北京日記抄

 

1999年2月26日から4月2日まで、北京語言文化大学に滞在して中国語を習ってきました。

以下は、北京で書いた日記のあらすじです。なんだか遊んでばかりいたみたいですが、

日々の勉強のことは書かなかっただけで、ちゃんとやっていたのです、念のため。

 

2月26日
パキスタン航空で北京行。フフホトの教育大学の先生で、日本の教育大学に留学しているという、南丁さんと隣席になる。道徳教育の日中比較が研究テーマという。中国語の復習につきあってもらう。轡田君の友人の
佐藤さんが北京空港まで迎えに来て下さる。NTTからの派遣で、一年間中国語を勉強されている方。空港から市街までの道は、台北よりも広く、よく整備されている。北京語言文化大学(語言学院)の十四楼に入寮。中国語は聞きとれず、話せず、佐藤さんがいて下さらなかったら、これほどスムーズに事が運んだかどうか。

2月27日
近所の伍富スーパーで自転車を買って、学校のまわりをサイクリング。五道口の外文書店で、オーカンの『平等と効率』や、ウェーバーの『社会科学方法論』の中国語訳を見つける。スーパーや書店では、まず値段を調べて書いてもらい、別のカウンターに行って代金を払ってから元のところにもどって、ようやく品物を受け取る。なんたる非効率。留学生食堂ではドアを開けてくれる小姐、バイキング方式のおかずを盛りつけてくれる小姐、それからレジの女士がいる。十四楼のエレベーターにはエレベーターガールがいる。低賃金、低生産性、非効率が社会に充満している。

3月2日
昨晩は同室の広瀬君が不在の時に、毛布がないことに気づき、フロントで交渉。こちらの中国語が貧しいこともあるが、決して向こうから親切にこちらの苦情を理解しようとはしない。今日は実質的な授業が始まったが、名簿に当方の名前がないとかで、教室から遠い事務室まで確認に行かされた。事務室では、昨日は授業に出なかったのか、と言われ、こちらが悪いと言わんばかり。やっとの思いで再度教室に行くと、今度はお前の教科書はないと言う。誰かの落ち度であるにちがいないのだが、誰も決して謝らない。これは彼らが意地悪なのではなく、彼らの流儀なのだ。語言学院の授業は午前中のみなので、午後は佐藤さん紹介の「地球村」という中国語学校に通うことにする。生徒は韓国人が多い。中国政法大学に留学している李普炯さんと知り合い、五道口の喫茶店で話す。李さんは、アメリカの大学に留学したこともあり、オーストラリアで仕事をしたこともあるという。現在は中国の経済法を勉強しているとのこと。

3月4日
李普炯さんの寮で、韓国料理の夕食をごちそうになる。李さんの友人の高錫乾さん、朴真秀さん、安敏成さん、金煥哲さんと知りあう。皆、ソウルの中央大学中国研究所の大学院生で、中国政法大学に留学している。安さんは台湾経済にもくわしく、Wadeの論文を韓国語訳したことがあるという。料理も美味しく、話も愉快。しかし、無灯火の自転車ばかりの道を、自分も無灯火で帰ってくるのは、勇気の要ることだった。

3月5日
北京に来てから一週間がたつ。語言学院の孟老師の授業は、寸劇をやらせたりして、老練な小学校教師のよう。語学の初歩の授業は、「皆さん、わかりましたか?」「はーい」といった調子で進むので、小学生にもどったような気分になる。大学構内に警官がたまっているので何事かと思ったら、「提高雷鋒精神」「自行車修理」と書いてある。ちょうど自転車のペダルがぐらついていたので修理してもらう。北京に来てこんな親切にあったのは初めてだ。たぶん昔、雷鋒という篤志の英雄がいたのだろう。

