フリードリヒ・サンデル『公衆衛生論』

明治15(1882)年,竹雲書屋

 

日本独逸学協会々員 柴田承桂

同        長与専斎校閲

 

総論

第一章 公衆衛生の意義

公衆衛生学は普通衛生学の一分支なり。普通衛生学とは、人体の健康上一切の害因と利因とにつき、特に身体の構造と生活の機能とにかかわらずして、その外囲より発起するところのものを論究し、公衆衛生学は、さらにその中につきて単に政府より干渉処理すべき部分、または干渉処理することを得べき部分を説くものなり。予輩は、以上の両学科につきその理論的と応用的との区別あること、なおかの生理学と実地医療学の諸科とにおけるがごときを承認することあたわず。けだし衛生学はみな実用的の学術にして、その主眼とするところは、もっぱら学術上の検査を施してその疑題を解釈し、これが成績を挙げて衛生官吏と医家とのためにその職務の基礎を作るにありて、いたずらに理論の成文を講ずるものにあらざるなり。

わが公衆衛生学は、凡百諸般の学術間に介していかなる位置を占有するものなるか。英米国人にありては、すでにこれを社会学の一部に置けり。いわゆる社会学というものは、法律学および経済学の若干部分と教育学とを包有せりといえども、また一人のよくその経界を説き得て明晰にする者あることなし。ゆえに両国人の持論は、決して独逸学派の厳格に適合せず。しかるにまた、専門各科の疆域も狭隘にして、此学を容受すべき適当の位置を得ることあたわず。しかして、その理論の資材上よりしてこれを観れば、万有理学中につきては医学に属するがごとしといえども、これを実際上より論ずるときは、すなわち行政の一部に居るを以って政治学に属するものとせざるを得ず。しからば、すなわちこの枝葉の公衆衛生学もまた、なおその本幹たる政治学のごとく目的と方法とを規定すべきは自然の通理にして、公衆衛生法は、現行の法律および政府の主義に密着して須臾も離るべからず。もしこれを顧み察することなく、もっぱら医学上の原理を実行せんと欲せば、すでにその針路を誤るの大なるものというべし。

政府の干渉すべき事業につきては、古今の学者に大なる意見の径庭あり。しかれども時勢の沿革より起こり、または政治学者哲学者の脳中より発する政体百般の事を論ずるにいたりては、いまだかつて本篇に関係なしとせず。そもそもかくのごとく異同ある政体にしてわが目的に必需の関係あるは、主として社会各人に賦与せられたる権利の広狭如何にあるなり。希臘国においては、人民の全力を挙げてこれを国家の自由に任し、一個人は些少の権利を占有せず。蚩々として国家のために存在するの態たり。政府はすなわち、ただ国家維持の方略をこれ務め、人民のことにつきてはこの目的上やむを得ざるの諸件を経営し、なかんずく人民をしてその体躯を健康にし、かつ強壮ならしめんことを計画せり。プラトー〔プラトン。Plato,427-347B.C.〕氏は当時、尚武の観察法をもって国政論を建てたり。その言に曰く、一個人は国家に対して職業および遊楽を選択するの自由を有せず。かつ、その子女を産育するや、もっぱら国家の需用に供するを目的となし、強壮なる人種を養成せんがために、政府より指定せられたる者と配偶して国民の蕃息を図るべし、と。各個人の国家に服従するの度、ここにいたりて極まれりというべし。これと反対して、国家はすべて各人の私権を保全するの目的より成るという説を唱うる者あり。これ第十八世紀にありて、その警察政府の専権に激昂せし者にして、ことにカント〔Immanuel Kant,1724-1804〕氏およびアダーム・スミッス〔アダム・スミス。Adam Smith,1723-1790〕氏の教旨に基づき、政府はもっぱら各個人民の需用に供するをもって骨子とし、かつ政府は各個人に対してその独立権利を牽制することを得ず、ただ一人の自由をして他人の自由を毀損せざらしめ、もしくは暴戻の害を防遏することを要するの場合においてのみ、これを牽制するを得べしというにあり。しかれども、スミッス氏の教旨たるや、その主義各人にありて自家の幸福を要求するはその結果すなわち公衆の幸福を要求することたるは自然の勢なりとするものにして、ついに現世に適当ならずとして容れられざりし。

かく反対せる両端の考案につき、その中間より理義の真正なるものを折衷せん。およそ人は自主の一個人たるのみならず、また社会の一員たることは、みなその自然の良知により感覚するところにして、もしこの社会なきときは、すなわち人類の発育を望むべからず。リュメリン〔リューメリン。Gustav von Rümelin,1815-1889〕氏曰く、人の団結して或る社会を構成せんと欲するの賦性と、その社会各人の固有せる権利安寧を得んとするの思想とは、その衆力みな一点に帰向し、その圧迫によりてついに政権なるものを喚起す、と。ゆえに国家は、各国人民が古今沿革の跡を鑑み、あくまでその人々の総力を発達せんとする自然の方向より集成するものにして、もとより一人の脳中より発するものにあらず。また衆人の約束より成れるものにあらざるなり。

