牛津日記抄

 

2000年3月4日から4月1日までオックスフォードに滞在し、それから数日パリを見物してきました。以下はその記録です。

イギリスは中国に比べると、常識をくつがえされるような刺激には乏しい感じでしたが、

それでも各国からの留学生と話すことができたのは貴重な経験でした。

 

3月4日
成田からソウル経由でヒースロー空港に着く。ソウルの高層アパート群、中国の農村、雪を戴くどこかの山脈、シベリアの平原、ロンドンの街区などを上空から観察。滞在先のカーネル夫人宅はオックスフォード北郊。夫人はThe Oxford Illustrated Literary Guide to Great Britain and Ireland(Oxford University Press,1977,1981)という本の著者。35年前に亡くなった夫君はオックスフォード大学の講師だったそうで、旧植民地の政治史が専門だったそうだ。親切で話好きな73歳のおばあさん。夕食のイギリス料理は、うわさにたがわず鶏肉と野菜を茹でただけの単純なものだったが、まずくはない。

3月5日
オックスフォード市内散策。現代美術館でAudible Lightという環境音楽の展覧会を観る。クライストチャーチ・カレッジの食堂では『不思議の国のアリス』の作者ドジソンの肖像画を観る。附属美術館でイタリアやオランダの古い絵を観る。マートン・カレッジの美しい花壇を観る。ブラックウェル書店でギデンズやベックの新著を立ち読み。トーマス・ヒル・グリーンやアーノルド・トインビーがいたことで有名なベイリオル・カレッジの傍を北上し、ウェリントン広場から再び南下。6時からクライストチャーチ大聖堂の聖歌礼拝に行く。クライストチャーチ聖歌隊が、ブルックナーのEcce sacerdos magnusなどを歌う。宗教音楽を初めて「現場で」聴く。お祈りのあいだは周囲をきょろきょろ見まわしたりしているボーイソプラノの少年たちが、じつに宗教的、音楽的に歌う。日本の合唱団が趣味で歌う宗教音楽とは存在理由が違う。当方は礼拝の手順がわからず、まるでミスター・ビーンのよう。〔註:後で知ったことだが、ミスター・ビーンの主題歌は何とクライストチャーチ聖歌隊が歌っている。作曲者のHoward Goodallはクライストチャーチ・カレッジの音楽学者で作曲家。Missa Aedis Christi(1993)をはじめ多くの教会音楽を書いている。元聖歌隊員というから筋金入りだ。例の主題歌はラテン語で「見よ豆(ビーン)である人を、さらば豆である人」(Ecce homo qui est faba, Vale homo qui est faba.)と歌っているのだそうだ。下らないところでやたらに学がある。ちなみに、ミスター・ビーンを演じている俳優もオックスフォード大学卒業とのこと。〕

3月6日
ロンドン経済大学(LSE)の公開講演会を聴きに行く。講師はジョンズ・ホプキンズ大学のデイヴィッド・ハーヴェイ教授。
Cosmopolitanism and the Banality of Geographical Evilsと題する。最近のグローバリズムに代表されるようなコスモポリタニズムは、地理学的・人類学的知識によって鍛えられる必要がある、といったような話だったが、3分の1も聴き取れない。イギリス英語に敬意を表して、「ジアグラフィ」を「ジオグラフィ」と何度も言い直していたのが面白かった。司会は有名なギデンズ学長(ブレア首相の師匠で、「ニュー・レイバー」のシナリオを書いた社会学者)だったが、ハーヴェイの講演に対して何もコメントしなかったのは期待外れだった。

3月7日
The Swan Schoolの授業の初日。クラスは日本人、スイス人、スペイン人、イタリア人が各2名、台湾人、トルコ人、ブラジル人、マケドニア人が各1名という構成。友人宅を訪問したときの決まり文句などを習う。内容はばかばかしいが、いざ言おうとするとすぐには言えないことばかり。中国語と違って英語はなまじ知っているだけに、ばかばかしいことが言えないと腹が立つ。また、言えるようになったところで喜びが少ない。英語にはややこしい慣用動詞句が多すぎる。中国語をグローバルスタンダードにしたほうがよいのではないか。

