梅辻春樵『七十自壽集』自叙

 

 

予、今ここに年まさに七十となり、従前刻するところの家稿もまた第七編に及ぶ。或るひと問う、七十にして書七編を刻す、十年ごとに一編を著刻するかと。予曰く、なんすれぞ其れ然らん。予、年いまだ三十ならざる前、かつて書を読み文を作らず。読まざるにはあらず、作らざるにはあらず、読むと作るとにいとまなきをいうなり。年三十をこえてのち、はじめて読書作文の人となることを得。書を著わす楽しみは、けだしこれより始む。而うして今、七十の寿を得るも、また三十をこゆるのちはじめて生を養うの道を知るによる。幼時より生を養うて能くこの年に至るにはあらざるなり。

 

予、生まれて十年、虚弱多病にして痩削肉なし。人あり、予が不寿を慮りて曰く、子の年おそらくは二十をこえがたし。また曰く、三十なるべからずと。皆勧むるに養生を以てす。予もまたこれに従事せんと欲すれども、一旦にして得べき道にあらず。年十三、不幸にして先大夫の捐館に遭う。ここにおいて家に当たり職に任ず。年幼にして同族四家の最後に属し、家ふりて祖宗千年の根源を継ぐ。歴世嶽廟を祭祀し、平生嶽僧と勤めを同じうし、ややもすれば僧となかたがいあり。僧まさに専ら事を用いんとして異議を発し訟闘を企つ。中古よりして然り。家職の艱難なる、実に虚弱の予がごとき者の能く堪ゆるところにあらず。予、人の言を信ぜずといえども、ひそかにおもう、その二十三十なるべからずと言うもまたあたることあらんと。

 

享和年間、さいわいにして二十をこえてつつがなし。なんすれぞ図らん、わざわい嶽廟に起こり、嶽僧の予を忌み予を敵とし、家職を侵撓せんとはかる。毒煙嶽に満ち、いさごむしの砂を吹くにひとし。そのあらあらしきこともはなはだ甚し。同族四家中の三人、その二は畏縮し、奴のごとく暴論に党与す。その一は首鼠両端前郤つねなし。予、ひとり義に激し、厳言是非を弁ず。虚弱堪えがたしといえども矢のこころざし屈せずして、職業を堅守し祖先に忠誠せんと欲す。人みな予を憐れみ、諫めて曰く、嶽衆三千、一を以てこれを防ぐ、勢その事をなしがたし。たといその事をなしうるも、すなわち命期を促すことなからんやと。予はすなわちおもえらく、なりがたき勢ありといえども隠忍すべき理なし。人、予を多病死すべしという。病に死せんよりむしろ忠に死せんと。すなわち死を決し、心力をことごとくつくす。嶽神これをかんがみるや、祖霊これを庇するや、そもそも冥々の中、黙して提救をなす者ありや、年三十になんなんとして、ぬれぎぬはれて、事すなわち安靖す。

 

家職失墜あらず、こいねがわくは祖先に愧ずることなく、而うして身もまたつつがなし。人言さいわいにしてあたらず。いやしくもあたることあらば、なんすれぞ能く今日の快活あらんや。而うして今、当職有用の事業おわれり。ねがわくは今よりのち、職を辞し無用の隠者となりて心を養生の道に凝らさん。また、いわゆる肱を折りて医を知るなり。明くればすなわち年まさに三十、幡然として冠を挂けて退く。書を読み文を作る。大いにそのいとまを得、筆を下し書を著わすの楽しみもまた病に薬たるを得。開筆のはじめ、まず『挂冠集』を著わして逸楽をほしいままにす。嶽を出でて以来、平安の市に退隠す。輦轂の下の権門多き、紅塵の中の銅臭多き、はた、いかにしてこれを避けん。己を虚しうして待ち、無心、機を忘れ、自らかもめを分とするにしくはなし。すなわち『対鴎集』を著わして幽懐を遣る。予は琴姓にして、千年来、琴に因縁ありて、而して古琴の家に伝うるものあることなし。琴孫綿々として遺響を秘蓄するのみ。すなわち『秘響集』を著わして古風を守る。すでにして成化琴はるかに海外に従い、予が家に帰嫁す。意外に一の家宝を得たり。以て生涯を了するに足れり。琴は背に「萬古清兮」の印篆四字をほる。すなわちとりて以て名となし『清兮集』を著わして胸襟をあらう。花のあした月のゆうべ撫してこれを弾ず。弾じてこれを楽しむ。高山や流水や自然に心事に属するを覚う。すなわち『属心集』を著わして遐情を寄す。

