上村泰裕「祖父の文章を読む」

 

祖父(上田良二1911-1997,物理学)が亡くなって、形式主義をきわめた神道式の葬儀をながめながら、祖父ならばこの場面を題材にして比較宗教論を楽しく展開したに違いないのに、と思ったら悲しくなった。祖父の話はいつも単純素朴で、ときに常識はずれだったが、自分で理屈を組み立てる喜びに満ちていた。

 

「私は自分を全く不肖の息子だと思っている。中学時代に歴史で落第点をとり、父から『歴史は面白いはずだ』と言われたことがある」(「私の見た父の臨終」)。祖父の父・上田貞次郎(1879-1940)は歴史家でもあったが、祖父は歴史で落第点をとったのだ。私は、物理学者の息子であり孫でありながら、理科や数学で落第点をとり、むしろ歴史のほうが好きだったので、祖父のこの言葉を読んでとても心づよく思った。

 

祖父は理科に興味のない孫に、物理を教えたりしなかった。そのかわり、祖父の書く文章の添削をさせた。最初に添削の仕事を頼まれたのは小学五年生のときで、得意になってやったと思う。はじめは送り仮名を新仮名遣いになおすのが仕事だった。やがて、祖父のあまりに簡潔な文章を補足したりするようになり、最近は文章の内容についても議論するようになっていた。孫の適性と不適性とを的確にとらえたうえでの、おしつけがましくない教育だったのだと、今ごろになって気づいた。

 

これも最近になって気づいたのだが、祖父の文章は単純素朴に見えて、じつはとても運動神経のよい文章だ。自分が主張すべきところで、ここぞとばかり、誰にも遠慮なく主張する。思いつきで言っているのではない。言わずにはいられないのだ。

 

最晩年の文章のなかでいちばん迫力があるのは、「常温核融合」に関するものだ。常温核融合は、数年の騒動を経て、どうやら間違いだったらしいということに落ちついたようだ。もちろん、門外漢の私には、ほんとうのところはわからない。しかしいずれにせよ、祖父が物理学者として最後の関心を、この「ありそうもない」現象に注いだのは確かなことだ。

 

祖父によれば、理論に合わない幽霊現象を「非科学的」との理由で最初から黙殺してしまう人は、ほんものの科学精神をもった科学者ではない。科学精神とは、とらわれない好奇心と冷静な観察眼のことであり、それはときに科学理論をふみこえて前進するものだ。失敗を恐れて未知の世界に挑戦しないのは、まだ日本の社会に科学精神が根づいていない証拠だ、という。そして、いつの日にか、日本にもほんものの科学精神を育てなければならない、という。

 

祖父の文章を添削しながら、科学精神と理論と真理との関係について、科学と社会の関係について、科学政策のありかたについて、いろいろと考えさせられた。祖父が常温核融合についての見通しを間違ったのではないかと思う人もあるかも知れないが、私の考えでは、祖父は科学者として全く正しいやりかたで「間違った」のだ。科学に対する思い入れと、社会をよりよくしていこうとする改良精神。祖父のなかでは、科学精神と改良精神、批判精神はひとつながりのものだった。幸福な啓蒙の思想だったと言うべきかも知れない。

 

もう一つ、祖父が最後に主張していたのは「エリート教育」についてだった。戦後の民主教育は平均的人材を大量生産して急速な経済発展に貢献したが、次なる発展のためには「灯台を建てる人」が育つような環境をつくる必要がある。それには、子供を規格化してしまう悪平等主義をやめて、エリート教育を行なわなければならない、というのだ。

 

祖父は独創を尊び、単純素朴でも自分の頭で考えていることを誇りにしていたが、祖父の教育観や社会観は、あきらかに曽祖父の思想をうけついだものだ。祖父は自分ではそのことに気づいていなかったが、それを指摘すると、いつの間に教えられたのだろう、と驚いていた。

 

曽祖父は、西洋学問の翻訳にとどまることなく、現実の日本社会を科学的に分析しようと試みた経済学者だが、思想的には、イギリスの自由主義、保守主義、社会主のそれぞれの最良の部分から影響をうけていた。曽祖父の思想をおおざっぱに要約すれば、後発国日本においては「個人の自由」と「自発的協同」を同時に確立しなければならない、ということだ。実業家は、政府の指導干渉から脱して自由に創意を発揮すべきであると同時に、一介の町人ではなく天下の公人として社会的責任をも担わなければならない、という。

 

祖父の主張もこれに似ている。素質のある子供が自由にその才能を開花できるような環境をつくると同時に、彼らにエリートとしての社会的自覚を促さなければならない、という。祖父も、個人の自由と自発的協同を同時に主張しているのだ。それは、貴族的自由主義とでも呼ぶべき主張であって、能力のある人はどんどん自由に金儲けをすればよいという、昨今流行の俗流自由主義とは全く違うものだ。エリートの能力には、金銭よりもむしろ名誉によって報いるべきだ、というのが祖父の考えだった。祖父は、曽祖父を通じてジョン・ステュアート・ミルにまでさかのぼる自由主義の系譜をうけついでいたのだと思う。もちろん、祖父はおそらくミルなど一行も読んだことはなく、曽祖父の著書でさえ『英国産業革命史論』一冊しか読んだことがないと語っていたのだが。

 

曽祖父は、十歳の少年だった祖父のことを、日記に次のように書いている。「良二は正一よりも観察力、推理力に於て優り、学校の理科の教師は褒めて居るさうだ。又彼は機械等に趣味を有して居る。併し実行力に於ては正一に及ばない。彼は温良で如才ないが勇気には乏しい。先づ工科でもやらしたらと思ふ」(『上田貞次郎日記』19226月の記述)。勇気には乏しかったが、草花を育て、にわとりを飼い、工作も大好きだった理科少年と、その様子を温かく見まもっていた曽祖父と曽祖母のことを思いめぐらすと、ほほえましくなる。「いつの間に」とも気づかぬうちに、たくさんの教育が行なわれたに違いないのだ。祖父は病床で、死んでからお花畑のなかを駆けてゆくと、お父様とお母様が迎えてくれるのだ、と語っていたそうだ。私も、そうであってほしいと希った。

 

 1998319日執筆。109日改稿)

 

上田良二「西川先生の論文校訂」

上田良二「応用基礎研究のすすめ」

上田良二「新しい装置の開発」

上田良二「超微粒子──未来技術はいかにして生まれるか」

上田良二「科学者と神様」(『表面科学』第7巻第2号、1986年)

祖父が設計した電子回折装置(1940年)

 

張立徳《ナノテクノロジーの戦略的位置と中国ナノテク産業発展のチャンス》(中国語)

「ナノ材料は昔から自然界に存在していたが、…まさに意図的にナノ材料を人工合成できるようになったのは、20世紀の60年代以降のことである。1963年、日本の科学者・久保亮五は、粒子がナノサイズまで小さくなるととつぜん性質が変わることを初めて予想した。1967年〔註:実際にはもっと早い。上記「超微粒子」を参照〕、日本の科学者・上田良二は、蒸発法によってナノサイズの金属粒子を初めて人工的に作り出した。当時、日本の科学者は、ナノサイズの粒子のことを超微粒子と呼んでいた。」

 

北京方程納米公司《時代の飛躍はいつも材料革命をともなう》(中国語)

「日本の物理学者・上田良二は、電子顕微鏡を研究していたときナノサイズの材料を見つけ、ナノ材料の特殊な性質の系統的研究を開始した。」

 

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