上田良二「理科教育と家元制度」



お茶でもお花でも、日本の芸事には家元制度があって、師匠は家元の言う通りに教え、弟子は師匠の教える通りに習う。自分で新しいことを考えるのは家元だけで、師匠といえども新機軸を打ち出すことはまずない。この風習は日本人の間に深く染み込んでいるため、日本古来の芸事だけでなく西洋音楽やスポーツでも似たことが行なわれている。また、芸事に限らず理科教育でも、教科書の通りに教えたり習ったりして疑う者がない。理科教育では、指導要領を決める文部省が家元の役をしているようだ。この制度は、一応の水準を保つにはよいが、個性を生かし才能を伸ばすには適さない。

ある高校の先生が某社製の実験装置は駄目だと言うから、理由を聞いてみると、教科書通りの結果が出ないという。ところが、少し考えてみると、その結果は大変に面白いことだった。そこを考えるのが理科の理科たる所以で、教科書と違うから駄目だというのは理科という名の稽古事でしかない。

最近は才能を伸ばす教育が盛んに叫ばれてはいるが、われわれ日本人の背後には家元の思想が染み込んでいて離れない。一人の家元が現われて才能を伸ばすと称する教育の枠を作ると、ものを考えない教師どもがその枠のもとで画一教育をする。それでは才能が伸びるはずがない。個性を発見し才能を伸ばすには、教師みずからが考え、その体験に基づいてものを考える生徒を引き立てなくてはならない。どの生徒を引き立てるかの選択は、教師自身の観察と判断に俟つべきである。

私がこうした主張をすると、そのような主観的方法はとるべきでないと反論され、それを教師に要求するのは酷だと批判される。しかし、私にはそれが家元制度の論理だとしか考えられない。自分で判断することは家元の権威に従うより難しいし、人間である以上、判断に誤りは避けられない。それでも、その困難にあえて挑戦しようとする姿勢が、理科の教師には必要なのである。ところが実際は、家元の教えを守るだけの教師が多く、しかもそのほうが文部省からも組合からも歓迎されているようだ。この悪伝統から抜けきらぬ限り、才能を伸ばす理科教育はあり得ない。

(「応用物理研究会報」、1977年)


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