上田貞次郎「サラリーマンと資本主義」



欧洲大戦にともなう好況時代から以後約十年間に、東京大阪の地理は非常な変化を遂げた。すなわち東京についていえば、丸の内の草原がビジネス・センターになって大きなビルデングの群聚を見るに至ったのはこの間の変化である。毎朝幾十万の洋服着た人が東京駅有楽町駅から吐き出され、また毎夕その人たちがそこへ吸い込まれていくのも、この新東京の光景である。さらにこの間に中央線山手線に沿うて幾多の新市街が出現し、文化式新住宅が開け、昭和七年は大東京の市域拡張に至らしめたのである。そこでこの大変化の由って来たるところ如何といえば、サラリーマン階級の発達にありといわねばならぬ。もちろんその根本原因は日本資本主義の発展ということだけれども、資本主義の発展はサラリーマン階級の勃興をともなわずしては起り得ないことだ。

サラリーマンは「月給取り」であり「勤め人」であり、官公吏およびそれに幾倍するところの多数の民吏である。国勢調査には各種職業別に「業主」と「職員」と「労務者」とを区別して人口を計算しているが、大正九年の調査によると、この「職員」の総数は男が136万1400、女が15万3000で、合計151万4500あった。その家族を加えると、358万4000になる。当時のわが国人口は5590万であったから、その六分三厘がこの階級に属するわけだ。この調査をした時から今日はもはや十年以上経過しているから「職員」の数はもちろん大いに増加しているが、総人口に対する割合もまた必ず増加したことと信ずる。この階級は明治初年にもあったけれども、それは全く官公吏に限られていたのみならず、官公吏そのものの数が至って少なかった。その後、帝国大学は多くの官吏を出し、慶應や一橋は多くの民吏を出し、やがてその他の各大学や専門学校が無数の官吏、公吏、民吏を出したので、右のごとき大きな社会的階級をなすに至ったのである。而してその膨脹が大正以後において特に著しかったことは、前にいった東京の地理風景の変化という事実が示す通りである。




サラリーマンは新中産階級である。農村の地主および中小商工業の業主は旧中産階級である。数においては新中産階級はまだまだ旧中産階級に及ばない。大正九年の国勢調査によると、各種職業における業主、職員、労務者の数(家族を含む)は左のごとくである(表は省略)。

すなわち、業主の人口は3000万で、労務者のそれは2000万にしかならない。業主よりも労務者が少ないことは異様に感ぜられる。これは農業における小作人が統計では業主の中に入り、その他商工業等においても労働者同様の手工的小企業者がことごとく業主にかぞえられいるからであるが、とにかくわが国では旧中産階級の数はよほど大きなものであるに相違ない。商工業だけを合計しても業主の数は940万に近くあって、あらゆる職業における職員の総数358万よりもはるかに多い。

しかしながら経済上政治上の勢力から見れば、新中産階級はその数が示す以上に容易ならざる地位を占めていることは確かである。何となれば新中産階級は資本主義制度の担当者であり、大事業の指導者であり、知識階級である。旧中産階級は間接に新中産階級に指導されているといってもよい。




英語で中産階級はミッドル・クラスであるが、この熟語は産業革命前から用いられていた。それはブルジョアすなわち町の人であり、「町人」を意味するものであった。その時代には地主たる貴族および準貴族と百姓とが社会の主たる階級であって、都市の住民は少数であったが、その市の商工業者をミッドル・クラスと呼んだのである。このクラスの中から「富は王侯を凌ぐ」者が出て貴族と結婚し、または自ら貴族になった。19世紀になって都市の富豪は数においても富においても地主を超越し、地主の上層階級も土地の代わりに株券をもつようになったから、ブルジョアといえば金持ちの異名になってしまった。而して一面には農民が都市へ移住して商工業の労働階級となったから、ここにブルジョアとプロレタリアとの二階級が社会の主要階級となった。1848年にマルクスが共産党宣言をかいた時にはこれだけの観察をなしたのである。しかし二階級の対立ということはじつは正確でない。近代的大事業は持ち主と労働者だけでは動かないから、いわゆる中間の指導者、中間の支配者が入用になる、それがサラリーマンすなわち新中産階級である。英国では農村の小地主はほとんど消滅し、都市の小企業者も大いに減少したから、新中産階級の社会における地位はわが国におけるよりも一層重要である。

