そうですか。なお考えてみましょう。

 

  そこで、中川君は二大政党がよいと思いますか。小党分立がよいと思いますか。

 

中川 それは二大政党が望ましいと思います。フランスのような小党分立の国では、各党派がきわめて小さな意見の相異から、その旗幟を別にしているのですから、いったんある大問題に関してブロックをつくって同盟しても、反対党からまた別の問題を出せば、容易に突き崩されてしまう。英米のごとき二大政党の国では、内閣の基礎が鞏固だから比較的長持ちします。しかして政府のたびたび動揺することはよろしくないから、二大政党併立がよいと思うのです。しかし政党の数よりもいっそう肝腎な問題は、その主義によって立つか、情実によって立つかという点にある。時代の思想を支配するところの主義が二つあるならば、二大政党ができるはず。主義が三つあるならば三大政党ができるはずでしょう。現にここにも古山様と新島君と私と三人の大主義がおのおの異なっているから、三大政党が成り立っている。もし君が第四の主義を出すならば四大政党になるわけです。とにかく政党に重んずべきものは主義をもって第一としなければならない。主義を論ぜずしてたんに二大政党とか、何とかさわいでいるのは無意味の俗論です。

 

  それでは政党政治の論は一段落として、新島君はどんな意見を出しますか。

 

新島 僕は政党政治には大いに賛成します。しかし今日の議会にははなはだ不満足です。なぜならば、彼らは人民の輿論を代表しておりませぬ。議会をして輿論を代表させるには選挙法の改正を要する。すなわち現今の納税の制限を撤廃して普通選挙になさなけりゃならぬ。僕は理想としてこのほかに貴族院廃止論をもっていますが、しかしさしあたりの問題として衆議院議員の選挙権をすべての成年男子の上に許したい。後には女子にも及ぼさなけりゃならぬが、今ただちに少なくとも成年男子の普通選挙を行ないたいのです。そもそも今日の選挙に弊害の多いことは先刻の御論のとおりですが、その原因は主として選挙人の数が少ないために、情実や利益の交換が行なわれるからです。選挙人がすなわち一般公衆であるということになれば、そんな手段を行なう余地がないから、やむを得ずして公明正大になるでしょう。しかし僕には選挙法以上の根本的大問題があるのです。いま著しい例をとって申せば、現今日本の租税および専売収入が──万円ある。その内で地租、所得税、営業税のごとき直接税は──万円すなわち総体の四割にあたり、関税、酒税、石油税、砂糖税、煙草および塩専売等が──万円すなわち六割にあたります。直接税はいうまでもなく中流以上にかかる税で、消費税は一般にかかる税です。貧乏人にかかる税です。特に石油、塩、外国米、砂糖等の税は貧乏人を苦しめる悪税です。日本の中流以下のものはこれがためにどのくらい苦しんでいるかわからない。しかるに日本の議会がこの問題について大いに注意を払ったことがありますか。昨今のごとき剰余金ができれば、ただちに営業税、所得税の減廃を主張するではありませぬか。これはそもそも何のためかといえば、国民の大多数なる貧乏人の利益が代表されないで、中流以上の人ばかりが代表されているからです。中川様は先に元老政治が少数政治で、政党政治が輿論政治のようにいわれましたが、実際は政党政治も今のところやはり少数政治です。階級政治です。しかも国家全体のことを知らずに自己の階級の利益のみをはかるオリガーキーです。それから見れば国家的観念を何らか多くもてる元老政治のほうがましかもしれませぬ。いずれにしても五十歩百歩の差です。

 

古山 日本の成年男子の人口と選挙人の数との比例はどんなものですか。

 

新島 成年男子の数がおよそ千五百万人、選挙権者の数が百九十万、すなわち七分一にも足りませぬ。世界中の立憲国として、こんな例はほかにありませぬ。

 

  中川君は選挙権拡張についてどういう御意見ですか。

 

中川 私は選挙権拡張に反対するどころか大賛成です。しかし物事に順序があるから、いま急に普通選挙を行なうことは好みませぬ。さしあたり現行法の、直接国税十円以上というのを直接国税二円以上に改正する案が出ているが、これでいまの百九十万人が四百四十万人に増加します。そのへんのところは最もよかろうと思うのです。

 

新島 それは少々失望ですね。中川様は少なくとも法律上に徹底した個人平等主義を主張されると思っていましたが、参政権の分配については平民の味方でないのですか。ブルジョア党ですか。

 