ハインリヒ・フォン・シベルス氏曰く、およそ人類の棲息するところ、いずれの地方か、その私心怠惰および情欲を抑制してこれが扶助保護および整頓をなすの権力を有する総攬者を要せざらんや。そもそも国家は、単に権利を保護するをもって足れりとせず。また、その手段は単に外面の羈制をなすにとどまらず。もとより眼を各人の身体および精神上の安全に着け、学術技芸の進歩を規図し、社会一般の秩序を修治せざるべからず。これによりて人民生活の需要および開明の目途に安全と進歩を付与し、かつ各人をして充分にその才能と智力とを発育して、これを実際に施用することを得せしむべし。しかれども人民は、その生活上百般のことを挙げてことごとく国家の指導に任すべきものにあらず。ゆえに、特に普通国民の要するところにして、全国共同の手段および機械によらざれば処理するあたわざる事件のごときは、政府よりこれをその立法上の順叙をふむにあらざれば動かすべからざる成律の範囲に容れて干渉せざるべからず。しかれども、もし一個人の力をもってよく自ら処弁するに足るべき場合においてもなおこれに干渉し、あたかも父の子におけるがごとき一種後見の体をなすは、今日の社会に行なわるべからざるものとす。しかして、各人が社会において受領するところの保護と扶助とに対する義務は、わが一身の利害、社会の安危と牴牾するの場合にあたりては、その一個人の権を捨ててこれが犠牲となるにあり。

ここに国家普通の主義をもってこれを公衆衛生上に応用するの法を論ずるにあたり、まず一疑題につきこれを解説せんとす。すなわち、公衆衛生というものは、これを希望しまたは実行せんと欲すべき事業なりや否やの一事にあり。予輩は、ことわざにいわゆる、むしろ孩児の生命を短くせんもその嗜好せる遊嬉を強奪することなからん、との語を聞くのみならず、また甚だしき論説を得たり。近者有名なる大学教授某は、その身教育の責に任じながら、この諺語とあい似たる論説をもって公衆衛生を駁撃し、かつその今日の輿論たることを明言せり。曰く、健康にして長生し空しく長日に倦まんよりは、むしろ不健康なるも一時快楽を極め、もって世を早くするに如かず。かつ、人口の過殖し、もしくは競争の旺盛なるは、かえって戦争疾病よりも恐るべし、と。また、公衆衛生のことを指笑して云えらく、公衆の健康に囂々然たるは、真に無謀の戦争なり、と。かくのごとき疎暴の説は、もとよりこれを弁ずるに足らずといえども、ただこれに類する駁撃説の急切にしてかつ学説上の性質を帯ぶるものは、多少マルッス〔マルサス。Thomas Robert Malthus,1766-1834〕氏の教旨を祖述するものなり。しかしてマルッス氏の本論、その大体において不理ならざるは、今世学者のほとんど首肯するところとなれり。

それ人類の営養に必要なる食量の最低度に徹するときは、人口の蕃殖することあたわざるや、もとより論なし。しかしてその天性に出ずる交接の情欲と子女の愛情とによりて際限もなく人類の蕃殖せんとする勢いは、必ず有力の防禦線に遇いて前進することあたわざるや、また疑を容れず。マルッス氏は、この防禦線となるべきものを大別して二となせり。一は、自做に出ずる内因(情欲の抑遏および売淫など)、一はやむを得ざるに出ずる外因(健康妨害的の工業、力作、気候の作用、貧苦、小児の営養不良、大都会、諸般過度の行為、疾病、疫疾、戦争、飢饉)とす。もし人類に増殖の制限なく、またその障碍なきときは、各国みなその一定の年期には必ず人民の数を一倍し、すなわち幾何学上の列(一、二、四、八など)を逐いて増多するの理なれども、食物増殖の度の早くすでにその天然の極に限達するは、また争うべからざるの実事たり。また、人口の天然に増加する年期は二十五年を要するや、あるいはなおこれより多き星霜を要するや。食物の増多はただ算術上の列(一、二、三、四など)を逐いて進行するや。およそ人民は現にその地に存し、あるいは他より輸致するを得べき食物の量にこえて蕃殖するの勢あるや。あるいは人民はその口数よりも速やかに食物を増殖するの作力あるや。統計学者の証明するところによれば、最終の数十年間、北米合衆国においては、上文の第二疑(訳者曰く、食物の数学上の定数に従う増多)の場合を目撃せりという。今ここにマルッス氏の教旨はこれを概言すれば、疾病および夭折を防遏せんことは絶えて希望すべからざるに似たり。公衆衛生法なるものは、人口の増多を欲するにあらずして、ただ各人の生命を寿域にのぼさんと欲するにあり。しかれども、生活者の一時に増殖するにより、ますます現存の食物上に新困難を来たし、かつその不足を生ずるの時期を速やかにするの憂いなきにあらず。しかりといえども、予輩はもっぱら人類あい敬愛するの良心を根拠とし、一意に善事をなさんことを希望するのみ。いたずらに人力の及ばざる悪果を顧慮することあるべからず。はたしてそれしからば、予輩が衛生上に尽力するところは、元来けっして全国の人民ことに貧民社会の景状を永遠に改良することあたわずして、たといひとたびこれを得るも、到底また救うべからざる食物不足の障害に遭遇せんこと必然なりとなさざるを得ず。あに惨澹不祥の想像といわざるべけんや。リュメリン氏は曰く、この最終の六十年間、英国、孛国〔プロシア〕、瑞典〔スウェーデン〕および諾威〔ノルウェー〕において、外国移住者の多数なるを問わず、実際に徴して人口一年間の増殖は一プロセントなるがゆえに、これを推すときは、独逸国は三百年間に六億五千万の人民を有するに至らん。この数に基づき考慮せば、人口の終始平等に蕃殖をなすはすでに自然の禁遏するところならん、と。しかして同氏はこれに付言すらく、かくのごとき未来の想測は、もって現実のことを議せんとする理論の基本となすべからず。ただその時世に応じて適当すべき法案は、その時世の実事につきてこれを計画せざるべからず、と(これ最も予が心を得るものなり)。

