上村泰裕「柴田南雄『わが音楽わが人生』を読む」

 

「芸術を通じてLebenをより深く認識すること。さうだLebenとは何か。人はいつも

その一点を見つめて生きなければならぬ。」 (柴田南雄一九四三・九・二七)

 

柴田南雄氏は、筆者がもっとも尊敬する音楽家ないしは音楽思想家であり、その新しい作品をいつも心待ちにしている作曲家である。本書は、その柴田氏が八十歳を目前にして人生を回顧した自伝であるが、世の多くの自伝とはことなり、功成り名遂げた老人の主観的な昔がたりという感じが少しもしない。聞くところによると、表題は出版社がつけたもので、原案は「いづかたより来たりていづかたへか去る」という方丈記の言葉からとることを考えていたそうであるが、著者は、貧しく自己完結した「わが」音楽や「わが」人生を語るかわりに、八十年のうちに見聞した音楽と人間と社会について可能なかぎり克明にレポートする。それゆえ本書は著者自身の人生をこえて、近代日本の音楽社会史となったのである。「テクストは、個人を越え時代を越えて複雑に絡み合っており、一人の〈天才〉の中で完結してなどいない」と書く著者にとって、このような開かれた叙述スタイルをとることは当然の選択であったかも知れない。

関東大震災は著者が小学校一年生の九月におきたが、それについての数ページはこの自伝の特徴を端的にあらわしている。著者はまず、最新の平成七年版理科年表によりつつ地震のおきた時刻とマグニチュード、震源の正確な位置、滞在していた逗子海岸から震源までの距離を記す。つづいて、当日の朝、海岸に溺死体がうちあげられる事件があったこと、地震がおきた瞬間、書院の小障子から庭に飛び降りたこと、屋根瓦が落下するさま、逗子町全体の被害状況、津波のこと、避難のこと、横須賀海兵団の水兵の一隊が行進してきたこと、震災後は帝都復興のあわただしさで省線電車が異常に混雑していたこと、などがまるで昨日のことのように生き生きと描き出される。筆者など昨日のことでもこうは書けないと思うが、これは外界の事物に対する著者の意識の明晰さと記憶の詳細さのほんの一例にすぎない。他にも、父親が歌っていた鼻唄の数々のこと、幼稚園時代に乗ったSLの形式番号のこと、高校時代に聴いた新響(今のN響)の演奏会のこと、ローゼンストックの指揮するヴェルディのレクイエム日本初演の合唱に参加したこと、戦争中に石神井大神学校で一年間日曜ごとにグレゴリアン・チャントを聴いたこと、戦争末期の山田耕筰の言動や服装のことなど、個人的な見聞が語られているようでありながら、つねにその背景に音楽と社会の歴史が映し出されるのは見事である。

ちなみに、著者は理学部植物学科と文学部美学美術史学科を卒業し、東大オケ(60年前も二食ホールで練習していた!)でチェロを弾いていたわれわれの大先輩であり、戦後はお茶大音楽科の助教授や駒場の非常勤講師もつとめられたので、本書にはわれわれのよく知っている場所もたくさん登場する。ついでに言うと、白ばら会合唱団の名称の由来である《白ばらの匂ふゆふべは》は、柴田氏が戦後すぐに東京音楽書院嘱託として多くの合唱曲を編曲した中の一曲である(大久保正編曲となっているのはペンネームである)。それは、スイスのチューリヒの楽譜出版屋であったHans Georg Nägeli(1773-1836)が、Martin Usteri(1763-1815)の詩に民謡風の曲をつけたもので、原題はFreut euch des Lebens(人生を楽しく,1793)である。この曲は、明治14年版『小学唱歌集』のなかに《年立つ今朝》という題でお正月の歌として入っている。また、リストのスペイン狂詩曲やマーラーの交響曲第3番の第3楽章などにも引用されている。《白ばらの匂ふゆふべは》という歌詩は、柴田氏が東京音楽書院の仕事を手伝う前にそこの編集者であった高橋信夫という人がつけたもので、その高橋氏の兄は第3回芥川賞(『コシャマイン記』1936年)の作家・鶴田知也氏であるという。なお、先日の白ばら50周年パーティの折、清水紀久子さんほか3人の創立時の団員の方々から伺ったところによると、昭和19年から20年にかけての最初期には団の名前は決まっていなかったらしい。清水さんたちはこの曲を団員の春章(はるあきら,美学科)氏の編曲で歌っていたそうで、その楽譜には「1946年秋 白ばらコーア」と記されていた。「大久保正」編曲版は『ポピュラー混声合唱曲集1』として1947年10月1日に刊行されているのだが、日付の前後関係に若干の疑問が残る。作詩の高橋氏は前記のように東京音楽書院の編集者だったのだから、影響関係としては「大久保正」版をもとに春氏の編曲が行われたと見るべきだろう。春氏の編曲は「大久保正」版よりも手が込んでいて、再演すると面白いかも知れない。

