生源寺伊佐雄「御教え賜わりし数々」

 

御仁慈の露にうるおう三十六年

 

私が御所に上がりましたのは明治十二年で、年はわずかに十六歳、西か東かのわきまえさえもない時代でありました。それから三十六年という永い間、 聖上の御側にお仕え申しました。

 

御奉公中は、拙きものの習いに漏れず、何が何やら勝手がわからずに、無我夢中で過ごしてしまいましたが、老年の今になってよく考えて見ますと、はじめて当時の有難い大御心が、だんだんとわかってまいりました。

 

この至らぬ私のようなものが、とにかく大した過ちなくお勤めすることができまして、今日この平和な老後を送らせていただくことのできますのは、まことに畏れ多いことながら、偏にこれ、 聖上の御仁慈な御熱心な御教えの有難い賜にほかならぬのでございます。

 

御教え賜わりし数々

 

一日中政務に御携わりになり、ずいぶんとお疲れ遊ばさるるにも拘わらず、そのかたわら、夜分は私たちのために、読書の道、歌の道をはじめとして、仏蘭西語にいたるまでも御教授下されました。殊に、明治二十一二年の頃には、私たち女官どもに乗馬の術をさえ親しくお教え下されました次第でございます。

 

私のような拙いものが、とにかく人ひと通りの道をわきまえることのできましたのは、全く允文允武にわたらせられる 聖上のいとも畏き賜で、それを思いますと、こうしてお話申し上げることさえも勿体ないように存じます。

 

こんなことまで御存じかしら

 

聖上のおえらかったことは、どのような雄弁家がお話つづけても、とても言い尽くすことはできないほどであろうと存じます。どんなことにも御堪能にましまして、どのようなことでも、これを御存じ遊ばさぬというようなことはおあり遊ばしませんでした。まことに生きながらの神様であらせられたことを、つくづくと拝し奉りました。

 

「誰が何をした」

「誰々の性質はどうである」

 

というようなことは、ちょうど、鏡にうつした姿のようにはっきりと御承知であらせられました。それゆえ、聖上の御前にあっては、何人でも、万一の場合、いささか心をつつみ隠そうとつとめるようなことがあっても、とうてい隠しおおせることはできなかったろうと存じます。

 

「畏れ多いことながら、まあこんなことまでも御存じかしら」

 

と思われることもしばしばございました。

 

大御心のつくづくし

 

日露戦争中のことでございましたが、私は、昭憲皇太后様のお供をいたしまして、沼津の御用邸に参っておりました。

 

ある日、 聖上の御許にお贈り遊ばしになる土筆を摘ってまいるようにとの御下命がございましたので、私たち二三人は、畏れとうとみ、早速近くの野原に出てまいりましたが、だんだんと摘むほどに、行くほどに、いつのまにやら私たちは、ま淋しい山の中へ迷い入ってしまいました。

 

道をたずねようにも人かげだに見えず、眉を顰めて困じ果てておりましたところ、ほど遠からぬ谷間のほうに、ひとつの藁葺の家が見つかりました。しかし檐(のき)は傾き屋根は朽ちかけ、見るからに惨(いた)ましい感じでございました。

 

薄暗い土間の隅には、年の頃二十一二かと思われる若い女が、生まれて間もない赤ん坊を背負って、しきりに藁を打っておりましたが、斯くと告げると親切に道順を教えてくれました。

 

「でもよくわかるかしら」

 

若い母親の教えてくれたのはまことに詳しうございましたが、なおも口々にこう心案じながら、門口まで参りますと、お背戸の小さな畑には、腰の曲がったお年寄りが、たぶん若い母親のお父さんでございましたろう、せっせと耕作しておりました。

 

そこで私たちは、再び老人から教えていただき、道をはっきりたしかめた後に、申しました。

 

「お年を召してもよく御精が出ますね」

 

すると老人は、

 