3月8日
ナフィールド・カレッジの公開セミナーを聴きに行く。公開とはいうものの、出席者はみな顔見知り同士のよう。セミナー用の小さな階段教室で、部外者は居場所に困る。フィレンツェにあるEuropean University Instituteのリチャード・ブリーン教授の報告で、北アイルランドの労働市場における宗教差別意識の計量分析。司会は『収斂の終焉』のゴールドソープ教授。ベイズ統計学など数学の話が多くてむずかしかったが、ディスカッションは理論モデルとデータの関係についての話などで興味ふかかった。数学の話をむずかしく感じたのは他の出席者も同じだったらしく、誰かが「今日はまるで経済学のセミナーみたいだったね」とつぶやいていた。

3月10日
クラスの人たちとクライストチャーチ緑地でサンドウィッチの昼食。その後ひとりで
ニュー・カレッジを観に行く。「ニュー」といえども1379年創立である。カレッジのチャペルでは数人の学生が合唱の練習をしていた。軽快なポピュラー曲だったが、こんな贅沢な練習場で歌っていればうまくなるのは当然だ。そもそも合唱音楽は、大聖堂が建てられるようになってから、その大空間を満たすために発達したのだった。広い芝生の庭は草花が満開で、学生がベンチに寝そべって本を読んでいた。こちらもまた贅沢すぎる勉強部屋だ。ボドリアン図書館を通って、ブラックウェル書店に行く。Bruce著のSociology: A Very Short Introduction(1999)、Kagarlitsky著のThe Twilight of Globalization(2000)、Bulmer編のCitizenship Today: The Contemporary Relevance of T.H.Marshall(1996)などの本を買う。Kagarlitskyはロシアの比較政治学者。ネオリベラル的グローバリズムに対抗して、新しい社会主義者はpatrioticにならなくてはいけないと説く。Bulmer編の本は、ダーレンドルフ、ギデンズ、ゴールドソープ、ドーアなど、錚々たる執筆陣。

3月11日
学校のバス旅行。ストーンヘンジ、ソールズベリー、エイヴベリー。ストーンヘンジとエイヴベリーは原始時代の巨石があるだけでそれほど興味はない。ソールズベリー大聖堂は壮麗なゴシック建築。マグナカルタの原本や古い時計を観る。Haunch of Venison(鹿の後脚?)という古いパブでパイとギネス・ビールの昼食。エイヴベリーまでの道すがら、教会の尖塔を戴いた村々の景色が美しく、子どものころ見た絵本を思い出した。深夜、クラスの友人たちとともにオックスフォードのClub Latinoというディスコに行く。足の踏み場もないほどの混雑。テキーラを数杯あおり、スペイン人のロシオさんから情熱的なダンスを習うがうまくいかない。へとへとになって帰る。

3月12日
ウォーターストーン書店でSpickerらの新著Social Policy in a Changing Society(1998)と、PiersonによるConversations with Anthony Giddens(1998)という本を買う。後者はインタヴュー形式の本なので口語の勉強になる。第1章はギデンズの自伝。大学院時代のギデンズは公務員になるつもりだったので、あまり深く考えずに「現代イギリスにおけるスポーツと社会」(!)という題で博士論文を書いたのだそうだ。オックスフォード最古という1040年建立の聖ミカエル教会の塔に登る。それから最も眺めのよい聖マリア教会の塔にも登る。
モードリン・カレッジの庭を歩く。一面の水仙が満開。クライストチャーチ大聖堂の聖歌礼拝を聴く。今日はパーセルの曲など。