3月6日
李さん、安さん、酒井さん、重田君とともに、頤和園に遠足。頤和園はあまりにも広大で、とても一日ではまわれない。貴重なものがありすぎて、どれがほんとうに貴重なのかわからないほど。展示物はほこりがかぶっており、保存状態がよくない。みやげもの屋もいなか者をだますようなものばかり置いている。厠所(トイレ)に入ると、手洗いの水が出なくて難渋する。要するに、遺跡はすばらしいが、その運用はまずいということ。語言学院南門近くの牡丹酒家で夕食。この店は、料理は美味しいのに厠所がない。ビールを呑んでトイレに行きたくなり、小姐に公共厠所はどこかと聞くと、通りの向こうだという。酔って北京の往来を渡るのは命がけだが、やっとの思いで対岸に渡ったところ厠所は見あたらない。その辺の草むらで用を足せということか。それも気が引けるので、再度命がけで通りを横断し、別の店の厠所にかけこむ。安さんと、中国経済や韓国現代史について議論がはずみ、留学生村の桃屋という汚い日本式居酒屋で二次会。この建物の厠所もひどいもので、大のほうにも扉がなく、汚いトイレのわきではシャワーを浴びている人がいた。

3月7日
西単の北京図書大厦に行く。中国一の書店で、フロアは向こうがかすむほど広い。ただし四階建て。日本ならば、一フロアを半分にして、八階建てにするところ。読めもしないのに、社会学や社会保障関係の本をたくさん買い込む。それから、愛国主義教育のコーナーで『労働人民的好児子・雷鋒』という小冊子を買う。雷鋒は、1940年生まれで1962年没。貧しい生い立ちから共産主義精神にめざめ、滅私奉公で社会に尽くした英雄的青年なのだそうだ。今の中国でこんな人物が共感をよぶか疑問だが、家族第一の中国社会では、奉公精神の教育も必要なのだろう。

3月8日
じつに腹立たしい一日。自転車を盗まれる。二つも鍵をかけてあったのを持っていくのは、確信犯にちがいない。東京の自転車泥棒とはわけが違う。語言学院の田老師は、新しい自転車を買うのがいけない、北京市民は盗まれないように中古のを買うのだ、と言って笑う。まるで盗まれる方がまぬけだと言わんばかり。地球村の彭老師は、自分も二回盗まれ、今は中古のおんぼろに乗っているとのこと。とにかく、誰も盗んだやつがけしからぬとは言わない。驚くべきことだ〔註:その後、自転車が見つかった話は、3月16日の項を御覧下さい〕。大学構内の郵便局ではがきを出す。日本へは速達で十元。前回は五元切手が二枚出てきたが、今回は細かくて汚い切手を五枚も貼れという。五元切手はないのかと聞くと、「没有(ない)」の一言のみ。それ以上、苦情を言う元気はない。成府路で切手の露天商を見かける。きれいな切手を買おうとすると、そばにいた日本人留学生が、あまりきれいな切手を貼ると、郵便局員が盗んでしまって郵便が届かないのだと注意してくれる。ほんとうかどうかわからないが、聞いただけでも腹立たしい話だ。

3月10日
語言学院で隣席のYapry Sismianto(葉世茂)さんは、インドネシアの華人。経済危機以降、インドネシアでは華人の商店が焼き打ちの標的になったりするので、七月の大統領選挙が終わるまで中国に避難しているのだという。彼と同じ境遇の留学生はたくさんいる。彼らはこの機会に中国語を学び、民族的な自覚を強めることだろう。Yapryさんは漢字が読めないので、当方が授業の通訳を務めることが多い。午後、学校の遠足で故宮見学。北京では見たこともないような立派な観光バスを仕立てて行く。やたらに広い故宮を、たった二時間で見てまわる。全体の構造の広壮さには圧倒される。細部は、頤和園と同じく粗雑。これだけの遺跡を、細部まで良好に維持するのは難しいだろう。宝物は無造作に置いてあり、ほこりがたまっている。台北の故宮のほうが、細部はすばらしかった。そういえば、台北の故宮には、共産主義の魔の手から中国四千年の歴史を救った蒋介石の功績が述べたててあったが、あれも一理あったのかも知れない。