「この年になりまして、まだ鍬をとりますのも、皆お国のためでございます。せがれは今度の戦争に出征(で)て参りました。私はこの嫁女を相手にこうして留守をいたしております。ただただ朝夕神や仏に祈願をこめて、天子様のおために十二分に働いて、できることなら無事に凱旋するようにと、それのみ念じております。彼女(あれ)の背中の赤ん坊ですか、あれはせがれの出征した後に生まれた初孫でして、せがれの小さい時にそっくりです」

 

と答えましたのを聞きまして、私たちは胸の中が一杯になってくるのでございました。そしてしばらくの間はじっとして顔見合わせて立ちつくすよりほかありませんでした。

 

十六歳の時から宮仕えして、お米をとるのにどんな苦労をするものかということさえろくろく知らなかった私は、み国のために、こうして尽くして下さる人々もあるのだということを、その時初めて目の前に知って、こみあげてくる涙をとどめることができませんでした。いまだにその時のことを忘れることができません。

 

私たちは斯くも無知なるに、 聖上には、これら農夫の辛労の程まで、すべて十分に知りぬいておいで遊ばしましたことは、当時の御製に、

 

            子等はみな戦の場に出ではてて

                   翁やひとり山田守るらむ

 

とお詠み遊ばしたのを拝してもわかりますので、まことに畏れ多く、ひとしお感慨深うされるのでございました。

 

日ごろ雲のお上にましましながら、しかもかく民草の上にまで遍くお考えが御ゆきわたり、大御恵みの情をかけさせ給う大御心、ああ何という際涯(そこい)の知れぬ御宸襟(おおみむね)の表われでございましょう。この 大君の大御心の畏さにこそ遠い遠い満州の野のはて、五体も凍る冬の夜寒にも、出征の人々は、家を忘れ身を忘れてただ 大君の御為と一心不乱に奮い戦ったのでございましょう。思えば思うほど、 聖上の御仁徳の高さも仰がれて、うたた感涙に咽ばずにはおられませんでした。

 

しばしはこんな感想に耽って、ものも言わず黙って立っていましたが、やがて老人にも若い母親にも、御製の御思召をお含め申して、いろいろと慰め合い、その場を立ち去ったことでありました。

 

御寝ならぬこともいくそたびぞ

 

実際、日清・日露の戦争の折、士卒の身の上をお案じ遊ばされたことは、申すも畏れ多いほどで、その御軫念は非常なものでありました。み格子の時間になられましてからも、御寝遊ばされなかったことはしばしばでおありなされたように拝し承っております。

 

平時とても、その通りで、つい私たちがうっかりしていて知らずじまいに終わるような場合、たとえば、真夜中のかすかな半鐘の音などにも、すぐと御耳に留めさせられ、御目をおさまし遊ばされて、

 

「火事じゃ、様子を見てまいれ」

 

とのお言葉が下り、侍従の方が詳細取り調べて、御復奏申し上げ、火の鎮まったという報告を、お聴き遊ばされぬうちは、決して御寝にならなかったほどでございます。

 

この他、各地の洪水、大火などの場合には、必ず侍従の方を御差遣になり、その状況の詳しき調査をお命じ遊ばされ、

 

「年寄り子どもはさぞかし困っていることであろうな」

 

と、御涙さえ浮かべさせられて、御あわれみの大御言葉を下し給うのでありました。

 

こうした大御言葉を、常に拝しています私たちには、その時、その日の有難い大御心が、いつもいつも胸の底に沁みわたるのを覚えるのでございました。

 

今日は競争じゃ

 

これも土筆に関するお話でございますが、ぜひ申し述べておきたいことでございます。

 

ある時のこと、私たち七八名のものが、浜御殿に土筆を摘みに参りました。これもやはり御諚があったからなのでございます。その折、

 

「今日は競争じゃ、一番多く摘ってきたものには、褒美を取らせる」

 

