柴田承桂訳述『衛生概論』

明治12(1879)年〜明治15(1882)年,不匱堂

国会図書館近代デジタルライブラリーで上・中・下の全巻を見ることができます〕

 

衛生之為事広矣、小而一人之康福、大而国家之富強、莫不包括焉蓋。与教育勧業二事、鼎立為治国具、而衛生実為之本。譬之、衛生土壌之沃也、教育勧業其樹芸也。今欲美果良実於瘠土磽壌、亦難矣。或夫衛生之本、始於一身之健康、而一郷安寧自郷、而郡自郡而国。而天下富強可以成矣。伝曰、食不厭精養仲尼。亦自一身始学者乎。明治十三年一月中浣。長与専齋

 

 

初版例言

 

一、この書を訳述するの目的は、現今欧米諸邦に行わるる衛生上の学説およびその実施方法の概略を挙げ、読者をして公衆衛生法の大意を了解せしめ、衛生の事業を貴重するの念慮を世上に挑発し、その進歩の万一に裨補あらんことを庶幾するにあり。

 

一、本篇論述するところは、たいてい愛爾蘭土(アイルランド)国都伯林(ダブリン)府刊行ムール氏の公衆衛生法、および同国同府刊行カメロン氏の衛生学を摘訳し、かたわら、タルジョイ、フライス両氏の衛生韻府、レヴィー氏、パークス氏、ウーステルレン氏等の諸書を引きてこれを纂補するものに係る。けだし愛爾蘭土国は大貌列顛〔ブリテン〕国の封域中最も貧民多き部分に属し、その衛生上の景況もはるかに英蘇〔イングランド・スコットランド〕二邦に及ばず。ゆえに近来該国の衛生医官等、鋭意これを改良するの業に従事し、その編纂するところの諸書もまた実際に適切なるもの多し。これ訳者がことさらに愛〔アイルランド〕国学士の著書を取れる所以なり。

 

一、この書、分かって上中下の三篇となす。上篇には衛生略史、死生統計、および伝染性流行病をはじめ予防するを得べき各種の病患を論じ、中篇には伝染毒および消毒法の総論、食品、用水、大気、換気法等の諸項を論じ、下篇には住屋、汚水溝渠、病者摂護法、病院、気候、および測候法を論じ、これに附するに欧米各国衛生事務施行法の概略を以ってせり。

 

一、本書中の各篇章に引証する類例はみな欧米諸国のことに属し、本邦衛生上の景況に符合せざるもの尠しとせず。しかれども本邦衛生法の進度はなお幼稚の時期にありて、これに関する各般の学術上調査もまた未だ完全ならず。このゆえに本篇中あるいは本邦に属する例題を掲載するを得べきものなきにあらずといえども、いま一切これを登録せざるものは、かの道聴塗説の誚を恐るるを以ってなり。

 

一、前条述ぶるがごとく、現今本邦における衛生上の進歩は日なお浅し。このゆえに本篇のごときも務めてその理解しやすきを取り、あえて高尚の理論に渉らず。たとえばかの流行病を論述するの章における、その症候の細故等に至りては、ひとり医家の専攻すべきところに属するを以って、一切これを省略し、かつその分類法のごときも、あるいは目今原病学士の所説と適合せざるものあるも、ただ実際の予防法に便宜なるものを取るのみ。

 

一、この書を鏤版頒行するの後において、サンデル、ウーステルレン、ペッテンコーフェル等諸氏の著書に就き、さらに高尚なる学説を蒐録し、『衛生学』と名づけ、あまねく世に問わんと欲す。この第二回の訳述すでに成るの日に至れば、衛生事業の進度もまたその長大の時期に達し、世上高尚なる学説を了解する者多々なるに至らんことを企望す。

 

 

一、今茲刊行する上篇第三版においては、その篇章の次序、大概第二版に同じく、未だ大いにこれを変改するの必要なるを見ず。しかれども文字言句の差謬を改刪し、またはその意義の妥当ならざる諸項を訂正したるもの、また少なしとせず。

 

  明治十五年十二月      編 者 識

 

 

緒論

 

衛生とは健康を保護するの方なり、生命を延長するの法なり。しかしてこの方法の成績たるや、人類をして最もその発育を完全せしめ、最もその生路を強健安寧に経過せしめ、最もその死期を遠からしむるにありとす。通常これを二般に分かつ。その一個人に関するものを私己衛生法(衛生私法)といい、その公衆に関するものを公衆衛生法(衛生公法)という。主として本篇に論述するところは、すなわち公衆衛生法の概略なり。

 