中川 いや理想としては普通選挙がいいと思うが、実際において日本の労働階級に選挙権をもたせるのはまだ早いでしょう。がんらい自治の制度は政治教育と伴なっていかなけりゃならぬ、というのが私の素論です。日本の議会政治を楽観しているのも、中流人民の政治思想が進んできたと思うからです。もしこの程度を考えないで普通選挙を行なえば、かえっていろいろの危険があります。一方には無責任な新聞記者とか、大道演説家などに煽動されて、乱暴論に雷同するでしょう。また他の一方には雇い主とか親方とかに強制されて、心にもない投票をするでしょう。そうなると議会政治が暴民政治または愚民政治になる。日比谷公園あたりでモッブを率いることの上手な先生たちが、政治上の大勢力になってしまう。そうなればブルジョアの利益どころか、労働者自身の利益まで壮士の食い物になります。そこで私の考えでは、今後二、三十年間、日本で安全に、有効に普通選挙制を行なう見込みはないです。

 

古山 そこへ行くと私も中川君と同論だ。今後どうしても議会政治よりほかに方法なしとすれば、できるだけ徐々に進んでもらいたい。

 

新島 しかしこんなことも考えなけりゃならぬと思います。人間はいつまでも子供扱いにしておけば無責任で終わりますが、大人扱いにしてやれば自ら教育されて大人になります。労働者に選挙権を与えるのも、それ自身、政治教育の有力な一法ではありませぬか。

 

中川 これは私も同論です。しかしいまのところは中等階級がようやくそのへんに来ているくらいのものでしょう。労働者はまだ職工組合さえつくっておらないのですから幼稚なものです。もし君が職工組合の発達を主張して政治教育の手はじめにするならば、僕はもろ手をあげて賛成します。

 

新島 貴君のお考えはよくわかりました。僕はとにかく、普通選挙を主張するつもりですけれども、中間の選挙権拡張案にも順序として賛成することを厭いませぬ。

 

  これだけで選挙権の問題は終わりにしてよろしゅうございますか。

 

古山 ちょっと待って下さい。私の意見はいつも守旧論で、社会の階級というところに重きをおくのですが、いままで討論を聴いてみると中川様の説も絶対の平等主義ではない。説は平等主義かもしれないが、結果から見ると自らこれに新しい階級ができる。すなわち今後政治上に重きをなすべき階級は、昔の士族のほかに中流の商工業者を加えたものだと見ることができるかと思うがどうですか。

 

  中川君が個人主義でも純粋の個人主義でない実際的個人主義ですから、結果がそのとおりになります。これは貴老の立場から考えてよほど肝要のことと思います。

 

古山 そうでしょうねえ。そこで選挙権の拡張の程度はこの問題と大関係があるに相違ないが、どんなものですか。これは西洋に定めて実例があるんだろうから、理屈でなしに歴史上からひとつ説明してもらいたい。

 

  それでは手近いところでこの英国の例をお話しますが、この国では第十九世紀の間に二回の選挙権拡張がありました。第一回は一八三二年で、第二回は一八六七年です。ぜんたい英国で日本の士族にあたる階級はいわゆるカンツリー・ゼントルマンであろうと思いますが、これらの人は封建時代の武士の血統を受けており、かつ土地を多く所有していたから、しぜん地方の有力者となり、選挙権のごときも大貴族にあらずんばすなわちこの種の人が独占していた。商業に身を起こした人で、社会に重きをなそうと思えば、土地を買ってゼントルマンの仲間入りをしなけりゃならぬということになっていた。ところが一八三二年の改正で、選挙権は中流の商工業者にも附与されるようになりました。それから一八六七年の改正はさらにこれを推し広めてほとんどすべての成年男子に及ぼし、労働者までが選挙権をもつことになったのです。しかし代議士になるには金がいるし、また代議士になったうえで勢力をもとうとすればなおさら金がいりますから、誰でも代議士候補に打って出るということはできない。いまでも多くの議員は大地主かまたは実業家が多い。近ごろは労働者でも職工組合の後援で選出されるものがあるけれども、これはきわめて少数です。大臣にでもなろうという人は、たいてい財産家の家に生まれて、少壮のときから政治に関係することのできた人たちです。

 

古山 そうすると選挙権を拡張しても、じっさい政権を握るものはやはり中以上の人だというてさしつかえないですか。議院政治も発達すれば官僚政治と同じ結果になりますか。

 

