「この小節〔10.3.4 再検討・仕上げ〕に書いたことに関連して、上田良二教授の書かれたものの一読を勧める。時代が変わったので、こんにち、西川正治先生(当時の上田教授の研究指導者)のやり方をそのまま踏襲する勇気のある指導者はいないかもしれない。しかし、同じ精神は受けつがれているべきである」木下是雄『理科系の作文技術』
私がはじめて論文と名のつくものを書いたのは、東大で西川〔正治,1884-1952〕先生の助手をしていた時です。西川先生といっても御存知ない方が多いかと思いますが、最近、核研から本郷の物理教室に移られた西川哲治氏のお父さんです。私はそのころから電子回折の実験をしていましたが、大学を出たばかりで張り切っていました。約一年あまり実験や計算をして、ちょっとした仕事がまとまったので、それを英文で書きあげました。
Y先輩の話によると、西川先生の英文校訂はとても厳格で時間をとるとのことでした。私は英文などで時間をとられてはかなわないと思い、友人のM氏に原稿を送って、英文の校訂を頼みました。M氏は英国で教育を受け、しかも物理を専攻した人だったので、この人に頼めば間違いないと思ったのです。M氏から返送された原稿にはひどく筆が入っていましたが、同封された手紙には「君の英文は英国人によくわかります」と書いてありました。私はすっかりうれしくなり、一秒も無駄にしたくないような気持ちですぐに清書を作り、先生のところに持っていきました。
原稿を受け取られた先生は、うれしそうな顔をされ、「もうできましたか。拝見しておきましょう」といわれました。私はM氏に英文をなおしてもらったことも先生にお伝えしました。先生もM氏を御存知だったので、英文で手間をとるはずはないから、二、三日中には発表についての指示があるだろうと期待していました。
しかし、先生は何もいわれませんでした。一週間ほどのあいだは非常に待ちどおしく、先生が来られて鍵のあく音がすると今日こそはと緊張するくらいでした。ところが一週間はおろか、一か月たっても二か月たっても先生は何もいわれないのです。こっそり先生の机の引き出しをあけて見たら、私の原稿の上にはすでにほこりがたまっていました。私はちょっと腹立たしい気持ちになりましたが、先生に論文のことをお聞きする勇気もなく、次第に忘れてしまいました。
それから二年以上もたったある日のこと、先生はその古い原稿を示され、「これから校訂をします」といわれました。私は「今ごろになって!」とあきれながらも、先生と向かい合ってすわりました。先生は、「内容はよいと思うが、このままの文章では印刷にまわすわけにはいかない」といわれました。私は先生より英語のできる人になおしてもらったのに、何をいわれるのかと思いました。
先生はまず題目を読み、この題ではこれこれの意味になるから、内容としっくりしない。「もう少しよい題はないでしょうか」といって、目をつぶって考えこまれました。先生のいわれることは一つ一つもっともで、反抗する気持ちはいっぺんに消し飛んでしまいましたが、先生は目をつぶったままなので全く困りました。仕方なく他の題を考えて、これではいかがでしょうかと伺うと、この題ならばこんなところが強調されているとか、こんなふうに書きかえれば少しよくなるとか、いろいろのことをいわれ、今日はこれまでにしてまた明日にしましょうとのことでした。じつに題目だけで二時間近くも議論し、それでもまだ何もきまらなかったのには驚きました。
私は家に帰って題目について考え、また論文全体を読みなおしてみると、全く意味のわからないパラグラフが、二、三か所あるのに気がつきました。どうして自分がそんなことを書いたのか、その記憶さえもないのでした。これでは先生に問いつめられたら、論文校訂などいつになって終わるかわからないと思い、大急ぎで消したり書き足したりして、翌日また先生と向かい合ってすわりました。
それから毎日、校訂が続きました。一日に二、三時間も討論するのですが、よい日で一頁くらいしか進みません。悪い時は逆戻りして、一度すんだところまで根こそぎ書きなおしをさせられました。ではなぜそんなに時間がかかったかを、つぎに説明しましょう。
先生は一行の文章を読むと、まず文法上の誤りをなおし、また意味のあいまいなところを明らかにされました。そのうえで、その文章の意味を厳格に吟味し、それがいま書こうとしている結果と一致しているかどうかをこまかく検討されました。先生の考え方はじつに精密で、あたかも天秤の左皿に書くべき内容をのせ、右皿に書いた文章をのせて、完全なつりあいがとれるまで文章を切り盛りするというふうでした。
このように精密にやられては、日本語でもかなわないところですが、英語の場合は全く参ります。表現法を十分に知らないため、多少は意味の違う文章で代用させてあることがきわめて多いのです。先生はそれを許さず、どんなに時間をかけても、内容ずばりの文章になるまで努力されたのです。
一番適した単語を選ぶためには Thesaurus などで多数の同義語をならべ、さらに辞書によってその意味の異同を検討し、また類似の文章をいくつも書いて、その中から一番よいのを選ばれました。あまりに暇を食うので、外国人の文章をそのまま借用しておくと、文章そのものはよくてもここの意味とは違うといって、消されることが多かったように思います。