支那やインドには現今でもサラリーマンは至って少ない。帝政時代のロシアでもはなはだ少かった。したがってロシアの革命中にはサラリーマンの活動は現われず、新ロシアはサラリーマンに当たるところの人物を大急ぎで養成しつつある。事業の単位が小さかった中世的社会にはサラリーマンは不用だけれども、その単位が大きくなればこの種の人物が必要になる。資本主義でも社会主義でも同様にこれを必要とする。




サラリーマンは、要するにサラリーをもらって生活する人であり「月給取り」である。その労働者と異なるところは、日給の代わりに月給または年俸をもらうだけのことである。一の営業の持ち主として利潤を得る人とは断然その所得の性質を異にするが、労働者とはこの点において大した区別がない。ただしサラリーマンはピンからキリまであって、上級になれば賞与金と称する利潤の分け前をもらうから半分は業主の性質を帯びる。けれども多数のものは月給だけで暮らす。ボーナスをもらうといっても金額は大抵一定したもので、月給の一変形に過ぎないのみならずその金額が少ない。ある大会社ではその利益金中、従業者に分かつべき金の半分を重役が取り、四分の一を少数の部長や支店長が取り、残りの四分一を幾千人の社員に分けてやるそうだ。

かくのごとくサラリーマンはだいたい労働者と同様のものだから、その気質も労働者同様になりそうなものと思われる。また実際において、英独等にはサラリーマンス・ユニオンまたはブラックコート・ユニオン、ホワイト・カラー・ユニオンなどと呼ぶ労働組合がある。わが国でもかつてサラリーマンス・ユニオンのできたことがある。けれどもこれらは労働組合として有力でない。黒衣白襟は外形だけのことにあらずして、精神的にも一般労働者と同じくないところがある。その所得金額が上級労働者に及ばざる場合でも、何となく優越感をもっている。口では何といふか知らないが、腹の中では社会の指導者をもって任じている。

わが国のサラリーマンは、明治初年には士族の後身であった。その後は高等教育を受けた者の目標であった。「武士は食わねど高楊子」という見識が伝統になっている。わが国では、株式会社制度が発達したのは士族がサラリーマンになったからだ。支那でこの制度の起こらないのは士族がないからだ。アダム・スミスは、株式会社の重役や社員は他人の財産を預かって運用するのだからその経営が放漫になるといったが、それは旧中産階級の心理から出発した言であった。わが国の士族は公の財産を取扱うことに慣れて、清廉潔白の徳を具えていたから、誂え向きのサラリーマンであった。明治時代には官吏はもちろんのこと、民吏もまた熱烈なる愛国者であって、国家のために商工業を営むという気概があった。今ではそんなことはないけれども、しかしながら技師は技術の完成を欲し、支配人は事業の経営の合理化を欲する。事業の発展ということはサラリーマンのもつ抱負である。

サラリーマンが階級闘争の熱を出さないのは、自分が少しつつでもボーナスを多くもらうようになり、うまく行けば重役になるという、いわゆる青雲の志を抱いているためである。けれどもその営利心のほかに、事業の合理的経営という動機が働いている。ただし、このような動機は労働者にも全然ないわけではない。いわゆる「職人気質」「ウォークマンシップ」の尊重ということである。動機はサラリーマンほど強くない。多くの場合、労働者にとって労働は苦痛であり、楽しみは労働時間外にある。けれども、必ずしもそうばかりとはいえない。




とにかくサラリーマンは資本主義にとって大切な人物である。彼らにサボられてはいかなる大事業も発展することはできない。近来わが国でサラリーマンが資本家の助手となり、あるいはさらに進んで代理人となり受託者となって忠実に働いたことは、資本主義発展の根本的条件であった。同時に日本国民経済の強味でもあった。実際現今の日本を築き上げたものはサラリーマンであったといってもよい。

しかるに近年は、高等教育機関の大拡張によってサラリーマンは過剰生産された。しかも引きつづく財界不況の結果、新事業が起こらないので彼らの地位に一大変化を生じた。大学や専門学校の学生は、卒業するとともにまず就職難に会い、幸いに就職しても累進の機会が乏しくなった。そこで彼らの心理状態にも変化が起こり、いわゆる青雲の志は衰えて意気やや銷沈の気味がある。もとより真に力量才幹ある者はなお前途に大抱負を有して奮闘しつつあるが、一部の者は早くも立身の希望をなげうって安価な楽しみを職業以外に求め、あるいは資本主義に見切りをつけてしまった。