  選挙権を拡張すればするほど、中以下の階級の利益をかえりみなければならないようになるから、官僚政治とは大いに違いますが、しかしその中以下の輿論を指導し、かつこれを実地に行なうものは財産階級から出ることになると思います。日本では教育費が比較的安いから、英国とは事情がだいぶ違いますけれども、とにかく家に多少の財産がなければ学校へも満足に行くことができないのは事実ですから、貧乏人が政治界に活動するということはできませぬ。すなわち私の前に申し上げたとおり財産相続が行なわれる間は、真の平等ということはあり得ないのです。

 

古山 中川君はこの説明に満足しますか。

 

中川 実際そのとおりでしょう。しかし私の説は貴老の階級主義とは大いに違います。貴老は家柄を重んじておられるけれども、私は実力を貴びます。卑賤の人でも勉強して財産をつくれば代議士にも大臣にもなれる。たとい当人はなれぬとしてもその子は一階級上の人として活動することができる。それだから社会に階級があることはあるけれども、これが下から上まではしご段になっていて、奮発すれば下から登ることができる。なまけていれば上から落ちることになる。ここが昔の士族制度と異なって大いに進歩的な点です。それから政治上の権力も、社会上の地位と同じく勉強したものが執り、不勉強のものが失うのでありますが、しかし選挙権が一般人民にあるときは、政治家は輿論にしたがわなければならないから、自分らの利益を中心として政治の方針を立てることはできない。最大多数の最大幸福を標準にしなければならない。これが議会政治の官僚政治にまさる点です。

 

古山 それで衆議院のほうはわかりましたが、貴族院のほうはどうですか。

 

中川 新島君は先刻、貴族院廃止論をにおわされたが、私は遠い将来は知らぬこと、今後私の限界の及ぶかぎりではこれを大切な機関と思っています。日本の貴族院は華族と勅選議員と多額納税者から成り立っているが、先祖の遺産によって坐食しているばか殿様は別問題として、そのほかの人は自分の衣食に苦労せずして、ただ国民の利益を進めんとするものか、しからざれば国家に功労ある老官吏または学者、軍人、技術家などでありますから、たとい直接に国民の多数を代表しないでも、国民中の知識を集めたところと見ることができる。それだから衆議院の院議が急進に走った場合に忠告を与えるのは結構なことです。特に私は政党政治を原則としたい考えですが、今日の政党が完全なものでない以上は、時として真に民意を代表しないものが衆議院の多数を占めるということもありそうに思う。かくのごとき場合には貴族院が警告を与えていったん議会を解散せしめ、国民の再考を促すというのは最も大切だと信じます。ただし貴族院はつねに忠告者の態度をとらなければならない。衆議院をそちのけにして政権を張ろうとすれば、昔の階級政治に帰るから国民の不満を招き、平地に波瀾を起こす結果におちいるだろうと思うのです。

 

古山 なるほどこれは私も同論ですが、新島君はどうですか。

 

新島 私は社会に階級というもののあることを好みませぬから、貴族院はさておき、公侯伯子男の家柄を設けたことに反対します。人間の価値は各個人の人格によって定まるはずのものであって、決して偶然の出来事たる家柄とか血統とかによって先天的に定むべきものでありませぬ。偉人の子でもばかはばかです。孤児院から出ても偉人は偉人です。ことさらに甲を貴び、乙を卑しむという理由はありませぬ。

 

古山 しかし君がある人の世話になったと仮定してその人が死んだらその子に対して恩返しをするという気にはなりませぬか。

 

新島 社会の公益に反しないかぎりその子を助けたいと思います。

 

古山 しからば国家に功労のある人の子孫に栄爵を与えて故人の名誉を永遠に伝えるのは当然ではありますまいか。

 

新島 偉人の子孫を国民が尊敬するのは自然の人情かもしれませぬが、何もその人に華族の称号を与えて他の人民から異なった特別の階級をつくる必要はなかろうと思います。もとより称号を廃すれば、先祖の名誉を永遠に伝えることはできますまいが、本来その名誉に相当しないような子孫ならばこれを失うのが当然です。強いてばか息子を尊敬するにはあたりませぬ。もっともこれが称号だけの問題ならば、人間平等の思想の発達するとともに金箔が剥げてしまうでしょうけれども、ここに特別の参政権という実質上の問題がついてくるから、大いに反対せざるを得ないのです。

 

中川 そこで議論が栄爵の問題から貴族院の問題に移ったようだが、国家の政治を議するのに一院制ということはよくない。第二院をつくって第一院の欠点を補うというのが憲法政治の必要ではありませぬか。