先生の校訂を受けた文章は、一つの考えが一つのセンテンスに対応し、全く簡単で平凡という感じになりました。一つ一つのセンテンスができると、センテンスのあいだに意味の重複はないか、跳びはないかと調べられました。重複は少ないが、跳びはしばしばありました。書く人は内容を知っているから、跳びがあっても頭の中でおぎなって読める。しかし、読む人は跳びがあると理解できない。特に書きはじめの文章がやぶから棒だといって、一、二行を付け加えられたことがよくありました。
論文は読む人のために書くのだから、誰が読んでもすらすらと頭にはいるように書け、といわれました。ある時、"It is well-known..." と書いておいたら、「これは、あなたがたには well-known だが、ほかの読者にもそうでしょうかね」と問われたことがありました。これなど、読者の立場で書くということのよい例かと思います。
センテンスが集まってパラグラフができると、おのおののパラグラフの内容を検討し、重要なことがよく強調されているかどうかを考えさせられました。例えば、比較的に古く得られた結果は印象が薄くなっているので、重要なことでも文章の上では十分に強調されていないことが多いのです。これに反し、新しい結果は近視眼的に焦点が合っていて、付加的なことでも長い説明がありがちです。原稿を二年間寝かせておいたあいだに意味がわからなくなってしまったところは、大体において新しく得られた結果をあわてて書いたところでした。
文章が粗雑だと、おのおののパラグラフの主題が何かと問われても答えられません。分析不十分な考えがあちこちに分散し、重複があることも少なくありません。文章を精密化していくと、自然に考えが整理され、主題がはっきりとしてきます。西川先生はじつに根気よく、文章を通じて考えを分類し整理することを教えられました。
最後に、Discussion
では結論をはっきりと導くようにといわれました。これは当然のことですが、私の論文はそうではありませんでした。まず結論らしいことが述べてあって、それについてなお検討すべき余地があるということを discuss してありました。これも悪くはなかったと思いますが、そのような書き方では何が結論かわからないといわれました。いまになって考えてみると、先を急いだあまり、次の論文の Introduction に書くべきことまで Discussion に書いてしまったのだと思います。
私の最初の論文の校訂は一か月近くもかかりました。最後の日に、先生は全文を通読され、「なめらかではないが、どうにかわかるようになった。この論文もおおぜいの人に読まれるのだろうから……」といわれました。
その後、その論文は多くの人に読まれたとは思えないので、手間をかけて下さった先生には相すまないような気もしますが、先生の御努力は無駄ではなかったと思います。私のように文章に対するセンスの欠けた者が、先生にしぼられなかったら、いつまでも無責任な書き放しをして、少しくらいの批判を受けても気づかずに過ごしていたことでしょう。私は西川先生に教えられて文章がうまくなったなどとはいいません。私の教えられたことは、読者にわかる文章を書くためには容易ならぬ努力が必要だということです。
【出典】上田良二「論文を書くにあたっての心構え」(『日本物理学会誌』第16巻第5号,1961。日本物理学会編『Journalの論文をよくするために──物理学論文の著者への道』増訂版(日本物理学会,1975)に再録)の第2節をもとにして書かれた、上田良二「西川先生の論文校訂」『雑文抄』(私家版,1982)。ただし、前者をも参照し、細部の校正を行なった。
参考T:上田良二「西川正治先生と私」(1997)『続・雑文抄』(私家版,1998)より
西川正治先生(1884-1952)は私の恩師である。直接の指導を受けたのは大学を出てからの十年足らずだが、先生の教えは今日でも私の頭の中でいきいきとしている。先生は学者的で地味な性格だったから一般に広くは知られていないが、日本の近代結晶学の生みの親、育ての親として専門家のあいだで尊敬されている。近代結晶学が何をする学問かについても知らない人が多いが、物質中の原子の配列を研究する学問である。今日のコンピュータの微細な素子は結晶であり、その基礎研究はすべてを結晶学に負っているといえる。
……〔1934年に〕私が助手になると間もなく先生は、大阪大学助教授に栄転された山口太三郎先生の残して行かれた電子回折装置を示され、「これはまだ捨てるには惜しいと思うのですが、これで何かできないでしょうか?」といわれた。その言葉は、あたかも私を有能な研究者と見なして、古い装置の有効な利用法を相談するという調子だった。私は、先生が新鮮な目的を明示して「これこれの実験をせよ」と指示されることを期待していたから、あてが外れてがっかりした。先生はその装置のすべてを私に任せ、その扱い方についても何も教えて下さらなかった。