3月11日
大学構内の中国工商銀行に換金に行く。わけもなく長時間待たされるので、いっそのことと思い、かねて聞いていた南門近くの闇換金屋に行くことにする。親切にすぐ通してくれる。一万円あたり742元で、工商銀行の673元よりも各段に割がよい。どういうわけなのだろうか。とにかく、ずいぶん得をした。一昨日に続き、再びインターネット・カフェに行く。日本からメールが届いていて、あたりまえのこととはいえ驚く。インターネットにアクセスしていると、不便な北京にいることを忘れてしまいそうになる。しかし、せっかく北京に来たのだから、北京の空気を呼吸しなければ。

3月14日
一人で北京散歩。積水潭で地下鉄を降りて徳勝門の前を通り、后海湖畔の宋慶齢故居に至る。北京の街の喧騒とは別世界の、森閑とした広大な屋敷。共産党がいかにこの非党員を大切に遇していたかが偲ばれる。銀錠橋近くの富王飯店にて昼食。語言学院あたりの店にはない、細やかな心づかい。味もよい。フランス人の客が食事をしていた。今度は友達を連れてきたいと言うと、女主人の郭冰さんが名刺をくれた。昔ながらの胡同を通って鼓楼の前に出る。鼓楼と鐘楼に登り、清代に時を報せた鼓と鐘を見物。アメリカ人の退職組の一行に出会う。彼らが人力車に乗っていたので、車夫に値段を聞くと、百元だという。タクシーの初乗りが十元なのだから、とても乗る気はしない。再び銀錠橋にもどり、郭沫若故居の傍を通って恭王府に至る。ここではドイツ人の老人一行に出会う。石ばかりの庭に興趣はない。古い劇場で京劇をやっていたが、四十元と聞いて入るのをやめる。新街口南大街まで歩き、小公共汽車(どこでも乗降自由のミニ・バス。二元で乗れる)で西単へ。華南大厦という台湾資本の最新式デパートを見物。ずいぶんおしゃれな若者も見かける。それから北京図書大厦に寄って、先日買いそびれた本を全部買う。地下鉄と小公共汽車で帰る。

3月16日
盗まれたと思い込んでいた自転車を、駐輪場で発見。やや故障はあるものの、全くもとのまま。中国は自転車泥棒の国だなどと、思い込みで決めてはいけない。しかし、自転車が行方不明になったことについて、誰も同情しなかったのは確かなことだ。

3月17日
語言学院の授業をさぼって、李普炯さんの手引きで中国政法大学のゼミにもぐる。韓国人留学生のための英語による講義で、聴衆は李さん、安さん、朴さん、高さんのみ。麦秀賢教授による、中国の外国投資法の講義。内容は、1979年以前と以後とで中国の経済制度がいかに変わったかというもので、わりと常識的で概論的。当方が社会政策に興味があるとわかると、中国の失業の三つのカテゴリーを説明してくれる。第一の「分流人員」は、公務員の人員削減による失業。一万二千人の元エリート。第二の「下崗」は、国営企業改革による失業者で、これが最も問題。第三の「失業」は、民間企業の失業を指すが、これについては正確な統計はないという〔註:帰国後、次の論文を読み、失業問題がもう少し複雑であることを知った。中国の失業問題は、たんに市場経済への移行や、短期的な景気後退にのみ起因するものではなく、より長期的な人口問題と関係がある。それは、中国の将来ばかりか、世界の政治経済にも大きな影響を与えると思われる。沙銀華「中国の失業問題とその展望─都市部貧困層の拡大と高失業率の長期化」『海外社会保障研究』No.126 Spring 1999〕。麦教授は1964年に大学卒業後、政府のわりあてにより語言学院の教師になったが、語学教師にあきたらず、1982年から84年までアメリカに留学。帰国後、三年間の「闘争」を経て、ようやく政法大学に移ることができたのだという。夫君は語言学院の教授で、現在も語言学院内の宿舎に住んでいるとのこと。じつに確信に満ちた迫力ある講義で、中国の老練中学教師とアメリカの大学教授を足して二で割ったよう。夜は、語言学院の行事として京劇を観に行く。孫悟空が出てくる喜劇で、やや間延びした印象。狂言を能の退屈さに引き延ばした感じ。