3月13日
カーネル夫人の著書The Oxford Illustrated Literary Guide to Great Britain and Irelandを借りて拾い読み。300ページを超す大著で、イギリスじゅうの文学史跡を詳細に紹介した事典。共著者の故イーグル女史とともに、7年をかけて完成させたとのこと。オックスフォードの項には、たとえば次のような記事が満載されている。「
ユニヴァーシティ・カレッジ1776年、ジョンソン博士は名誉法学博士の学位を受けるためにオックスフォードを訪れたおり、ボズウェルとともにここで晩餐をとった。このとき博士は悪酔いもせずにポートワインを3本空けたと伝えられる」。ホッブズはモードリン・ホールを1608年に卒業、ジョン・ロックはクライストチャーチ・カレッジを1658年に卒業している。「オックスフォードは仕事に甘味を、遊びに威厳を与える」(Oxford lends sweetness to labour and dignity to leisure.Henry James,1883)。

3月15日
今日はupsetという言葉の使い方を習う。中学以来愛用してきた研究社の新英和中辞典には「狼狽した」とか「心配した」と書いてあるが、ふつうそんな意味では使わないという。
I was upset when I heard of his death.というように、事件が起こったために一時的に失望したという場合に使うのだそうだ。英英辞典には確かにそう書いてある。英和辞典は英語を「読む」ためにつくられているので、語義がたくさん書かれすぎているのかも知れない。

3月16日
ここ数日は昼休みに古本屋めぐり。ソーントン、アンズウォース、ウォーターフィールドなど。夕方、カーネル夫人の本の記述をたよりに、トーマス・ヒル・グリーンの墓を訪ねる。グリーン(Thomas Hill Green,1836-1882)は、ベイリオル・カレッジの道徳哲学教授。新カント派の立場から功利主義と自由放任主義を批判し、社会改良主義を提唱した。イギリス社会政策学派の祖ともいうべき人物で、産業革命史研究の先駆者トインビー(Arnold Toynbee,1852-1883)やその後のフェビアン社会主義者たちに影響を与えた。日本では、河合栄治郎の著書『トーマス・ヒル・グリーンの思想体系』によって知られる。ウォルトン通りの聖セパルチャー墓地は、まわりを工場に囲まれた薄気味わるい古い墓地。墓守の夫人に訊ねると、グリーンは知らないが、同時代にベイリオル・カレッジの校長だった古典学教授ベンジャミン・ジョウェットの墓はあそこにあるからそのあたりを探してみては、と言われそのとおりにする。まさしく、その二つ隣りにグリーンの墓はあった。墓碑銘は以下のとおり。

THOMAS HILL GREEN
FELLOW OF BALLIOL COLLEGE
BORN APRIL 7.1836
DIED MARCH 26.1882
WE WALK BY FAITH,NOT BY SIGHT
ALSO
CHARLOTTE BYRON GREEN M.A.
WIFE OF THOMAS HILL GREEN
AND DAUGHTER OF
JOHN ADDINGTON SYMONDS M.D.
OF CLIFTON,BRISTOL
BORN AUG.12.1842,DIED SEP.4.1929

カーネル夫人の本によると、グリーン夫人の父サイモンズは詩人、翻訳家、随筆家、批評家で、やはりベイリオル・カレッジに学んだとのこと。しかし、生没年が「1840-1893」となっていて、なぜか娘の年齢と計算があわない。詩人は同名の息子だろうか。

3月17日
アシュモリアン博物館を見物。エジプト、ギリシャ、ローマ、中世から近代にかけてのヨーロッパ、アラブ、インド、中国、日本などの美術品、工芸品がたくさん。地元の小学生たちが展示物を写生していた。博物館はある種の世界観によって構成されているが、一方それは小学生たちの世界観を構成していくに違いない。圧倒的なギリシャやローマの遺物を眺めていると、先進諸国のなかで日本がいかに異なる伝統を生きているかを再認識させられる。夜はロンドンのロイヤルフェスティヴァルホールに、ロンドン・フィルの演奏会を聴きに行く。バッハのヨハネ受難曲を、ニュー・カレッジの聖歌隊が歌う。指揮者のマーク・エルダーによるプレトークを聴く。バッハのコラールを聖歌隊と一緒に歌うという企画。多数の中年紳士淑女が立ち上がって歌っていた。本番の演奏は、ときおり優雅な乱れを生じたものの非常に説得的。イギリス人がドイツ語の歌を歌うのは、方言を使うくらいの感覚なのだろう。ボーイソプラノの少年たちの歌唱も見事。アシュモリアン博物館で3歳くらいの少年が流暢な英語で(あたりまえだ)冗談を言っているのを聞いたが、われわれにとっては少年たちの冗談や歌声をまねることさえ至難の業だ。