ドクトル・ガイ氏言えることあり。曰く「公衆衛生法の普及するところは、社会の高下を論ぜず、男女の別と齢の老少とを問わず。人の居住する土地家屋、人の生命を托する職業生産、人の滋養に供する飲食品、人の呼吸に資する大気等にわたり、児童の学校にある、工夫農夫の田野礦坑製作場にある、病者の病院にある、窮人の貧院にある、狂客の癲院にある、罪囚の檻倉にある、須臾もこれを離るることなし。しかのみならず、舟子に大洋にしたがい、兵士に露営にともない、耐久の良朋たり。その境界浩バク〔貌にしんにょう〕にして、その淵源深邃なる、諸般の学術は挙げてこれを以上の各項に応用す。生理病理の二科より化学地質学気候学にいたるまで、ことごとく衛生法の原理を認定するの根拠をなし、建築学および機械学は衛生法を実際に施行するの手足たり」と。これ公衆衛生法の広大なる目的およびその境界を弁明するに足るべし。

 

国のいまだ開明に進まざるや、衣食住の制よろしきに適せず、都府の中、村落の間、その不潔物を浄除するの方法を設けず、ただに平素人民の発育を妨碍するのみならず、いったん流行病芽の侵入するにあたりては、内况外因あい煽りて猖獗を逞しうし、一都一邑の生霊を挙げてその犠牲に供するにいたる。あに恐れざるべけんや。しかして国のすでに開明に趣くや、飲食家屋の制いちじるしく改良し、土地の質、用水の性、ようやく浄潔の方向に傾くといえども、交通を増劇し、工業を興起し、都府港市の民口を暴殖し、児童少年の学課を迫責し、人の寿命はいまだ延長せずして世の事業はすでに倍シ〔くさかんむりに徙〕す。これいまだ国民健康の旧害因を送りて尽くさずして、すでに新害因を迎えたるものなり。それ一国人民の健康を傷害すれば、必ずその神智と体力とを減退すべし。必ずその財本を消糜すべし。人民の智力すでに減退し一国の財本すでに消糜す、英明の君相あるも、良善の政治あるも、誰とともにかその富強をはからんや。これゆえに公衆衛生法を講明するの今日に切要なるは、日に一日よりも急なりとす。

 

かくのごとく重要なる衛生の原則を理会せんと欲するは、もとより易々たらず。いまその一例を挙ぐれば、ここに一都府もしくは一村落ありて、その住民の健康を保護するの術いかんと問わんに、これに答うる極めて簡易なるがごとく、然り、曰く新鮮の大気を呼吸すべし、清潔なる水を飲用すべし、良好なる食品を供給すべし。しかるに退きてその実際を顧み、ただちにこれを人民の間に施行するの方法いかんを回思すれば、その艱難じつに鮮少ならずとす。いま新鮮の大気を呼吸せんと欲すれば、土地の疏水法完備せざるべからず、有害の瓦斯を発生する製造局はこれを廃止し、もしくはその方法を改良せざるべからず、屠獣の業はこれを市街より遠ざけざるべからず、人民密居を減制するの規律を設けざるべからず。これゆえに純粋の空気といえる単簡なる一語も、その関係するところ極めて大なるを知るべし。いま衛生法につきて真正の改良を実行せんと欲すれば、劇烈の抵抗に逢着すべきは一目にして瞭然なり。しかれども、かくのごとき抵抗は、これと争闘を重ぬるもますますその怨望を深くするの死敵にあらざるべし。今日これに戦い勝ちて衛生法を実行すれば、その恩恵は明日すでに敵人に及ぼし、たちまちその心服を得るにいたるは必然なり。

 

以下、昔人の衛生法を侮蔑して不測の災殃にかかり、今人ようやくこれを貴重するを知りて無限の幸福を享受するの進路に向かうを明証する衛生上の略史を記述し、その下、逐次に篇章を分かちて、衛生統計、疾病の予防、食品、用水、大気、住屋、気候等の諸項を説き、終わりに欧亜各国衛生事務組織の概略を附記して、以って衛生の原則を実際に施用するの景況を示すべし。

 

 

衛生概論跋

維新以来、訳欧米百般学術書者多出、不啻充棟汗牛。独至衛生学、則訳書甚乏、且未有道及其制規法律者。有之自吾柴田君始夫。以公衆衛生為政府之本分、以設職頒法。雖欧米各国、亦近遠於五十年以内、故其書固不多。況於我創設之者、日月尚浅、未暇訳述乎。特君精於此学、遍就群籍、訳事係衛生者。名曰衛生概論、其上中両篇既梓行于世。今訳下篇、徴余一言。蓋各国自都府郡県至邑里邨落、亦概莫不有衛生会衛生委員之設。而置中央衛生会於内閣若国務省中、以統議全国衛生之事、使衛生官施行之。其節制相括綱提、而目挙者粲然可観焉。是書不特論述衛生要旨、且記各国制度法例、使従衛生者有所参互折衷、則其裨益必大矣。余亦承乏是職者、特喜此書之出、故不辞以不文、書此以為跋。明治十五年五月、辱交永井久一郎撰。坂本ソ之助書。

 

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○恩栄を■へる柴田氏(後藤〔新平〕逓相の談話)

 