死亡平均数を減少せんとするは無効の業なりとせる諸説は、みなマルッス氏の論旨を祖述する後学に出ずといえども速了の見解にして、その原論者すなわちマルッス氏もまた痛切にこれを弁駁したり。しかれども、その怖るべき革命のときに際し、ふるいて人類の身体および精神を無限に改良完全せんことを講説したるコンドルセット〔コンドルセ。Marie Jean Antoine Nicolas de Caritat,Marquis de Condorcet,1743-1794〕氏が無上世界のごときもまた、マルッス氏の強く駁撃するところとなれり。けだし同氏は社会不幸の実況を歴験したる善良の英国人にして、この惨況は決して人力をもって救済すべからざるものなりと放擲して断言するの論者にあらず。その意にいえらく、疾病および流行病は、大半人力をもって改良を得べき人間の災厄にして、その現存の住所および食物の供給を超えて速やかに進行せる人口過殖に因せる自然の結果にあらず、と。またいえらく、稠密なる居屋および不充分なる食物は、獄舎、製造所、工場、および大都会の陋巷に発生する熱病の原因にして、畢竟人口の稠密は伝染を容易にする幇助となるものなり、と。また証言すらく、生活の方法ならびに清潔法、および空気の疏通に関する室内搆造法改良の挙は、龍敦〔ロンドン〕および諸他の大都会において大いに疫病および赤痢の減殺を助成し、かつこの改良法のほか、婚姻ことに早婚の減少もまた与りて力あり。しかれども、現今婚姻の数なおいまだ十分なる僅少の度に達せざるがゆえに、疫病および赤痢にかかる死亡の減数は早婚より生ずる他の諸病によりてこれを充填す、と。またいえらく、痘瘡は人口を現在の食物に相当せしむべきがために開きたる自然の運河なり。もしこの運河にして種痘のために壅塞せられなば、また他の運河を広大にし、あるいは新たにこれを開鑿せらるべし。ただし、これただ婚姻数減少することなく、あるいは格別に耕耘の開張を獲ざるときの場合においてしかるのみ、と。

マルッス氏またいえらく、人生保寿のために力所および都会および製造所の有害なる作用を除郤することは、吾人必要の義務にして、百方経営すべきのことなり、と。そもそも、それ吾人力を極めて死亡の原因を除却するも、その良績は必ず食物供給の度を超えて人口を蕃殖せしむるに至らず。また、食物上にも毫もその増損を見ることなきは、事実に徴してすでに疑うべからざるものたり。同氏が食物増多の度を画せる経界の狭隘なるも、なお死亡を減少せんと欲するの良図を行なうには、あえて顧慮するところなからんを要す。食物の乏少を告げ、もって国家経済上の困難を来たすの点に達するには、人口の増殖幾何の数にあるかの問題は、しばらく措きて論ぜず。これを統計上に考うるに、死亡数のすくなきは、その実けっして人口増多の主たる原因となすべからざること明らかなり。いま左の表をウロー・ファル氏の報告したる、英国およびウェールス、千八百六十一年より千八百七十年にいたる死亡書中より鈔出してこれを証示す。