仕方がないから山口先生の上京を待って、使い方を教えていただいた。研究題目も見当がつかないので、とりあえず山口先生がその装置で発見された「山口効果」の実験を続けることとし、その理論的解明を目標にした。そのために、ベーテ〔Hans Albrecht Bethe, 1906-2005〕の動力学的理論という難しい論文を二か月もかかって読み、理論的解明に必要な実験を必死でやった。この理論をここで解説するわけにはいかないが、電子回折のもっとも基礎的な概念を含むものであり、この勉強は後々の研究に大いに役立った。
西川先生はしばしば実験を見に来られたが、結果をお目にかけると、時には「面白いですね!」とか、また時には「なぜでしょう?」とかいわれたが、いっこうに要領を得なかった。私は先生がはっきりと指示されないのが不満で、先輩の福島栄之助先生に「先生が何も教えて下さらないから心細い」といったら、「西川先生は日本一の教育者だ。そんなことをいうと罰があたるぞ!」としかられた。
私が助手になった年の夏から先生は国際会議出席のために渡欧され、約半年の後に帰国された。私はそのあいだに仕事をまとめ、英文の論文を書いて、その原稿を帰られたばかりの先生にお渡しした。先生はにっこりとして、「もうできましたか」とうれしそうに受け取られたが、その後、何のお沙汰もなかった。先生は私の原稿を二年以上も机の引き出しに寝かせておき、私が忘れたころになって、校訂するといわれた。その校訂はじつに厳格で、私の一生に受けた最大の教育だった。
菊池パタン発見のころは、先生も発表に一刻を惜しまれたに違いない。それはプライオリティーが重要だからである。私も早く発表したかったが、先生は時間を問題にされていない様子だった。たぶん、プライオリティー以上に私の教育を重視されたのである。
若いころのことを思い出すと、私はものごとを深く考えない性格ではあったが、とにかく題材だけは自分で見つけだして実験をしていたから、先生は私のするに任せて口をはさまれなかったのだと思う。他方、研究全般についての考え方の粗雑さを、文章の校訂を通して徹底的に鍛えられたのであろう。今にして思えば、先生は私の長所、短所を見ぬいて知らぬまに教育されたのだ。そのことは、私自身が学生を指導する身になってやっとわかった。福島先生が「日本一の教育者」といわれたのもこの点だったのである。……
参考U:平山司「上田良二先生の思い出」上田記念事業会編『上田良二先生を偲ぶ』(上田記念事業会,1998)より、著者の許可を得て転載。
……次の思い出は、先生の論文校正である。若い研究者に自由に実験をさせた先生は、この段階になるとびっくりするほど厳しい先生に変身した。学部卒でそれまで論文投稿の経験のなかった私は、初めて英語らしき言語で論文を書き、先生に校正をお願いしたのである。私の原稿に目を通して下さった先生は、こうおっしゃった。「私は40年間教授をやってきた。しかし、こんな出来の悪い論文は初めてだ。私には論文の書き方を指導する責任があるから、これから厳しく指導する。恥ずかしくないレベルに達するまで、何十回でも何百回でも書き直しをさせる。覚悟してかかってこい」。
何度も書き直しをしながら、私は本当にその論文を投稿できる日が来るのかとても心配になった。困ったことに、先生は悪いところを指摘して「ここがなぜ悪いか」を説明されるだけで、「どう書けばいいのか」をほとんど教えてくれなかった。私はある日、「先生は悪い悪いと言うだけで、どう書けばいいのか全然教えてくれないじゃないですか!」とつっかかった(いま考えると恐ろしいことを言ってしまったものだと思う)。先生は別に怒りもせず、「私が書き直してしまうことは簡単だが、それでは君が伸びない。私は君に成長してほしい」と言われた。その一言で、おめでたい私はすっかりその気になってしまい、また元気に書き直しを始めた。……
結局、論文は20回以上書き直しをした。つまり、上田先生は本当にお忙しいなか、20回以上も私のきたない論文を読んで指導して下さったのである。今となっては、ただただ感謝の気持ちだけが、私の心のなかで大きく美しい結晶になっている。投稿後2〜3か月して受理されたことを先生に報告したとき、先生は、「よく途中であきらめなかったなあ。5〜6回突き返すと、もう持ってこなくなるやつが多いんだ」と笑っておられた。2つ目の論文では、書き直しは5回くらいになった。
こんな厳しさをもつ上田先生であったが、私は不思議と先生をこわい人だと思ったことはなかった。厳しさのなかにいたわりがあり、研究者の成長と研究の発展を何よりも望んでおられた。私は上田先生ご自身と上田哲学に惚れ込み、上田研出身でもないのに、勝手に先生を我が人生の師と決めてしまった。その後、会社を離れ、外村位相情報プロジェクトを経て、現在の勤務先であるファインセラミックスセンターで電子波干渉実験などをして楽しく生きていられるのは、上田先生に出会うことができたからにほかならない。先生にお会いできたために、私の人生は大きく変わった。
先生から受けた恩は無限に大きい。その恩に少しでも報いなければ、といつも思っていた。しかし、全く何もできないうちに、先生は逝ってしまわれた。私にはとても難しいが、先生がよく言っておられた「応用基礎研究」と呼べるものを一つでも出すことが、先生に対してできる唯一の恩返しだと思う。
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