3月18日
カーネル夫人の運転と案内で、同宿のピーター君とともに
コッツウォルズ地方をドライヴ。ピーター君はスイスのチューリヒ出身だが、父親はハンガリー生まれ、母親はチェコ生まれだそうだ。バーフォードという町を通り、ヘダロップ・カッスルという屋敷を傍らに見た後、ウィリアム・モリスが「イングランドで最も美しい村」と称えたというバイブリーの水車小屋を観る。エイブリントン・マナーを通り、コーンロジャーズという村の聖アンドリュー教会を訪ねる。1150年創建という。どこの教会にも戦死者慰霊のプレートがあるが、この教会には第一次大戦から生還した26名の兵士の感謝のプレートがある(“…ALL OF WHOM BY GOD'S GREAT MERCY RETURNED SAFELY.)。チェドワースという急坂のある町を通り、ウィディントン村のThe Mill Innという古いパブで昼食。ploughman's lunch(農夫弁当)とビールを頼む。それから高い丘のうえにあるベラス・ナップという古墳(紀元前2500年)を訪ねる。ヘンリー8世の未亡人の居城スタッドリー・カッスルをはるかに望む。スタンウェイの美しい屋敷を観てから、スタントン村のThe Mount Innというパブでお茶を飲む。ストウ・オン・ザ・ウォルドという町を通り、スウィンブルック村の聖マリー教会を訪ねる。この教会の歴史も13世紀にさかのぼるという。フェティプレイスという領主家の代々の臥像を観る。同家は、ヘンリー7世に仕えた初代から産業革命前まで続いた。カーネル夫人の案内ならではのコッツウォルズ小旅行だった。夜はシェルドニアン・シアターでケンブリッジ大学音楽協会の演奏会を聴く。スティーヴン・クロベリー指揮で、バーンスタインのチチェスター詩篇とオルフのカルミナ・ブラーナ。昨日とは打って変わって気楽に聴ける音楽。演奏もケンブリッジのアマチュアによるもので、日本のアマチュアと天地ほどの差はない。オックスフォード市民合唱団で歌っているというペニーさんと偶々隣席。友人の社会政策学者を紹介するから、来週の市民合唱団の演奏を聴きに来いという。シェルドニアン・シアターは有名なクリストファー・レン(1632-1723)の最初の作品(1669年)だそうで、響きが悪く椅子が堅いのが難点だが、顔見知りの市民同士の集会場という感じで親しい雰囲気。