郡区数

619  54  349  142  59  16  1  1

千人中死亡者の数

15乃至39  15乃至17  18乃至20  21乃至23  24乃至26  27乃至30  32  39

一方里内人口の数

367  171  195  447  385  6871  1272  65834

平均千人中一年の

死亡   22.4  16.7  19.2  22.0  25.1  27.8  32.5  38.6

誕生   35.1  30.1  32.3  35.6  38.1  39.1  37.3  37.6

超過数  12.6  13.0  13.6  16.0  11.3  48.0  18.0

これによりてこれをみれば、各郡において最大なる人口の増多は決して最小なる死亡数と符合するにあらず。また、出産に基因する人口の増多は、つねに死亡数をこえて過剰すること(移住者の出入によりて実際生ずるところの増加より看察し)各郡死亡数の互いにあい懸隔するに関せずして、みな同一なるを見る。しかしてその人口増多の特因たるところの出産数は、ほとんどファル氏が二三の例証をもってこれを指示せしがごとく、農工諸業の旺衰すなわち人民食物供給の多少にしたがいて伸縮上下するものなり。

近ごろヘルベルト・スペンセル〔ハーバート・スペンサー。Herbert Spencer,1820-1903〕氏はマルッス氏の教旨に基づき、その著わすところの社会学において、疾病に因由して死亡する者の数を減少せんとする方法はすべて、すでに得たるところのりえきの減損を来たし、かつもしかくのごとき方法の大いに増加することあらば、時としては悉皆その利益を亡失し、これに代わる害毒を貽遺することあるを証明せんことを試みたり。

およそ世間の善良なる方法あるも、時としてはその枝葉に有害作用を見るは免るべからざるの数なり。しかしてその論旨につきては、スペンセル氏の論議を駁撃せしところのヨット・ローゼンタール氏が選択したる適切の例証あり。曰く、地室居住の禁止のごとき、一方には衛生上の利益ありと預言するを得べしといえども、一方にはかえって許多の有害なる結果を将来すべし。例えば、廉価なる家税もたちまちに沸騰し、ために夥多の借宅人を駆りていよいよ陋悪にして狭隘なる家屋にいるるがごときこれなり、と。しかれども、スペンセル氏が死亡者の減却は必ず避くべからざる害毒を将来すべしといえる説に至りては、ついに自らこれを証明することあたわざりしなり。予は、前節の説明により、過半同氏の説を弁駁するに足れりと信ず。しかれども、ここになお解明せんと欲する一要点あり。スペンセル氏はいえらく、もし健康妨害的の原因を除却し、あるいはこれを減少することあるときは、これを前日に比するにかえって数多の薄弱なる体格を有する人を存留し、また婚姻によりてこの種子を増殖し、これがためにますます妨害的の原因を拡充するに至らん。ゆえに数多の死亡原因の減殺せる後に至りて耆老者を見るに、その数は前日より多きも、矍鑠たる徒に至りてはかえってすくなく、また慢性の疾病は大いにその数を加え、畢竟人類の生存する者、数量をもってすればあるいは上達するも、品性をもってするときは大いに退却するを知るべし、と。以上数項の論説中第一項、すなわち疾病および流行病により虚弱者の大半を消失すべしといえるは、実際上その謬説たること論をまたず。しかして、爾他の諸説、すなわち耆老者の増加し人種の虚弱となるというがごとき、またみなその実証を得ざるものとす。わが祖先の筋力は、はるかに予輩より強大なりしは、あるいはしからん。しかれども、筋力と健康とはもとより同一物にあらず。かつ、たといわが種属の虚弱におもむきしを実事とするも、現今都会および製造所の景況を回顧すれば、その疾病原因は、減少せしよりもむしろ増多すべきの理あり。あに疾病の数を加えたるをもって、衛生上の結果というべけんや。ただし、往時にありて死亡を速やかにせし数多の虚弱者、例えば囚徒、病者、貧人のごとき、今日に至りては衛生上の善良なる保護によりて長く生存するを得ることあるは、もとより実事なり。もし経済学者にしてこれを慨嘆するあらんに、予輩は強壮者のためにもまた諸般の改良を経しところありとの一事をもってこれを慰藉せんと欲するなり(兵隊をもってその一例とすべし)。また、スペンセル氏がもっぱら理論上の考案より、衛生上の事業はすべて費金を要するがために租税を収歛せざるを得ず、ゆえに必ず新害を継起するものなりとなせるは、その論きわめて不当にして、やや自ら生計を経営する人民にして衛生上の目的に供すべき租税のために実際困難を将来せし者の世上にあるは、いまだかつて聞知せざるところなり。いわんや、この租税のためにこの自立境界を追逐せられ、もって生命を短縮せし者あらんや。

公衆衛生の主義に向かいて駁撃を試むる者は、つねにただ孤立の一家言にして、一国の実力あるいは公議をもって全然この義務を擯斥せしことは、おそらくはいまだこれあらず。かのバックル氏のごときは、概して法律の効用を尊重せず、旧法を廃棄するところの新法をもって最良の法律なりと思惟し、かつ一般に政府が世の開明のために干渉処理しうるところの経界を罫画して甚だしく狭小となしたる論者なりといえども、その狭小なる経界以内においてなお、公衆衛生法の含蓄せらるは決して異議を容るるべからざるものとせり。しかれども、公衆衛生の経界は、実地と主義とにより、時と地とにつきて、大いにその広狭を異にし、これを実地に施行するや、主として二個の方向においてす。すなわち左のごとし。