3月18日
語言学院の孟老師に、麦秀賢教授のことを話したところ、麦教授とは、むかし語言学院で同僚だったそうだ。一緒に英漢辞典をつくったこともあるという。麦教授の夫君は趙培森氏といい、語言学院のアラビア語の先生をしているとのこと。地球村では、趣味や嗜好の言い方を習う。彭老師は、テレサ・テンや山口百恵のファンで、最新流行の王菲などはあまり好きではないという。彼女は一月に結婚したばかりの二十六歳で、父君は清華大学で水利学の先生をしていたとのこと。夕方、三輪君、古宇田君とともに、三里屯へ行く。三里屯は、北京東郊の大使館街近くにある流行の街。カフェ・バーがならぶ北京の六本木のはずが、ずいぶん場末な感じのところだった。カフェに入ると、サンドイッチ三十五元に恐れ入る。ワインは七百元もする。語言学院正門近くの阿俊酒家にて夕食。北京電影廠の照明係や道具係の人たちと同席。照明係のおじさんの三十八歳の誕生パーティーだそうで、一緒に呑むことになる。先生やタクシー運転手以外の中国人と話すのは初めてだが、何とか意思疎通できるものだということがわかり嬉しくなる。後から調べると、北京電影廠は「覇王別姫」などの有名な映画もつくっている。部屋に帰り、洗濯。十階の洗濯機が故障している。洗濯物と石鹸を入れてから気づいて、一階のフロントまで文句を言いに行く。こういう不都合にはもう慣れた。小姐は、故障中だ、とすまして言う。そこで、中国語の練習も兼ねて、それなら「故障中」と書いておくべきだ、と文句を言ってみる。すると、教室の外で初めて「対不起(ごめんなさい)」という言葉を聞くことができた。文句は言ってみるものだ。仕方がないので九階で洗濯。深夜、洗濯物を干しながら、テレビで王菲の歌を初めて聴く。「水上花」という最新曲だそうだが、中国民謡調で、なかなか素敵な歌だ。

3月19日
五道口で、CDや語学のテープを買う。先日、闇屋で換金した百元札のなかに、透かし線のない偽札が二枚あったが、それを使ってみる。全く文句を言われないのは、気づかないのか、当方が留学生だから気兼ねしているのか、偽札もそれなりに流通しているのか、見当もつかない。とにかく不思議な国だ。〔註:後日、1980年発行の百元札には透かし線がないことを知る。何事につけ、無知は誤解のもとだ〕。昨日テレビで観た王菲のCDを買う。ところが、CD屋の小姐によると、なんと王菲は二人いるとのこと。有名なのは「香港の王菲」。昨日テレビで観たのは、昨年十二月にデビューした「新王菲」で「北京の王菲」なのだそうだ。CDの解説によると、「香港の王菲」を真似する意図は全くなく、ただ本名が同じだっただけだという。「新王菲」などというと偽札みたいだが、日本やアメリカにはなさそうな、素敵な音楽だと思う。夜は、語言学院の行事として「雑技」を観に行く。雑技は、サーカスとバレエと手品のまぜもので、田舎じみているが結構楽しい。なかでも、少女の軽業は見事だった。重田君と大学構内の「ブラブラ・バー」に行く。ピアノとギターのライヴをやっていて、おそらく三里屯なみにおしゃれな場所。語言学院の日本語学科の女子学生と、体育大学でテコンドーを専攻しているという男子学生が、合コンをやっていた。彼らも初めて来たそうで、中国人学生が行きつけにするには高すぎる店のようだ。もうすこし話したかったが、デートの邪魔をしても悪いので遠慮する。