3月19日
ロンドン見物。ウェストミンスター橋から国会議事堂や対岸のカウンティ・ホールを眺める。ダウニング街の首相官邸も遠目に見る。3時から
ウェストミンスター寺院の聖歌礼拝に行く。ウェッブ夫妻(Sidney Webb,1859-1947,Beatrice Webb,1858-1943)の墓を探したかったのだが、今日は礼拝のみで見物は不可だからと案内係のおじさんに断られる。それでも、北翼堂の席にたどりつくまでにヴォーン-ウィリアムズ、ハウエルズ、ウォルトンなどの作曲家の墓を見つけることができた。席のまわりにもピール、ディズレーリ、グラッドストンなどの大理石像があり、さながら歴史博物館のよう。そういえばモリスの『ユートピアだより』には、「(ウェストミンスター寺院は)昔は愚か者や悪党たちのいやらしい記念碑で埋っていたんだそうですが、百年以上も前に大掃除が行われて」云々と書かれていた。北翼堂の席からは聖歌隊は見えないので、まるで天上から歌声が降ってくるようだった。高い天井や石の柱と壁は、この音楽効果を得るために設計されたとしか考えられない。礼拝が終わった後、墓探しを続行する。思わぬところにニュートンやファラデーやダーウィンが眠っていたりして驚かされる。さきほどの案内係のおじさんが近寄ってきて、あなたを待っていました、という。ウェッブ夫妻の墓まで案内してくれ、The Great Socialistと言い残してどこかに行ってしまった。イギリス人は不思議な仕方で親切にしてくれる。出口近くには無名戦士の墓とチャーチルの大きな碑があり、ここはイギリスの靖国神社なのだと思い知らされる。地下鉄でシティへ行く。王立取引所、イングランド銀行、証券取引所、ロイズ銀行本店などを観るが、日曜なので閑散としていて面白くもない。また地下鉄に乗ってグリーンパークへ行き、バッキンガム宮殿にたどりついた時にはもう夕方になっていた。

3月20日
同じクラスで台湾人のキャリアさんと台湾の総統選挙について話す。彼女は国立台湾大学で経営学を勉強したそうで、父君は小さな電気部品工場を営む「老板」。台湾にいたら民進党の陳水扁に投票していたという。1996年以降の李登輝総統についての彼女の評価が辛いのに驚く。李総統は年をとりすぎていて、公約した改革をちっとも実行しなかった。政府は腐敗しきっており、集集大地震の際には救助活動を始めるのにまる一日もかかった。集めた義捐金を配らなかった。いまだにテント暮らしの人がたくさんいる、などなど。ヘラルドトリビューン紙に紹介された台湾大学教授のコメントは、彼女の感想を裏書きしている。「いまや李総統は、別々の理由によってあらゆる種類の人々から嫌われている」。国民党支持者からは党の分裂と敗北の責任を問われ、民進党支持者からは改革を遅らせたと批判されているそうだ。しかし、この引退間際の要領の悪さは彼の公平無私を傍証しているとも考えられる。いずれにしても、政権を担いうる政党に成熟した陳水扁の民進党と、宋楚瑜によって再編されるだろう保守党によって、台湾の民主主義は第二段階に進むことになる。

3月21日
カーネル夫人と台湾の総統選挙の話やフォークランド紛争の話をする。夫人はイギリスの古きよき良識派。父君は田舎の教区牧師だったそうで、自らを労働者階級とは考えていないが、待遇改善のためには組合(労働組合とは限らない)のもとに団結すべきだという「古い」労働党支持者。オックスフォード大学出版局に勤務していたころ、中途採用のため共著者よりも給料が安かったが、組合の応援で給料を1.5倍にすることに成功したのだそうだ。いちばん嫌いな政治家はもちろんマギー・サッチャー。いろいろあってもイギリス人は王室が好きなのだという王党派。世界各国からの留学生を招くことを生きがいにしており、外国に対する偏見をたしなめ、けっきょく人類はみな同じなのだと説く。夫人に言わせれば、北アイルランドの紛争はカトリック派が歴史的偏見を棄てないから起こる。夫人自身は、平均的イギリス人と同じく教会に通っていない。キリスト教は人類愛を説くところはよいが、天地創造や処女懐胎などばかげているという。また、資本主義は必然的に不安定をもたらすもので間違っているという。趣味は文学者の伝記を読むこと、映画のヴィデオを観ること、クロスワードパズルを解くことなど。