 

およそこれらの著書、多くは四十五十の年に成る。野著、人に誇るに足らずといえども、また養生自医の薬籠たるなり。いわんや宝琴を得、玩弄するときは、すなわちますます養生に薬たるを得。養生飽くまで足り、年ついに六十をこゆ。身もまた老健、いまだかつて病あらざる者のごとくなるに至る。而うして痩削肉なきはなお往昔のごとく、肥満するところあることなし。ただ幼時の肉なきに同じからず。すなわちこれ満腹の文字、自然に肉となり骨となるなり。また枸杞軽身のためしあるに似て、挙歩軽躍、勝をわたるに健やかに、険にのぼるに鋭し。けだし筋骨細しといえども、羽翼心にあれば、たとえば鶴の痩せて軽揚自在なる者らのごとし。自らいう、累年の退隠は亀の潜伏するにひとし。向後、漫游して鶴の飛翔するを学ばんと。ついに遠方の山水を探ることを企つ。はた一帆を挂け、去りてかの鎮西の諸海山を看んとす。すなわち児子改絃をして家事を代わらしめ、次児更張を率いて西征す。また『帆載集』を著わして紀行となす。

 

今ここに丁未の夏四月七日、七十の誕辰にあたり、家弟従三品希烈、親戚に門生にはかり、うたげを東山の第一楼に設け、予を寿して曰く、人みなわが兄を寿す。請う、わが兄もまた、さかづきをあげ、自ら寿せよと。予曰く、賢弟の言、たがえり。世に七十の老人多し。なんすれぞひとり自ら珍とし自ら寿すべきの理あらんやと。三品曰く、年多く著書もまた少なからず、これ尋常の老人ならず。寿の寿すべき者はわが兄にあらずして誰ぞやと。予曰く、今ここにまた、まさに著書一編を刻せんとす。初集よりしてこれを数うれば、これを第七集となす。七十の寿ありて七編の集あり。しかもこれみな三十以後に著わすところなり。いまだ三十ならざる前、奇厄に遭罹し、身は病み心つかれ、覚えず年月を九死一生の間に送る。いやしくもこの時に刻苦して書を著わさば、すなわちただ養生に毒なるのみならず、おそらくすでに命を縮め寿を損ぜん。三十以後は安閑無事にして胸次開朗、病もまた十舎を退け、筆硯もって蔘苓に換ゆ。ただ養生に薬たるのみならず、かくのごとく延齢長寿す。然れども寿に前後有用無用の別あり、混じて一となすべからず。予が寿の寿すべきは、前三十年にありて後四十年にあらず。なんとなれば、前三十年の寿は一家有用の棟梁に属す。後四十年の寿は一人無用の樗檪に係る。三十年の後の退身はもとより無用の廃物なり。四十年間の著書もまた無用の長物なり。また豈に自ら珍とし自ら寿すべき理あらんやと。三品きかずして曰く、前三十年の事業ありて、化して後四十年の著書となる。事移り業変じて詩賦文章となりて天下に散満す。今の著書ありて而うして能く昔の事業を不朽にするときは、すなわち七十の寿ありて而うして七編の集を増続する所以なり。かつそれ文字の寿さらに八十九十、すなわち百千年に至りて磨滅すべからざるものあり。請う、兄、自寿せよ、請う、兄、自寿せよと。予、措きてこたえず。すでにして刻成る。ついに名づけて『七十自寿集』という。

 

〔東京大学附属図書館蔵。1995年訓読。2004年修正〕

 

 

梅辻春樵 (うめつじしゅんしょう、1776.4.7.1857.2.17.