ある若いサラリーマンの話に、明治時代から大正初年までは学校を出て職についた人々は力さえあれば順序よく累進して現に相当の地位を占めているから大いに得意である。大戦直後までの者もまだまだ事業上の抱負をもっている。しかし昭和恐慌以後の就職者は元気がないばかりでなく、仕事に興味をもつ者が少ない。彼らはどうせ指導的の役目を引き受けるようになる望みはないと諦めているから、現在の職業はただ衣食のためにやっている気持ちで、首を切られさえしなければよいとする。大いに自分の従事する事業を研究して将来の計をなすよりも、むしろ眼前の楽しみを職業以外に求めようとする。かくして彼らはいわゆるプロレタリアの心理状態になったわけだが、さればといって断然左傾する勇気もないから、ただふらふらと日一日を送るのだという。以上はその階級に属するある一人の観察であって、事実はさほど絶望的になっているとは思わないが、とにかく最近の状勢の一端をとらえた言である。彼らは長期の不況の下り坂にのみ乗ってきたから、不況と資本主義とを同一視するような誤解に陥る者もあるらしい。




さて、翻ってこれを日本の国民経済という立場から見ると、じつに寒心すべきことである。日本の産業革命を指導し来たったところの重要なる階級が希望を失い、抱負を失い、特に事業に対する興味を失いつつあるとすれば、日本の資本主義だけの問題でなくして、じつにわが産業能率の低下を意味する。およそ人間の努力というものは、金銭上の報酬、または免職によってその報酬を失うことの恐怖によって刺戟されることもちろんだが、それだけでは積極的の活気が出てこない。それ以上の高尚な動機、すなわち事業欲というものが必要である。特にその努力の性質が機械的でなくして、自発的裁量を要する場合において、この事業欲の動機の必要は切実である。この点については実業界の首脳者は大いに考慮されてしかるべきことと思う。不況のため就職競争の激しくなるにつれ、有力者の子弟が凡庸にかかわらず大銀行会社に採用され、優秀なる貧書生が取り残されると聞いているが、かくのごときは右の道理から見て、はなはだよろしからざる影響を生ずるに相違ない。現にある会社では、縁故で入社したる金持ちの馬鹿息子たちが多いために事務が渋滞して、少数の実力ある社員のみ多忙を極めている。その一方に坊ちゃんたちは月給以外に小遣をもらってきて、ゴルフ、ドライブだと贅沢な遊びをすることのみ考えているから、その以外のものははなはだ不平だといわれている。むかし優秀なサラリーマンであったところの今の重役たちは、大いに注意して可なりだろう。

近ごろロシアの五ヶ年計画が終了に近いために、外国の学者や新聞記者などが視察に出かけたりして色々の情報を伝えている。その中に社会主義に味方するものは、ソヴィエット政府が社会主義制度の完成を標語として従業者の努力を激励することの効果を強調している。すなわち、彼らは今や空前の一大実験に臨み、資本主義に敗けないだけの能率を発揮せねばならぬという自覚を絶えず喚起しつつある。而して従業者はその努力の結果が資本家を富ますことにならずして、国家および社会のための奉仕になることを知るがゆえに勇奮するのだと見ているようだ。果たしてロシアの能率が資本主義の諸国以上であるかは疑問だとしても、かかるスローガンの効果は偉大なりと想像される。

しかしながら、社会主義制度により利潤を廃止しても、個人の利己心が廃止されるわけでない。報酬なしに個人の努力を刺戟することはできない。ロシアでも勤勉な者に賃銀を多く与えるために個数払いを行うようになり、また、特殊の才能ある者は追々高給を与えられることとなった。彼の国では技師、支配人、事務員、職工長などが不足しているから、政府はこれが養成に勉め、かつ高給を与えて奨励するらしい。だから有産者無産者の区別はなくても高給者と低給者の区別はなかなか大きい。生計程度の高低も自然にできるわけだ。社会主義を終極の理想という者があるか否か、またもしあるとすれば右の事実はその理想に適っているか否かということは別問題として、ぜひここに指摘したいのは、資本主義を廃止してもサラリーマン階級は残るということだ。而してそのサラリーマンの有能かつ正直であるかないか、その勤勉努力を奨励するところの刺戟が存在するか否かは、社会経済上の一大問題だと思うのである。

(「経済往来」1933年3月。上田貞次郎『白雲去来』所収)


トップページへもどる