3月22日
ナフィールド・カレッジギャリー教授を訪問。こちらの関心を話すと、福祉国家の国際比較についてはエスピン-アンデルセンのほかにコルピ、パルメ、スティーヴンスを読まなくてはいけないという。この15年間、コルピをリーダーにして20名規模の研究者が共同研究を展開してきており、特にこの2年間はギャリー教授がエスピン-アンデルセンらとともに、福祉国家と失業経験に関する国際比較を進めているとのこと。その成果として5月に出版されるWelfare Regimes and the Experience of Unemployment in Europeのゲラ刷りを見せてもらう。錚々たる研究者たちが協働していて、とても太刀打ちできない。ギャリー教授は、福祉国家を比較する際には各国の家族の役割の違いを見ることが重要だと考えており、家族の類型はエスピン-アンデルセンの福祉レジーム類型にはあてはまらないことを明らかにしたという。その論文はエスピン-アンデルセンとの共著だそうで、エスピン-アンデルセンはこの結論に「ハッピーではなかった」のだそうだ。いちばん大事なアドヴァイスは、国内外に共同研究者を得ることだと言われる。1時間ほどで退出。シェルドニアン・シアターで、三つの聖歌隊(クライストチャーチ大聖堂、モードリン・カレッジ、ニュー・カレッジ)の合同演奏会を聴く。ジョヴァンニ・ガブリエリなどの前座はあまり芳しくなく、最後のブルックナーのホ短調ミサだけが聴きもの。指揮はジョージ・ゲスト。

3月23日
キャロライン先生によると、外国語を習う方法は二つある。一つは規則を分析して覚えることであり、もう一つは間違いを気にせずしゃべり続けることだという。夜、学校のパーティー。学生の出身国は日本のほか、スイス、スペイン、イタリア、台湾、トルコ、ブラジル、マケドニア、韓国、ロシア、クルド、ハンガリー、アルゼンチン、アラブ首長国連邦、ドイツ、フランスなどさまざま。わけのわからない英語でしゃべり続ける人も多いが、見習うべきかも知れない。イラクのクルド人のアビッド君からクルドの自治について聞く。クルド人国家は国際的に承認されていないが、実際には政府も大学もあって独立国同様に暮らしているという話。

3月24日
オックスフォード大学出版局の書店で文献渉猟。Colin Crouchの新著Social Change in Western Europe(1999)を見つける。産業、家族、宗教、民族、国家などの側面について、1000年紀の西欧諸国の変化を一人で分析するという500ページの超人的な大著。思いつくのは簡単だが、なかなか実行できることではない。書店を出て街を歩くと、どこかのカレッジの学生が弦楽四重奏を弾いていた。トルコ行進曲やヴィヴァルディの春などだが、愉快におどけて見せながら演奏は完璧だ。街頭音楽家たちは何百年も前からこの街角で弾いていたに違いない。オックスフォードでは中世と現代が交錯している。14世紀創建という傾いた建物には、ローラ・アシュレイと携帯電話の店が入っている。フーコー(もちろん20世紀の)の話をしながら通りすぎていく学生の足もとでは、すわりこんで物乞いをしている人がいる。

3月25日
ストラットフォードにシェイクスピアの遺跡を訪ねる。生家、晩年を過ごした家の跡、教会、劇場など。古道具市を観る。イギリス人はよほど古いものが好きらしい。oldと形容されるものが愛されている。白髪の店主がやたらに説明してくれるので、百年前のものだとかの真鍮の小鈴を買う。また、カーライルのPast and Present(1843)の1872年刊本を見つける。一橋大学のモットー「キャプテン・オヴ・インダストリー」の典拠。16世紀の建物というMarlowe's Restaurantで、Cotswold Sausageなるものを食べる。夜はキーブル・カレッジチャペルでオックスフォード市民合唱団の演奏会を聴く。見かけはふつうのおじさんとおばさんたちの合唱団なのだが、演奏はどこに出しても恥ずかしくないもの。新進気鋭の音楽学博士という常任指揮者による、才気溢れるプログラミングと指揮ぶり。15世紀から20世紀までの有名無名の作品から、マリア信仰にちなんだ曲ばかり取り上げる。キーブル・カレッジのチャペルは壁画が派手でカトリック的な雰囲気があり、この試みの会場としてふさわしいように思われた。18日にシェルドニアン・シアターで会ったペニーさんから、エディンバラ大学社会政策学部のリチャード・パリー教授を紹介される。最近、The Treasury and Social Policyという本を出版したばかりとのこと。