3月20日
語言学院の遠足で、万里の長城の慕田峪というところに行く。千段も階段を登って長城にたどりつくが、雪が降っていて景色はよくない。午後は、重田君とともに、琉璃廠という書画骨董街を歩く。愛新覚羅一族の書画が売りに出ていたが、一万元以上もする。琉璃廠西街のはずれに福宝斎という小さな店があり、篆刻を頼む。店の主人は孫国華(鼎卜)さんという1971年生まれの新進書家で、いろいろと話を聞く。中央美術学院で書法を学び、1993年の「長江杯」青年の部で第一位をとったのだそうだ。夫人は、北京第二外国語学院で英語を学び、不動産会社に勤めていたが、現在は産休中という。一昨年まで一緒にタイに行っていたそうで、夫人は不動産の仕事をし、国華さんは書画の展覧をしていたとのこと。タイの経済危機にあって帰国後、結婚したのだという。当方が書道に興味があるとわかると、いろいろ作品を出してきて見せてくれる。唐の王勃と崔塗の五言律詩を篆字で書いたのが気に入ったので、二幅二百二十元で買う。安いのか高いのかわからないが、書家本人から買うのはちょっとした贅沢だ。

杜少府之任蜀州 (王勃)

城闕三秦を輔し、風烟五津を望む/君と離別の意、同じく是れ宦遊の人/海内知己存すれば、天涯比鄰の若し/岐路に在って、児女と共に巾を沾すを為す無かれ(長安城は三秦の地の支え、遠くかすむ蜀の五津を望む。君と別れるのはさびしいが、お互い宮仕えだからしかたない。地の果てといえども、君がいるなら隣のようなものだ。分かれ道に立って、子どもみたいに泣くのはよそう。)

孤雁 (崔塗)

幾行か塞に帰り尽くるに、念う爾独り何にか行くを/暮雨相呼びて失い、寒塘下らんと欲すること遅し/渚雲低れて暗に度り、関月冷やかにして相随う/未だ必ずしもそうしゃくに逢わず、孤飛自ら疑うべし(仲間の雁たちはみな北に帰ってしまったのに、お前ひとりどこへ行くのか。夕暮れの雨のなか友を呼んでも返事はなく、冷たい池に降りようとしてまたためらう。下方の雲は暗くたれこめ、月は冷たくお前を照らす。猟師につかまることもなく、よくまあここまで飛んできたものだ。)

前門まで歩いて、都一処焼麦店にて夕食。乾隆皇帝命名の由緒ある店らしいが、新装開店なったばかりのよう。やや高級で、中産階級的。親子三人楽しく食事をする幸福。帰途、路上で小さな子どもに金をせびられる。「マネー」という英語だけ知っていて哀れ。そういえば、往きの地下鉄車内では、乗客に金を求めて歩く老人がいた。いずれも、北京の階層格差を実感させられる光景だった。

3月21日
雍和宮と孔廟を見物。雍和宮の瑠璃牌楼は日本軍が持ち去ってしまって、現在はコンクリート製だ、と中国人ガイドが英語でアメリカ人一行に解説していた。末代まで恥をさらすような愚行をしてくれたものだ。雍和宮はチベット仏教の寺院で、巨大な弥勒仏には圧倒される。堂内には中国なまりの英仏独語の解説が響きわたり、不思議に異国的な雰囲気。そういえば、仏像の顔はどことなく西方的だ。孔廟は閑散としていた。元代からの科挙合格者を刻した石碑には苦笑させられる。こちらは、末代まで残る合格発表。

3月22日
留学生村で夕食。先日「ブラブラ・バー」で知りあった杜清華さんに会い、ビールを呑む。杜さんは吉林省出身の満洲族。大学で戦国時代の言語学を専攻した後、陜西経済発展研究センターで働き、現在は、北京大学でドイツの政治を学ぶための準備として、語言学院でドイツ語を学んでいるという。ひいおじいさんが清朝の役人だったそうで、家宝の康有為の書を北京大学に売って学資にするのだそうだ。