 

新島 それは代議政治の真に発達しない間だけ必要でしょうけれども、それならば勅選議員その他の有識者を集めればよいので、そのほかに血統上の参政権を設けるのは余計なことです。

 

中川 その点は私の主義からいっても理論上不都合ですが、しかし実際論として見ると、華族の家柄も一定したものでなくして新華族をつくっていく以上は、貴族院において旧華族のばか殿様が幅をきかすことはあり得ない。だいたいにおいて貴族院の実権は新華族、すなわち勅選議員同様の人か、さもなくば旧華族中の実力ある人々の手に握られるのです。そうして見れば、いま急に華族の制度を廃するには及ばぬと思います。

 

古山 私どもから見ると旧華族にも非常によいところがある。もちろん中には感心しないのもあるけれども、とにかく名家に生まれた人は古い家風の内に育っていくから、おのずから典雅高尚な気風をそなえている。この高尚な気風というものは、国民の徳性を涵養するうえからいうてもすこぶる大切なことです。もし日本の上流にこの美風がなくなって成金や新華族の野鄙な風のみが跋扈するようになったらとうてい国民の気品を高めることはできますまい。私は貴君方のいうような万民平等ということができるか否かを疑うけれども、もしできるならば、貴族が平民の卑賤な風に同化するのでなくして、平民が貴族と同等の高尚を養うようにありたい。すなわち貴族が平民なみにならないで、平民が貴族なみにならなけりゃいかぬと思っている。したがって私のこんにち願うところは新華族や成り上がりの財産家の子弟が、旧華族の美風に化せられて高尚な人間になることです。この意味から私は、華族の制度を保存し、また貴族院に列する権を与えておくことが肝要だといわざるを得ない。新島君のごときも、成金党の我利我利主義がいやならばむしろ我輩の説に賛成しそうなものじゃないか。

 

新島 私も成金に比ぶれば、華族のほうがいいと思いますが、しかしいわゆる華族というものは、高尚の裏に傲慢を蔵し、典雅の裏に柔弱を蔵している。人に会えば先方からお辞儀をしてくるものと心得ている。不幸な貧乏人を見れば野鄙だと軽蔑してしまう。こんなのは美風でも何でもありませぬ。これを保護奨励する必要がどこにありますか。

 

古山 どうせ不完全な世の中だから、君のいわれるような理想的なことは望んで得られない。つまりこのへんで満足しておいてはどうです。

 

新島 私もいまただちに貴族院廃止を唱える考えはありませぬ。いまのところでは貴族院が中川様のいわれるように賢明に働き、また貴族が古山様のお説のとおり高尚になってもらいたいです。

 

  それではここで政治論の部を終わりとしましょう。

 

このときあたかも五時に近かったから、グランチェスターの村へ引き返して、林檎の実る果樹園の片隅に茶を飲むことになった。バイロンスプールを去ろうとして立ち上がったときには、夕陽が美しく輝いて村の教会から鐘の声が聞こえ出した。

 

 

【解説】(上村泰裕)

 

この対話篇の著者・上田貞次郎1879-1940,経済学者,東京高等商業学校教授。拙稿「上田貞次郎に関する資料」参照)は1914年当時、紀州侯爵家の世子・徳川頼貞(1892-1954,音楽学専攻)の教育取締としてケンブリッジに滞在し、自らはキングズ・カレッジの研究生として政治思想史を研究していた。前年の10月から12月にかけては、ロンドンでWebb夫妻(Sidney Webb,1859-1947, Beatrice Webb,1858-1943)の講義も聴講している。キングズ・カレッジでは政治学者の G. L. DickinsonGoldsworthy Lowes, 1862-1932)と交流があり、19146月の日記には、Dickinson Justice and Liberty: A Political Dialogue1908年刊)を読み、日本版Political Dialogue の執筆を思い立ったと記されている。「此流儀で行けば読者をして論点を捕へしめるのに頗る有効なるのみならず、自分を傍観者の位置に置て色々の主義を批評することが出来る」と考えたのである。

 