3月26日
ロンドン見物。マーブルアーチでバスを降り、
大英博物館まで歩く。博物館に入る前に、近くの古本屋街を見物。ブルームズベリー書店という店は、経済学を中心に社会科学関連の古書が充実。マーシャル、アシュレー、ウェッブ、コールなどの本もたくさんあった。救貧法の歴史に関するぶあつい三巻本もあった。フリードマン(Wolfgang Gaston Friedmann,1907-1972)という人のThe Crisis of the National State(1943)という本を見つける。著者はラスキの弟子らしい。国民国家の興隆と危機について論じている。古本屋で時間をつぶしてしまい、博物館に着いたのは4時。2時間でエジプト、ギリシア、ローマなどの展示を見てまわる。故宮博物院とは違い、七つの海を支配した国の博物館はグローバルだ。帰りは、19世紀の温情主義的社会政策家アシュレー卿(シャフツベリー伯、1801-1885)の名に由来するというシャフツベリー・アヴェニューを通り、ジェラルド通りの中華街に至る。それから北へ向かい、ソーホーをぬけてマーブルアーチまで歩く。バスを待つあいだ、ハイドパークの演説コーナーで演説を聞く。弁士が持参の演壇に上って勝手にしゃべっているだけなのだが、いくつも人だかりができていた。「売春の自由」(?)について力説している老人や、もっとまじめな問題をかしこそうに論じている若者がいた。

3月27日
昼休みにブラックウェル書店で、PiersonとCastlesが編集したThe Welfare State Reader(2000)というアンソロジーを見つける。「トマス・ペインからポストモダンまで」というふれこみで福祉国家に関する主要文献を網羅している。それから、Hartley Dean編のBegging Question: Street-Level Economic Activity and Social Policy Failure(1999)という本を衝動買い。街のいたるところに物乞いをしている人がいるので気になっていた。この本は、物乞いの問題を市民権論、歴史社会学、国際比較などの観点から考察し、また実際に物乞いをしている人、通行人などにインタヴュー調査を行ない、政策言説とあわせて分析している。イギリス社会政策学の力量に感心させられる。

3月31日
午後、市内散策。
ベイリオル・カレッジトリニティ・カレッジを観る。ベイリオル・カレッジのチャペルではトーマス・ヒル・グリーンのプレートを見つけるが、ラテン語なので読めない。誰もいなかったので、グレゴリアン・チャントの一節を歌ってみる。声が煙のように立ちのぼっていく。トリニティ・カレッジの食堂を観る。歴代の教授たちの肖像と並んで、ポーターやコックの肖像画も飾ってあるのは面白い。ユニヴァーシティパークを散歩。帰宅後、カーネル夫人からいちばん簡単なイギリス家庭料理を習う。鶏肉とマッシュルームとペッパーの料理。夕食後、Dew Drop Innにて歓送会。各国からの留学生と話して愉快。ロシオさんはスペインのカステリョン出身。バルセロナ大学で経済学を勉強したが、カタルーニャが大嫌いだという。カタルーニャ自治政府の言語政策によって大学入試にカタルーニャ語が課されるため、高校でフランス語やドイツ語を勉強できなかったことが不満の原因だそうだ。カタルーニャはスペインで最も工業化が進んでいて豊かな地方とのこと。バスクのようなテロリズムはないが、独立志向であることに変わりはない。