第一 政府は一人の行為もしくはその怠慢によりて他人の健康を妨害するものを防禦すべし。その方法は命令および禁令を施行するにありて、その実行を遂ぐるは警察官および裁判官の責とす。この大体の主義につきては、一人もこれに不同意を表する者なし。しかれども、特殊の場合、例えば健康を妨害する工業の制限を設け、もしくは伝染病者を隔絶の局処に移す等のことに至りては、すなわち人々の意見おおいに相異なるあり。

第二 良好なる公共の組織は、人民をして健康の生活を保持せしむべき方法を設け、また人類の聚合あるいは強烈なる外因より発生すべき危難を除却せんがために一個人の力よく自らなすべからざるところの準備を整頓するを要するものなり。かくのごとき方法の実行を規図し、公共の分担によらざればすなわちその目的を達すべからざるの際、一部の人民その識量に乏しく、あるいは怠慢なるより、これを肯んぜざるときは、すなわち干渉主義を使用することを得べし。しかれども、各人の私権および財産権の点につきては、もとより法律上の程限を要すべし。すなわち、これが程限を建つるは、往々人の思考するがごとき至難のことにあらず。

千八百七十二年、独乙国聯邦会議に同国宰相の提出したる議案中に言うあり。曰く、ここに政府が公衆衛生上、各人の私権に干渉することを得べきはそもそも何の度に達すべきやとの問題あり。この問題は、なおいまだ独逸国有識社会の注目するところとならず。ゆえに、この目的に対して法律上の程限を定むるには時機いまだ熟せず。その始めて公衆の意志を喚起するに至りしは、わずかに数年以来に出でず、と。この言おおいなる誤りというべし。この程限につき、ローベルト・フォン・モール〔Robert von Mohl,1799-1875〕氏がその著書ポリツァイ学において、その完全なる主義を論究したり。その主義たるや紙上の空理にあらずして、しばしば数多の国に実行せられ、すでに孛漏生国〔プロシア〕民法の制規は許多の要点において十分の進歩を致せり。前記二項の事業は、ロベルト・フォン・モール氏の襲用せしがごとくポリツァイという語を内国全体の政務と解釈せば、医事ポリツァイもしくは衛生ポリツァイの総称をもってこれを理会し得べしといえども、今日ポリツァイという字義は、たんに治安ポリツァイすなわち外面上の危害および犯違を直接に防禦するの義となりたれば、すなわちこの名称は第二項の事業に適切ならず。ゆえに、この両項を統括するには公衆衛生法の一語をもって当とす。

ガイゲル氏は、ややこれに異なる意見を抱持せり。曰く、衛生警察(ポリツァイ)と公衆衛生法とは、その執行するところの主義において各々その方向を異にせり、と。すなわち、甲は各人のために私の関係より生ずる害毒を防止するものにして、各人の健康を保護するの結果たる公衆衛生と介達の関係を有し、乙はもっぱら公衆衛生、すなわちこれを細言すれば、一個人なりと思考せられかつ一個人として存在するところの社会、すなわち人民の健康体を毀傷すべき害毒を除却せんとし、かつ四大生活元素(スプストラクト。大気、水、飲食物、人民交際)の害因たる公共の景況を改良せんとつとむるものの謂なり、と。しかるにガイゲル氏は、これに反戻するところの説を持して曰く、衛生警察と公衆衛生とはその力を用いるの方向まったくあい異なるものなり。すなわち、衛生警察は、一家私己の景況より出ずる傷害に対して各個人を保護するの責を負うものにして、ただただ各個人の健康より公衆の健康を結搆するの点よりして公衆衛生上に間接の効を奏するの際、公衆衛生は、ただちに公衆(これを詳言すれば一の単体とみなせる社会体すなわち人民)の健康に危険なる傷害を防止するの任を有し、人民生活の四大元行(大気、水、食物、交通)に有害の性質を賦与する民間の景況を改良せんと企図するものなり、と。