漢詩人。安永五年生まれ。諱は希聲(まれおと)、字は廷調、またの字は無絃。春樵はその号。本姓は祝部(はふりべ)。皆川淇園、村瀬栲亭に学ぶ。寛政二年、小比叡禰宜に補せらるるも、人となり狷介端直にして、いやしくも人と交わらず。文化四年五月、社職を弟・希烈(まれたけ)に譲り、自ら家祖・琴御館(ことのみたち)の称号をとり琴氏と称し、京都に隠居すること五十余年、王公大人の寵遇を蒙る。著わすところ、春樵詩草初編、および家稿十編。安政四年二月病篤く、曰く、而今而後わが文章を天地に復帰せしむと。二月十七日、悠然として逝く。年は八十二歳。墓所は京都東山高台寺。子弟門人ら、文煥先生と私諡す。

 

 

参考T:富士川英郎『江戸後期の詩人たち』(筑摩書房,1973)より

 

「宿松靄山房」    梅辻春樵

一宵幽夢乍醒初   一宵の幽夢 たちまち醒むるの初め

澗水声中杜宇呼   澗水声中 杜宇呼ぶ

簑笠将帰帰不得   簑笠 まさに帰らんとして 帰ることを得ず

満山煙雨緑糢糊   満山の煙雨 緑 糢糊たり

 

「早秋絶句」    梅辻春樵

金風蕭索天如水   金風 蕭索として 天 水のごとし

浴後背燈坐夜凉   浴後 燈に背いて 夜凉に坐す

乍見新篁一叢影   たちまち見る 新篁一叢の影

婆娑和月上閑牀   婆娑として 月に和して 閑牀に上るを

 

「送友人移居於那陀浦」    梅辻春樵

黄梅時節雨凄凄   黄梅の時節 雨 凄凄たり

移住摩耶山霧西   住を移す 摩耶山霧の西

臨別闇然悄無語   別れに臨んで 闇然 悄として語なし

一声倩得子規啼   一声 子規をやとい得て 啼かしむ

 

「帰省台麓」    梅辻春樵

琴牀石古青苔美   琴牀 石古くして 青苔美し

想起当年弾緑綺   想い起こす 当年 緑綺を弾ぜしを

旧夢不帰人老来   旧夢帰らず 人老い来たり

余音只有前渓水   余音はただ前渓の水にあり

 

 

参考U:春樵隠士墓碑

 

夫日月星辰天之文也。山川江海地之文也。其道互万古而煥乎宇内者也。詩書礼楽人之文也。人人叙述其道伝之万世、而燦然天下者文之又文者也。其文之為体六経以下、左国屈荘乃至馬班以後、唐宋名家等皆各一家法也。世儒大抵準擬唐宋名家之体、無出其範囲者。特與世儒異見而法天地自然以立一家者、唯有春樵隠士焉。隠士、名希聲、字廷調、又字無絃、別号ト軒。本姓祝部宿祢。補小比叡祢宜、叙従四位下、為人狷介端直、不能與衆推移。文化四年丁卯夏五月、挂冠譲職于弟希烈、自截家祖琴御館之称号、以為琴氏。口吸風煙月露、筆写行雲流水。隠居輦下者五十年、于茲不好與世儒争名、只蒙王公貴人寵遇而已。所著有家稿十編、安政三年丙辰冬十月、三条右大将奏供 天覧。四年丁巳春二月十二日、奉 叡感不浅之 聖旨辱賜書牘時、隠士久臥病、捧書起坐恭謝使者。是月十六日疾病、曰自今日而後使我文章又帰天地。翌十七日、悠然而卒。年八十有二。葬高台寺山中。子弟門人等、私諡文煥先生、請銘于予。銘曰、一家文字人世出類、煥兮燦兮因準天地。八十余年著了十編、行雲流水依地帰天。

安政四年丁巳冬十二月、正三位式部大輔菅原以長、銘并序。

正二位内大臣藤原実万公、賜額字恭移篆掲焉。正三位祝部希烈書。

             安政五年戊午春二月小祥、男改絃、二男更張建。

                           平安高城美成男美照併鐫。

 