聖上のこの忝い御仰せに、私たちは、勇み立って、終日春光を浴びながら、楽しく摘りつくしたことがございました。

 

さて、「競争じゃ」との仰せがあると、摘ること、摘ること、中には命がけで、まるで根つきの泥のままのものをも構わずに、摘りつくして、竹長持を一杯にして持ち戻ったものもございました。

 

あの時、その泥つきの土筆を御高覧遊ばされて、 聖上には、ひとしおの御興があらせられましたことも、私、今も目に見えるようで、まことに有難い、楽しい思い出の一つでございます。

 

私たちは、こうした忝い仰せを蒙っては、ときおり浜離宮や新宿御苑へと参りました。その当時は、何もわきまえずにおりましたが、後になりまして、これこそ 聖上が、私たちの健康なり身の上なりを大御心にかけさせられての、深い厚い御情とわかりまして、どこまでお優しい大御心かなと、御叡慮のほどを恐察し奉っては、ただただ有難涙に掻きくれたのでございました。

 

御承知の通り、私たち、御所のうちに朝夕を生活いたすものは、いきおい外の空気や日光に浴する機会が、思うようにはございませぬ。それをお気遣いになり、

 

「今日は競争じゃ」

「たくさん摘ったものには、褒美をとらせる」

 

この御奨励の大御言葉がかかるのでございまして、これによって私たち女官どもにも戸外の運動に努めさせ給うたのでございます。何という洪大無辺の有難い御思召ではございませんか。

 

響きわたる大御言葉

 

聖上の御威厳に満ちさせ給い、玉音のいかにも御重々しくましましたことは、申すも畏れ多いことでございますが、いまだに私の忘れ得ぬことは、明治二十二年紀元節の当日行なわれました、憲法御発布の勅語でございます。

 

曠古の大典に集いまつった多くの人々の端から端まで、広き式場の隅から隅まで響きわたりました大御言葉を承りまして、さぞかし日本国中津々浦々、野末山奥までも、大御言葉が、大御心が、響きわたり、ゆきわたったことと存じ上げ、何とも申しようがございませんでした。

 

憲法発布ノ勅語(明治二十二年二月十一日)

 

朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス

 

惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト竝ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ

 

朕我カ臣民ハ即チ祖宗ノ忠良ナル臣民ノ子孫ナルヲ回想シ其ノ朕カ意ヲ奉体シ朕カ事ヲ奨順シ相与ニ和衷協同シ益々我カ帝国ノ光栄ヲ中外ニ宣揚シ祖宗ノ遺業ヲ永久ニ鞏固ナラシムルノ希望ヲ同クシ此ノ負担ヲ分ツニ堪フルコトヲ疑ハサルナリ

 

 

参考:平田三枝(元命婦)「御陵近き精舎に籠りて」

 

…雪の降る日などは、お慰めにと、吉田〔ト子(掌侍)〕様、生源寺様らとともに、お庭でよく雪打ちを御覧に入れたことが記憶に残っております。私たちが勇ましく戦う様子を、 皇后様と御一緒に御覧遊ばされては、たいそう御満足に思し召され、

 

「寒い所で働いたのじゃから温かいものを馳走してやれ」

 

と、仰せられては、お吸物や鯛麺などをたくさん頂戴いたしました。それがまた私どもにとって、どんなにか楽しみでございましたでしょう。

 

御所を下がりましてから十何年、雪の日が来るごとに、ありし昔を偲んでは、畏れながらお懐かしく存じ上げております。…

 

 

【出典】いずれも「キング」11月号附録『明治大帝』(大日本雄弁会講談社、1927年)より。なお、生源寺伊佐雄(しょうげんじいさお、18631950.12.16.)は明治宮廷の女官(命婦)。梢命婦(こずえのみょうぶ)と呼ばれた。梅辻春樵17761857、生源寺希聲。漢詩人)の孫。梅辻秋漁(18241897、生源寺平格。儒学者)の三女。

 

 

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