公衆衛生法は単純なる警察上の事業に限らざるやもとよりなりといえども、自余これに属するところの課題は決して警察のことに反対するものにあらず。その差異、ただこれに応用する労資の多少にあるのみ。例えば、ある一個人が汚芥を堆蓄してただただその隣傍のみを妨礙するに臨み、警吏よりこれを除却せしむるのことに下手する時と、ある一都府に存する糞壷の造搆すべて不完全にしてあまねく土壌を汚却するあることに際し、府庁においてその改良を計画するの時とにおけるがごとし。前文ガイゲル氏の設定せる区別は、けだし人民なる語の誤解に基因するものなり。それ人民(もしくは一種の人民を包括するところの国家)は砂塵の堆積にあらず、たんに各個人を総加したるものにあらず。じつに一個真正の完全体にして、その各部分各支節を主宰するの作用を有し、かつ各個人に存せざるところの特性をそなうるものなり。リュメーリン氏のいえるごとく、森林はただ多数なる樹木の並立するものにほかならずといえども、じつに一種特異の性質を具有し、もってその各樹の長育を主宰す。また、蜂国はただただ衆蜂の一様なる生育にほかならずといえども、その全体はさらに各蜂の生活上に力をたくましうする一新因となるべし。これ人民および国家において最も著明に発顕するところの事実にして、その精神上および風俗上の関係については殊にしかりとす。ゆえに、民心民性なる語を使用するもあえてこれを求むるものなしといえども、人民(殊にその形体上の関係においては)を挙げてこれを一個人とみなすあたわず。また、民体なる語あるを聞くことなし。予はじつに、かくのごとき民体の健康あるいは病患なる称呼について、いかなる意義を理解すべきやに惑うものなり(訳者曰く、ガイゲル氏はその著書・公衆衛生学において、国民を一の人体とみなしてその病患および療法を論述す。ゆえに本篇の著者、ここにこれを駁撃せり)。ここに一個人の生誕する。いかなる双親より出でていかなる社会に入るやはその関係すこぶる重要なるものにして、爾後健康の発育を得るや否やは、同国人同郷人の状態に関するところ極めて大なり。しかして、このさい毫も経済上におけるごとき利害の紛争あることなく、全社会の幸安は全然各個人の幸安と符合すべし。これゆえに、一国人民の健康すなわち公衆の健康は必ずただただ一切各個人の健康より集成せられ、その健康の度を計測するは、ひとり各個人を実徴かつ算数して得るところの平均数(すなわちケテレー〔ケトレー。Adolphe Quetelet,1796-1874〕氏のいわゆるオム・モアイヤン。中等人の義)によるべきのみ。その他世上に使用する国民病なる名称のごときも、ただちにその国民の全体を襲うものを指すにあらず。また甲の国民において発するの状、乙の国民において発するの状に異なるものを指すにあらず。ただ同時に各個人の多数(すなわち一国もしくは数国の人民中その多少の分数)を侵すところの病患を指すものにほかならず。

ゆえに公衆衛生は、決して空想的の物体について計画するものにあらず。集団して一の完全体をなせる各個人の健康について鞅掌するの事業なり。しかして公衆の生活は、各個人における自由なる形体の発育を限制してこれに危害を誘致し、この危害はまた、公衆共同の力にあらざればこれを防止するあたわざるものとす。

その他社会百般の事業におけるごとく、公衆衛生のことにおいても、よろしく政府の担任するところを無限ならしむべからず。それ生命は、人類最上の至宝にあらず。また健康は、一切幸福の根柢をなせども、人間最大の目的を達する媒介物に過ぎずして、決してその最大目的自己にあらざるなり。いにしえより国家のためにその生命を犠牲に供する者その数幾千万なるを知らざるがごとく、吾人精神の発達を求むるがためにもまた生命健康を賭となすことあり。児童の就学は多少その健康を傷害すべきも、これがために学校を廃止することなし。人民の交通は伝染病の侵入を誘進するのおそれあるも、今また昔日のごとき厳重の行旅遮断法を行なうことなし。吾人がその生命を長久にし、その身体を健安ならしめんとするの勉求は、その地位にしたがいてその軽重を異にせざるを得ざるものにして、各個人および国民の生活に対する単独の指鍼とみなすあたわず。健康および生命をもって富貴および実益を買わんとするときに至りては、殊にしかりとす。

いま公衆衛生の事業をもって政府の一課題となすのときにおいては、さらに狭隘の限制を受くべし。すなわち各個人もしくは公許会社の権理あるいは資力をもって成全し得べき事業上には、政府より強迫方法をもってこれに干渉すべからず。ここに或る一規則の設置を有益なりと認むるも、これを強迫実施するの理由となすに足らず。政府より各個人に食物および衣服の例則を示して父親的の保護を与うるの時世は、今日すでに吾人の社会より経過し去れり。各個人は、自らその健康を保持し自らその生命を延長せんと欲するには十分広大の余地を有するものにして、一々中央の干渉を要せざるなり。ただし、ある関係においては、かくのごとき私己的の衛生もまた政府保護の範囲に落つることあり。けだし兵隊および囚獄病院等のごとき公立院廠の居住人に対する百般の需要において衛生上の闕典なからしむるは、また政府の責任なるをもってなり。