「薬学博士柴田承桂氏が夕刊記載の如く畏き辺より御紋章銀盃下賜の恩命を拝したりと聞き、当日右代理拝受者たりし後藤逓相の談話を請ひたるに、逓相は徐に口を開きて曰く。柴田氏は英独両国の語に通じ、殊に独逸語の造詣最も深く、独り独逸語に依り医術薬学に関する専門の著書を渉猟するのみならず、政治経済の学を究め、其の著訳する所は何れの方面に於ても卓越し、専門家を以て居るの学者も遙かに及ばざるものあり。然も氏は更らに名聞を好まず、又た出でて局に当るを願はずして之れを避け、専ら新知識を得るに努め、是を以て当局者の顧問と為り、斯道に貢献する所尠なからず。其の著訳の世に行はるるもの数十に及び、何れも数万部を発行せり。就中「普漏士警察法」〔内務省警保局訳(1887)『普魯西警察法』全3巻(原書はMascher, 1885, Die Polizeiverwaltung des preussischen Staates)をさすと思われる〕の如き、普通政法の学を修めたる者の到底企及し得ざる所までをも翻訳せるは、全く氏の医学上の学殖富贍なるに依るものにて、又「衛生概論」の如きも、普通医学者の敢てし能はざる点迄をも叙述したるは、其政法の学に深きを■用したるものなり。其他、薬局方編纂に付て其の学殖の顕はれたる、全く推称に値する所。氏は又三十年前に於て既に政治経済及び法律、理化学、生物学及び社会学を基礎とすべく、其間相関聯したる活作用あり、行政の妙用も亦此に存するを知り、之を当局に提振して■■を図りしこと尠少にあらず。其の明治十六七年の頃、故長与〔専斎〕男の衛生行政に関して其の■■を立つるや、蘭人ゲールス〔ゲールツ、ヘールツとも。Anton Johannes Cornelis Geerts1843-1883〕と共に男を輔佐して其の成業に致したるの功労亦極めて多し。当時ゲールスは勲三等に叙せられ■■を以て称せられしも、■功一体たる柴田氏は別に表■せらるるを願はず、恬淡全く相関せざるものの如かりき。其の人格の高き推して知るべし。今回 恩命の下れる、其の■学国家に■せし隠れたる功労の■■を得たるものにして、君臣の美徳共に此に顕はれたりと謂ふべし云々。」(『薬事日報』昭和3246日号「わが薬学の父・柴田承桂博士」より。明治43719日?の新聞記事。■は不鮮明。句読点および〔 〕内は引用者註)

 

「薬学博士柴田承桂に御紋附銀盃一組を賜ひて、嘗て当局者を輔けて衛生局の設置及び日本薬局方編纂に尽力し、以て本邦衛生事務に貢献し、其の間東京大学医学部教授に任じ、又著述に由りて学界を裨益せし等の功を褒したまふ、蓋し承桂頃日病篤きを以て特に此の栄を賜ふなり、○恩賜録」(『明治天皇紀・第十二』443頁、明治43719日の項)

 

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柴田承桂(しばたしょうけい、1849.5.121910.8.2.

名古屋生まれ。薬学者。明治4(1871)年ドイツに留学、ベルリン大学のホフマンに有機化学を、ミュンヘン大学のペッテンコーフェルに衛生学を学ぶ。明治7(1874)年、帰国して東京医学校製薬学科の初代教授となるが、明治11(1878)年には辞任。以後、内務省御用掛となり、『衛生概論』(18791882)を著わすなど衛生行政の創設に貢献。また、第一版日本薬局方(明治19年公布)の編纂に尽力した。医薬分業をめざして起草した薬律(明治22年公布)が骨抜きにされるに及び、一切の官職を退いた。明治36(1903)年、薬学博士。

 

【関連文献】

森鴎外『雁』(新潮文庫,1985

山科樵作「蕘蹊柴田承桂先生」(『薬局』連載,1953

根本曽代子「艸楽太平記──柴田承桂先生の巻」(『週刊日薬新報』連載,1959-1960

金尾清造『長井長義伝』(日本薬学会,1960

角田文衛「柴田承桂博士と古物学」(『古代学』10-11962

田中実『日本の化学と柴田雄次』(大日本図書,1975

根本曽代子『日本の薬学──東京大学薬学部前史』(南山堂,1981

安江政一「柴田承桂と長井長義──先覚者たちの薬学振興論をめぐって」(『薬史学雑誌』21-1,1986

徳永康元『黒い風呂敷』(日本古書通信社,1992

楢原恭子「近代薬学・薬局方──医薬分業も主張した柴田承桂」牧野昇・竹内均監修『日本の「創造力」第5巻・洋風文化と意識刷新』(日本放送出版協会,1992

柴田南雄『わが音楽わが人生』(岩波書店,1995

山口昌男「親族の教養──柴田南雄『わが音楽わが人生』のための私注」(『文学』7-41996

山崎幹夫「明治このかた、薬学の出発と挫折」(『学燈』95-41998

徳永重元「百科全書『地質学』と柴田承桂」(『地質学史懇話会会報』142000

柴田承二『薬学研究余録』(白日社,2003

鈴木廣之『好古家たちの19世紀──幕末明治における《物》のアルケオロジー』(吉川弘文館,2003

 

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