19146月の日記によれば、登場人物は古山巍・中川成吉・新田進一の三人、舞台は箱根の宮ノ下ということになっている。古山は「貴族院議員、藩閥外の旧型官吏で知事まで進んでから退隠した。漢学の素養ある人。之を国家主義、貴族主義、家族主義の代表者とする」とあり、中川は「前代議士、銀行頭取、四十五才。self made man. 英学の素養あり。Mill, Spencer を知る。此人に自由主義を代表させる」とある。また、新田については「先月独逸から帰て来た未来の代議士」ということになっている。そして、構成は「貴族政治と平民政治/自由放任と保護干渉/家族と国家/宗教及教育/外交及軍備/農業及工業/婦人と社会/社会組織と個人の徳性」とする予定だった。しかし、1011日の日記では、「発端はやはりケンブリッヂの宿で林檎の花の散る頃に夢を見たといふことにする。三人の論客に今少し同時代の一般日本人の考を話させる。根本主義の章の後に国家の組織、経済政策、外交及軍備、教育及倫理としたい」と改められている。

 

さて、帰国後の1915年に執筆された本文では、古山巍は70歳近くで亡父の旧友ということになっている。当時70歳とすれば弘化元(1844)年生まれということになるので年齢的には合わないが、あるいは著者の父・上田章1833-1881,儒学者・紀州藩士)の親友・三浦安1829-1910,紀州藩士から貴族院議員・東京府知事などをつとめる)がモデルだったかもしれない。中川成吉については、45歳とすれば明治21869)年生まれであり、東京高商の卒業生のなかに似たような人物がいたはずである。これも年齢的には合わないが、あるいは紀州出身の中井芳楠(1853-1903,上田章門下で慶応義塾に学び、横浜正金銀行初代ロンドン支店長をつとめる。著者は東京高商卒業前の一時期、中井の推薦を得て横浜正金銀行に就職することを考えていた)のことが念頭にあったかもしれない。新島進一の年齢についてははっきり記されていないが、学位を得て帰朝する青年紳士とあるので20代後半と思われる。ところで1914年秋には、小泉信三(1888-1966,経済学者、慶応義塾塾長をつとめる。下記エッセイ参照)がドイツからケンブリッジに到着している。小泉は「某県豪農の子」でも「社会主義者」でもないが、もし彼がモデルだとすれば、明治211888)年生まれの26歳ということになる。ちなみに「僕」は明治121879)年生まれで、当時35歳であった。著者も述べているように、三人の登場人物はそれぞれの世代を代表するとともに、後発国日本の文脈上に置きなおされた保守主義・自由主義・社会主義を代表している。当時の著者自身は、自由主義と社会主義の中間のどこかにいたと思われるが、本文からもわかるように保守主義にも相当の敬意を払っていた(ところで、総理大臣の生年の推移を見ると、1885年から1925年まで、40年の長きにわたって古山世代の支配が続いたことがわかる。中川世代はわずか10年(19261935年)であり、その後数年間の変調期を新島世代が担ったことになる。そして戦後の吉田茂は、この対話篇の著者と同世代であった。各世代にそれぞれのイデオロギーをあてはめてみると、日本の近代史のしくみが少しわかったような気になる)。この対話篇は、実際には未完に終わり公刊もされなかった。しかし、ここに語られた内容は、のちに『英国産業革命史論』(1924年)や『新自由主義』(1927年)で歴史的・政策論的に展開されることになる。その核心となる着想が、この対話篇にちりばめられているように思われる。なお本文は、『上田貞次郎日記(壮年篇)』上田貞次郎日記刊行会,1964年,510-535頁に拠りつつ、かな遣いを現代式にあらため、難しい漢字をかなにし、二三の読点をおぎなった。

 

200182日。2004529日改稿)

 

 

参考:小泉信三『現代人物論──現代史に生きる人々』角川新書,1955年,7882頁より

 

上田博士と親しく交わるようになったのは、およそ二十七年前、一九一四年の秋、しばらくイギリスのケムブリッジで同じ下宿に滞在した時以来である。

 

当時故人は、その旧藩主たる紀州徳川侯の世子頼貞君すなわち現侯爵の教育指導者として、前年来同侯と共にケムブリッジに来ていたのであったが、遽かに校命によって帰朝することになったところへ、偶々欧州大戦破裂のため、ドイツからイギリスへ退去して来た私が、同じく紀州藩士の倅であるところから、後を引き受けてくれないかとの依頼であり、私も慶応義塾の許しを得てこれを承諾した。そうしてロンドンからケムブリッジへ引越して、出発前の上田博士としばらくの間同宿したのである。

 