また公衆衛生法は、一般の国法に憑據するにあらざれば、これを実施することを得ず。かつ、これに関する特別の法律を必要とするときにおいても、その国に公行する法権上の原則にしたがうにあらざれば、これを発行するを得ざるべきや言を待たず。いまだ公衆衛生には、国法外特別の地位を与うることあるを聞かざるなり。その他各町村の公局は、ただ国法の允可せる権限内においてその事務を施行するにとどまり、各個の事件に対して国法を充用せしむるのときにあたりては、ただその外部の準備および方法をもってこれに任放するのみ。しかのみならず、予は、エル・フォン・モール氏が、流行病のごとき急劇の危害に際しては火災に同じく行政官をして人権および資産権を侵すを得せしむべしとなすの説を疑う者なり。この説の原理はたとい適正なるも、現今のごとき流行病の理論なお暗冥なるあいだは、各行政官吏をして容易にその試験を漫行するの機会を得せしむべからず。ただ、各地方がこれに賦与せられたる権理を実用するの広狭は、おのおのその撰択するところに一任せざるを得ず。けだし、その地方の需要およびその地方の資力は、最もよくその知悉するところなるをもってなり。ション・シモン氏曰く、衛生上の事務は、自治の最多限および中央干渉の最少限を要す、と。じつに自治にあらざれば、その最良の成績を望むべからざるなり。これに関する諸則を発行するや、あらかじめ一汎にその必要を証明したるときには、政府の官吏より強迫的に施行するときに比すればはるかに実効を収めやすきを常とするものなり。しかのみならず、衛生のことは地方区の大小に比例してその重要の度を増大し、また地方区の広大なるにしたがいてその人民の智能いや増加するについて考うれば、ますます自治をもって永久に適正なるものと認めざるべからず。しかれども、地方において全国普通の法律に背犯し、その区内の人民もしくは隣区の安全を傷害することあるがごときは、これ政府より干渉すべきのときなり。その際、中央官局特別の官吏を派出して必要の実地検按を行なわしめ、もって文書上の申報のみに依頼せざるときは、その利益けっして僅少ならずとす。その他、国民健康の景況における統計上の観察もまた、その調査登記の方法たがいに均一にして全国同一の様式によりてこれを施行するときは、その効益を見ること必ず広大なるを得べし。ゆえに、これらの目的に対し、また、一汎の国法を制定するがためには、つねに衛生中央局の建設を必要とするものなり。しかして、この中央官局にはかねて高度の識見および学力を有する官吏を置き、もって各地方に適当の訓諭を与え、これを幇介するの任を負わしむべし。しかれども、「他人の傷害は決しておのれを警戒するに足らず。自己の損害は始めて智者を提醒するに足る」といえる古諺を真実なりとすれば、中央局訓諭の実効は、けだしはなはだ[是韋]大なるものにあらざるべし。

公衆衛生法は、かく政治学よりしてその界限を附与せらるるものなれども、その論説の資料は、じつに医学および万有理学より取るものなり。ローレンツ・スタイン〔ローレンツ・フォン・シュタイン。Lorenz von Stein,1815-1890〕氏の説によれば、政治学においては、人民健康の現象および因由に関する規則をすでに完成せる実事として医学より取り、ただちにこれを実用すべしとなせども、医学もまた一個の学術にして、たえず進行変動するを免れざるものなり。決してつねに不変の規則と完結の成績とを供給するを得るものにあらず。しかのみならず、衛生法は陸続として特種の問題を医学に呈出するも、医学はさらに新試験を挙行するにあらざればこれに答弁することあたわず。その関係、あにスタイン氏のいえるごとく単純なるものならんや。それ衛生法は、工業学あるいは農学のごとく単に他の学術の成績を集合して実際の目的に供用するものにほかならざるの観あるは争うべからざるの実事なりといえども、現今すでにこの範囲を脱して独立せんとするの傾向ありと明言するには、あえて牽強の証明を要せざるものとす。いま百般の学術(数学を除く)を通観するに、決して自家の基底上に特立するものあることなし。ただ一定の原則に基づきて他の諸学科より導致せる事項を自己の学術に化成し、よくこれを瀰縫して一の完全体となし、自家の研究法を以って吾人の知識を拡充するものに対して、しばらく学術の名を下すのみ。しかるに今、衛生学に関する疑問はみな他の学課によりてその解明を求むるものなりとして、これを特立の一学科と認めざるのものあらば、これ大いに実際の状況に通暁せざるものとなすべし。しかのみならず、輓近の衛生学は病原を探求するの学術をもって断然おのれの任となし(英人統計上の事業を見よ)、殊にペッテンコーフェル〔Max von Pettenkofer,1818-1901〕氏およびその門生について好例を見るべきごとく、実用上に直接の関係なくして学術上の認識に供給すべき研究の新門戸を開設せり。これゆえに、目今その境域はすでにすこぶる広大となり、これに駁撃を試むるもの多きにもかかわらず、若干の大学校においては特別の衛生学科を設置するに至れり。