さて、この自伝を面白い読み物にしているのは、記述の詳細さとならんで、良い意味での「科学的」な視点だろう。著者は、実にさまざまな「比較」を試みているのだが、新鮮な着眼に驚かされることしばしばである。たとえば、明治時代のお傭い外国人教師の来日時の年齢を専攻分野別に比較し、新進気鋭の教師たちが教えた他の分野に比べて、音楽教育の扱いがいかに異質であったかを明らかにする。ナウマン象で有名な地質学者ナウマンは来日当時二十五歳、哲学・美術史のフェノロサも二十五歳、医学のベルツは二十七歳であったが、音楽のメーソンだけは六十二歳の高齢であり、アメリカの片田舎の唱歌教育の専門家であった。「当初のボタンのかけちがいは明らかだ」という。また、池内友次郎の《ハ長調のフューグ》と師・諸井三郎の《フーゲ・ト短調》のテーマを比較して、日本におけるフランス楽派とドイツ楽派の性格を対照させる。池内友次郎は多くの弟子を養成したが、作風自体はコンセルヴァトアール(直訳すれば「伝統技能保持者養成所」!)の様式を厳守した。一方、諸井三郎門下は数は少ないが、意欲的に調性拡大の可能性を追求していったという。また他のところでは、音楽史の各時代には、猥雑から整頓をへて混沌にいたる周期的な反復構造があると指摘し、著者たちが作曲活動を行なっている一九五〇年以後の時代は、西洋音楽がキリスト教と合理主義に基づく八百年の発展に終止符を打ち、世界の民族音楽の影響下に新たな旅を開始した「第四音楽時代」の発端にあたっていると述べる。もちろん、この時代については、著者たちが主宰した戦争直後の作曲団体「新声会」や五〇年代の「二十世紀音楽研究所」の軽井沢現代音楽祭などについての詳細な記述のなかに、新しい音楽の生まれる瞬間があざやかに活写されている。

第二十章の「ゆく河の流れは絶えずして」は、一見、九〇年代の音楽時評の再録であり、この長大な自伝の最終章としてはいささか手抜きのようにも思われるが、実はそうではない。好奇心旺盛な著者の耳は六つの演奏会のなかにたしかに未来の音楽の萌芽を聴きとっている。ゆく河の流れの来し方と行く末について語る本書は、単なる自伝でないばかりか単なる音楽社会史でもなく、それは未来音楽の予言の書でさえあるのだ。たとえば、カラヤンとチェリビダッケを対照させ、エレクトロニクスとコマーシャリズムが演奏様式を不当に歪曲している現代の風潮にひとり抵抗するチェリビダッケについて、近年世界的に輩出してきた女性指揮者のなかからその理念の継承者が現れるだろうと述べる。また、少年モーツァルトの交響曲の背後にその一時代前のイタリア祝典音楽やバッハの息子たちや若きハイドンの音楽様式を浮かびあがらせるコープマンの演奏、バッハを換骨奪胎したペルトの《クレド》、ベーコンの絵画にちなんで作曲されたタネジの《絶叫する三人の法王》などについて書きながら、メタ・ミュージック的、多重構造的な音楽の増加を予想する。

著者は、現在、オーケストラと合唱のための大作《賢王年代記》(作品一二〇)を作曲中と聞く。音楽の歴史の流れとともにゆくその旅は、これからも続くことだろう。われわれもまた、この音楽史的自伝を手がかりに、音楽の旅に出ることができる。

 

1995年11月3日。初出「ほん」誌。「ばらの木」誌と『追懐録』に再録。

柴田南雄『わが音楽わが人生』岩波書店・1995年・3200円)

 

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