4月1日
早朝、オックスフォードを後にしてユーロスターでパリへ向かう。ユーロスターでは、エディットさんというフランス系イギリス人のおばあさんと隣席。パリ在住の妹さんを誘ってイタリアへ旅行に出かけるところだという。1970年代に東京麻布に住んでいたそうで、先日ロンドンのフランス人会で日本文化に関する講演をしたのだそうだ。懐かしそうにお茶や生け花の話をしていたが、お茶や生け花だけが日本文化ではない。3時前にパリ北駅に着く。案内図の前でまごついていると、親切そうなおじいさんがやってきて宿まで案内してくれる。予想されたことだが、チップを取られる。彼の仕事なのだから仕方がない。宿に荷物を置いてから、ノートルダム大聖堂に出かける。ウェストミンスター寺院に比べると、やや雑然とした印象。それから「公的扶助博物館」(!)を見学。中世以来の貧民救済医療に関する展示。解説がフランス語なのでわかりにくいが、貧民救済の歴史はカトリックの思想と深く結びついている。ソルボンヌあたりを散歩した後、ノートルダム大聖堂のミサを聴く。聖歌隊はイギリスで聴いたどの合唱団よりもうまくない。曲目もベートーヴェンの荘厳ミサの抜粋で、大聖堂の雰囲気にそぐわず俗悪な印象。ウェストミンスター寺院と違って、ミサのあいだも観光客を締め出さないので散漫になる。これもカトリックの考え方によるのだろう。カルチエ・ラタンのビストロで夕食。セーヌ河畔をしばらく歩いてからエッフェル塔に登る。百聞一見の夜景に感嘆。「そしてこの塔が、眼下によせ集め受けいれ、秘法伝授の義務を果させた外国人に差し出すのは、この首都の本質そのものなのである」(ロラン・バルト『エッフェル塔』)。

4月2日
ルーヴル美術館見物。フランスの彫刻、ナポレオン3世の居室、フランドル派の絵画、フランスやイタリアの無数の大絵画、サモトラケのニケ像、ミロのヴィーナスなど。一日ではとても観つくせない。大英博物館にも感心したが、ルーヴルのほうは建物全体が芸術作品だ。フランス政府がイギリスよりも文化政策に金をかけていることの成果でもあるだろう。それから、シャルル・フーリエの理想都市構想のモデルとなったパレ・ロワイヤルを見物。チューリップの花壇が咲きはじめたところ。ヴァントーム広場を通り、チュイルリー公園で休憩。シャンゼリゼ大通りのカフェで夕食。凱旋門を見物してから宿に戻る。

4月3日
すでに所持金を使い果たしてしまったので、美術館めぐりやごちそうはあきらめ、ひたすら街を歩く。教会と墓地は入場無料なのがありがたい。まずモンマルトル。サクレ・クール寺院からパリ全体を一望した後、サン・ピエール教会を観る。ベルリオーズやサティの宅趾やピカソのアトリエ跡を訪ねた後、モンマルトル墓地へ行く。興味を引いたのは、ゾラとベルリオーズの墓くらいのもの。地下鉄に乗り、モンパルナス墓地へ行く。こちらのほうが訪ね甲斐があった。サルトルとボーヴォワール、デュルケム、ボードレール、ポアンカレ、レイモン・アロン、フランクの墓など。デュルケムの墓は、社会学の偉大な始祖の墓にしては目立たないものだった。アロンの墓はおそらく本人の祖父の代からのもので、ヘブライ文字が刻まれていた。リュクサンブール公園のヴェルレーヌ像の前で休憩。サン・シュルピス教会、サン・ジェルマン・デ・プレ教会を観る。後者には、デカルトの墓とフランシスコ・ザビエルの像がある。ザビエル像の前で一服していると、子連れの若い母親がやってきて、この子のために金を恵んでくれという。これを理解するためには、若年失業率の高さや、カトリックの思想、物乞いが経済活動として十分見合うことなど、さまざまな要素を考慮する必要がある。あいにく当方は異教徒であり、今日はこちらも飢えているので、申し訳ないが丁重に断る。カルチエ・ラタンからシテ島を通り、ポンピドゥー・センターの異様な建物を観た後、フランス歴史博物館を観る。ここも英語の解説がなく、ほとんど理解できない。レピュブリック(共和国)広場の記念碑の前を通り、サン・マルタン運河沿いに歩いて宿に戻る。夜、シャルル・ド・ゴール空港から帰路につく。

 

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