衛生学は、医学の邦域内においていまだ充分その邦民たるの権理を占有せざるの際、その実施上に関しても一の困厄に遭逢せり。それ政治学および一般精神的の学術においては、万有理学におけるごとく厳正の理解を要せず。すなわち万有理学にありては、その検査の成績あまねく学者の一致を得ざるべからずといえども、政治学中首要の分科(例えば教育法、収税法など)における専門家の意見は、その初歩の原理についても互いに牴牾するところあるものなり。これルュメーリン氏の慧眼をもって看破したるごとく、政治学および理学においては、その学術的の観察を施行する媒介物おおいにその性質を異にするによるものとす。そもそもこの両学科は、ともにいわゆる経験学科に属し、かつ帰納法に根據するものにして、各個の件項を統率する通則を認定せんとするには、まず各個の現象について適正の観察を下さざるべからず。万有の境界においては、各個の現象多少その定型を有せざるものなく、人体の理学においても、観察と試験とによりて充分の認識を得るところの現象すこぶるあまねく、精密に観察せる一個の事実によれば、よく同種の発象上における定案を占取するを得べし。これに反して、精神の境界においては、原因的の関係を認定することすこぶる困難にして、各件各個の観察はこれを他件に充用するの効価きわめて少なし。けだし、その発象の因由はなはだ複雑にして、その真実を紋撹すべき感働もっとも夥しきをもってなり。しかして、ここに統計法(すなわち、ルュメーリン氏のいえるごとく、散在かつ偶然の観察を拡充して定法的の集団観察となすの法)をもってこれが介助に供せんとするも、その学術なお幼[禾犀]の時期にあるを免れざるものにして、政治学および政治一般の境域における実事真数の乏少なるについて発したる統計学者エンゲル〔Ernst Engel,1821-1896〕氏の慨嘆を慰却するに足らざるなり。いま衛生法については、その関係さらに不良なりと称するの理由なしといえども、世人の尊重を得ることいまだ他の政務にしかず。これに関する一事務を実行するごとに(たといその新事業の煩擾なると失費多きとを嫌悪するの遁辞なるにもせよ)、始めよりその奏効の確実なるや否やを予定せんと求むるものすこぶる多し。しかしてこの要求たるや、これをある他の政務に移せば全くその実行を遏絶するに至るがごとく、過甚なるものなきにあらず。かくのごとく不条理なる軽重尊蔑の差を生ずるは、その原因、主として他の万有理学科(例えば森林あるいは鉱山の諸業)が眼前の利益を棒呈するを見て速やかに功利を貪らんとするの悪弊に出ずるや疑を容れず。しかれども、世人はしばらく現今衛生上の学識をもって占取すべき信憑の度において満足せざるべからず。その重力の規則より天体一切の運動を導致しあらかじめこれを算測し得るところの天文学と、他の万有学の分科とについて、同一の進歩を期望しがたきがごとく、はるかに長久の年月においてはるかに多数の学者によりて研究せられたる他旧医学科と衛生学とをしてその進歩の度を均しくせしめんとするは、けだしまた難し。

しかれども、上文記するところは決して、公衆衛生法にはいまだ学術上の基礎なしと断言したるものにあらざるなり。第一、その基礎たるものは、回避するを得べき疾病の学理にして、すなわち疾病および夭折の因由は公共の事業をもって抗禦するを得(あるいは全くこれを除却し、あるいはこれを緩解す)べしとなすところの医学上の証明これなり。次には、古今の史記に憑依し従前の経験をもって、いずれの事業を無効なりとしいずれの事業を有効なりと認めたるやを研鑿するの方法とす。本篇においては、じつにこの二項をもってその総論の部を構成せり。

また本篇の各論に至りては、かのパッペンハイム氏の著編におけるごとくアルファベットにしたがいて事実を列記するの法を取らず。これ大いに事物交互の関係を壊るの害あるものなり。衛生の事実を通観すべき完美の分類を設くるの困難なるはもとより予の知悉するところなりといえども、ただその篇章を整理序列して可及的論説の重複を避け、かつ一目のもと各事実の所在を認めしむるに至るは決して望むべからざるのことにあらず。いま衛生至要の論題たるものは、各人に闕如すべからざる健康上天然の基礎物を保護し、かつ清浄ならしむるの方法、および、この基礎物の汚却せられ、あるいは腐敗するより生ずる各種の疾病を防止するの方法なり。しかして予は、大気、用水、土壌、食物を浄潔ならしむるをもってじつに健康を保持する首要の基礎物なりと信ずるがゆえに、この四項についてはおのおのその自然の性質、その不潔の種類、これより健康上に及ぼすところの傷害、およびこの傷害を排除するの方術を細論せんとす。土壌は、ただそのなかに環流する大気と水とによりて衛生上に関係ありといえども、実際上について考察すれば特別の章を設けて論述するを便宜なりとす。

第二の論題を搆成するものは、社会各種の共同事業、人類開明の要需(すなわち住屋、市街、学校、囚獄、病院、工場など)より生ずる危害に対して健康を保護するの方法なり。

前の二項においては疾病の原因を排除するの方法を論ずるの際、その第三項に至りては、すでに爆裂せる一定の病患に対してこれを防禦するの方法を論述すべし。すなわち、検疾、停船、種痘、隔離病院のごとき、これが論題たるものなり。その他、医士薬師等に対する政府の保護もまたこの部分に包括するを得べしといえども、予は他の原因よりしてこれを本篇に登載せざりき。

公衆衛生論終

明治十五年八月十八日版権免許

明治十五年九月三日出版

 

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