3月25日
語言学院の田老師は三十歳で、一児の母。夫君は、建築設計の仕事をしているとのこと。北京北郊の五十六平方メートルの家に住んでいるという。小型タクシー級の七万元の車をもっているというから、北京の新中産階級といったところだろう。昨年一年間、韓国の延世大学に中国語教師として派遣されたが、わずか五平方メートルの宿舎に耐えきれず、二か月で逃げ帰ってきたとのこと。日系のデパートで買ったという化粧品を見せてくれ、「原産国・タイワン」と書いてあると指摘するとがっかりしていた。「タイワン」などとカタカナで書くのは、日本の貿易会社の悪知恵だ。アジア通貨が安いうちに、香港かシンガポールかタイに旅行に行きたいとのこと。中国人のステレオタイプ化されたイメージとは、だいぶ違う暮らしぶりだ。吉澤さん、三輪君とともに、和平門の全聚徳本店に最高級の北京ダックを食べに行く。一人百八十元も払って御馳走を食べる。たしかに美味しかったが、語言学院ちかくの十八元北京ダックと比べて、十倍美味しかったかとなると疑問である。広々とした店内には大きな書画もかかっていて、じつにゆったりした気分。これも値段に含まれるのだろう。

3月26日〜29日
語言学院の企画で、泰山旅行。26日午後10時10分北京駅発、山東省日照ゆきの寝台列車に乗り込む。三段ベッドの一番下に寝たが、ベッドの金具がぐらぐらしているのに、上の人がビールを飲んで暴れるので、気が気でない。子供のころ乗りたいと思ったブルトレのイメージとは、ほど遠いものがあった。27日午前5時10分泰安駅着。「労働賓館」という、どこかの国の核爆弾のような名前のホテルで休憩。バスで曲阜の孔子の遺跡へ。孔子の墓や、孔子の子孫の家を見たところで、それほどありがたくもない。あまりの年代の古さに、胡散臭ささえ感じる。曲阜では「計画生育を徹底し、社会治安を維持しよう」という標語がいたるところで目についた。儒教的なものは微塵もなく、あるのは現代中国のみ。夜、同行の人たちと話す。韓国の鄭英柱さんは、テキサス大学で劇場史の修士論文を書いた後、高麗大学で中国経済の修士論文を書いたという。臾美彬さん(臾は、この字ではなく、广の中にこの字)はオーストラリアの華人で、オーストラリア国立大学の学生。祖父は広州出身で、両親はマレーシア出身。本人はスイス生まれだという。現在、両親はタイで、兄は香港で働いているとのこと。華人のなかには、彼女のように生まれながらの国際人がいる。夕食後、泰安の夜市を見るが、売り物が平凡で、台北の夜市のような面白さはない。労働賓館の部屋ではシャワーがこわれていて難渋したが、このくらいのことで苦情を言っても始まらない。28日は泰山に登る。途中まではバスで行くが、あとは延々とつづく階段を登る。泰山はじつに神々しく、古来中国の人たちの崇敬を集めてきたのももっともだと思う。下山後、岱廟と泰安市街を見物。午後10時47分乗車、29日午前6時北京駅着。

3月30日
口述試験の後、Yapryさん、江口さんとともに、北京大学を見物に行く。立派で広々として、きれいな大学だ。博物館は北京のどの博物館よりもすばらしかった。頤和園や故宮の展示物は、ほこりがかぶっていて、どれが貴重なのだかわからない。北京大学の博物館は、夏の時代から始まる展示物も立派だが、展示方法もしっかりとしていて納得できる。社会学科も訪ねてみたが、あるのは事務室だけで、教授や学生は自分の宿舎で研究するのだそうだ。

4月1日
筆記試験はさぼって、建国門に行く。恒基大厦という香港資本のデパートを見た後、中国社会科学院の前を通りかかる。守衛さんに尋ねて書店を紹介してもらい、1999年版の『社会藍皮書』を手に入れる。それから琉璃廠の孫国華さん夫妻を再訪。前回から目をつけていた、孫さんの篆書の大作を譲ってもらう。北周の臾信(臾は、この字ではなく、广の中にこの字)の詩を書いたもの。再来年には、東京で展覧会を開く予定があるという。その折の再会を約して別れる。夜は、語言学院の終業パーティーに出席。他のクラスの人とも話す。アメリカ人の老夫婦は、政府の技術職を退官して、今は太極拳三昧という。マレーシアからの留学生は、父が広東人、母はイギリス人で、現在エディンバラ大学医学部の学生だという。彼らとあやしい中国語で話すのも楽しい。北京での最終日を存分に楽しんだ。

 

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