幾日位同じ屋根の下に住んだのであったか、今、日記をくり返して見てもはっきりしないが、よく一緒に、ケムブリッジの町を繞って流れるケム川でカヌウを漕いだり、自転車を田野の間に乗り廻したり、夜はまた食後安楽椅子に倚って戦争問題や社会問題を談論したりしたのは、忘れがたい記憶になっている。秋はまださほど深くはなかった筈であるが、煖爐に火を入れて話した記憶もある。上田氏はタバコのパイプとヰスキイソオダのグラスとを両手に持ち、宿の主婦を顧みて、「これが僕の良き友だ」と笑談をいいながら爐のそばへ寄って来た。校庭の美しいキングスカレッジに、政治学者ロウス・ディッキンソンを一緒に訪問したこともある。今日有名な経済学者ケインズは、当時はまだ白面の少壮学者で「エコノミック・ジャアナル」の編輯をやっていた。私は学生としてその講義を聴きに行ったが、同年輩の上田氏は、時々訪問して話して来たようであった。

 

……ケムブリッジに同宿していた頃、博士はイギリスのフェビヤン協会の運動に興味を持っていた。この運動は、一方でイギリスの自由主義に対する不満を現わし、他方で、大陸から入って来たマルクス主義に対して反対するという意味を持っていた。どこまでも着実な、現実的な社会政策を積み重ねて行くことによって究極的に社会主義社会を建設しようとするもので、マルクス流の階級闘争説を排し、社会主義というものがただ一回の機会に一挙に実現されるということはあり得ないと主張した。また革命的興奮よりも冷静なる理智に訴えるというところから、熱よりも光を重んずるという意味のことを唱えた。その運動の方法としても、単独に特殊の党を造るよりも、有らゆる階級や団体に滲み込んで行って、謂わばこれをフェビヤナイズするというやり方に出たことは、おそらく上田博士に面白く思われたであろう。後に博士が日本で新自由主義を唱え出した時に、自分はかならずしも新自由主義の党を組織することのみを望むものでない、むしろ新自由主義の思想が我国の保守党にも社会党にも「滲み込む」ことを望むといったのは、知らず識らずフェビヤンに学んだのであったかも知れぬ。それで、博士は同協会に入会はしなかったが、一時会誌の購読者位にはなっていたかと思う。自分でも、一時これに共鳴してこの説(企業の社会化)を取らんとしたことがある、と告白している。

 

しかし、博士は結局これに賛成することが出来ないで、ついに大正十五年、雑誌「企業と社会」を創刊し、これによって所謂新自由主義を唱えるに至った。

 

元来フェビヤニズムはイギリスの自由主義に反対して起ったものであるが、日本には自由主義というものはまだない、と上田博士は見たのである。日本の産業革命は政府の指導誘掖によって行われたものである。すなわち産業革命とマアカンチリズムとが一緒になっているというのがその解釈であった。したがって博士が力を用いなければならぬと考えたのは、この重商主義の余弊を一掃するということであった。すなわち外国と交渉してわが製品のために市場を開かしめると同時に、われもまた外品の輸入に対する障害を撤去して貿易を盛んにすると共に、国内においても各種の国家の恩恵的干渉を排除することが急務であるとした。もちろん社会政策として国家が為さねばならぬことは「山のように」あることを認めたが、しかし社会主義には失望したといっている。博士は己れの主張がマンチェスタア派のそれに近似していることは自ら認めた。ただいわゆる新自由主義は、単純なる個人の自由、個人が他の個人または政府の干渉を免れるということだけを理想とするものでなく、わが国民一人々々をして充分にその天分を発育せしむるの自由でなければならぬとしたのである。

 

 

参考:小泉信三『私とマルクシズム』角川文庫,1957年,113頁より

 

一九一四年の秋、開戦のドイツを退却して再びイギリスに帰った機会に、私はケムブリッジで、故上田貞次郎と同宿して幾日か同じ部屋で起居をともにした。上田は元来ジョン・ステュアアト・ミルに養われたものであったが、そのミルとも無関係でないフェビヤニズムにも、一時興味を持った。かれはこの一派の言説の香気なく色彩なきを評して官吏社会主義などと言ったこともあったが、イギリスの自由主義に対して起った批評としてのその価値は認めていた。私と戦争や社会問題や日本の明日ということについて、毎晩語りあったその間に、「一つ一緒にフェビヤン・ソサイエチイに入ろうか」とかれが言い出したこともあった。それは実行しなかったが、しかし私は申込んで、会の出版物の貰える subscriber というものになり、爾来帰朝ののちも久しく会報(The Fabian News)その他の刊行物の送付を受けることになった。

 

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