それ日月星辰は天の文なり。山川江海は地の文なり。その道互いに万古にして宇内に煥乎たる者なり。詩書礼楽は人の文なり。人人その道を叙述してこれを万世に伝う、而して天下を燦然たらしむる者は、文之又文者なり。その文の体たるや、六経以下、左国屈荘ないし馬班以後、唐宋名家等、皆おのおの一家の法なり。世儒はたいてい唐宋名家の体に準擬し、その範囲を出づる者なし。ひとり世儒と見を異にし、而して天地自然にのっとり以って一家を立つる者は、ただ春樵隠士あるのみ。隠士、名は希聲、字は廷調、またの字は無絃、別にト軒と号す。本姓は祝部宿祢。小比叡祢宜に補せられ、従四位下に叙せらるるも、人となり狷介端直、衆とともに推移すること能わず。文化四年丁卯夏五月、冠を挂け職を弟希烈に譲り、自ら家祖・琴御館の称号を截り、以って琴氏となる。風煙月露を口吸し、行雲流水を筆写す。輦下に隠居すること五十年、ここに世儒と名を争うことを好まず、ただ王公貴人の寵遇を蒙るのみ。著すところ家稿十編あり、安政三年丙辰冬十月、三条右大将、天覧に奏供す。四年丁巳春二月十二日、「叡感浅からず」の聖旨を奉り、かたじけなくも書牘を賜りし時、隠士久しく病に臥せりしも、書を捧げ起坐して使者に恭謝す。この月十六日疾病にして、曰く、今日より後は我が文章をしてまた天地に帰せしむと。翌十七日、悠然として卒す。年は八十有二。高台寺山中に葬る。子弟門人等、文煥先生と私諡し、銘を予に請う。銘に曰く、一家の文字は人世出類、煥兮燦兮として天地に因準す。八十余年十編を著了し、行雲流水地に依り天に帰す。

安政四年丁巳冬十二月、正三位式部大輔菅原以長、銘ならびに序。

正二位内大臣藤原実万公、額字を賜り恭移篆掲す。正三位祝部希烈書。

             安政五年戊午春二月小祥、男改絃、二男更張建つ。

                           平安高城美成男美照併鐫。

 

 

参考V:生源寺平格「梅辻春樵履歴概略」

 

先考、元滋賀県日吉神社旧社司、従四位祝部宿祢生源寺内藏頭。諱は希聲、字は廷調、無絃菴また春樵と号す。末年に至り、別にト軒と号す。加茂建角身命の後裔十二世の孫・琴御館宇志麻呂宿祢の末孫にして、血脉連綿、千有余年の系譜あり。少して職を弟・希烈に譲り、京師に退隠し、自ら梅辻琴春樵と称し、儒を業とし、もっぱら交を王公貴人に結び、かたわら四方の文人墨客と翺翔す。人となり狷介端直、好んで経伝史学を講じ、また詩文をたしなむ。著わすところ、春樵隠士家稿十編、詩文若干巻あり、かつて天覧に供す。三條右大将実萬公、阿野宰相中将公誠卿より、叡感不浅の感状を賜われり。そのほか、春樵詩艸二巻および経史雑著若干巻あり。居常、勤王報国の志篤く、弟・希烈とともに肺肝を吐露し、慷慨切実、その論すこぶる水府列公と遇う。しばしば画灰書を以って贈答す。羽倉用九、大橋順蔵等の諸人、みな同志なり。その八十を賀するや、生源寺の家例を以って、弟・希烈よりまず寿餅を朝廷に献ず。賞賜あり。当時、列公よりも国詩一首および壽トの二大字を書して賀せらる。ト軒の別号は、これより称す。以ってその交際の密なるを知るに足る。安政四年二月十七日、年八十二を以って卒す。洛東高台寺に葬る。子弟門人等、私に諡して文煥先生と云う。明廿年三月十七日、その三十年の忌辰にあたる。子姪等あい謀り、いささか追孝の微志を表わし、以って先霊を慰せんと欲す。よって遺稿を上梓し、謹んで閣下に献ず。こいねがわくは閣下特殊の哀憐を垂れ、上聞に達せんことを。頓首々々謹言。明治十九年十一月廿三日  願人 子 生源寺平格  副願 姪 藤井希璞

内大臣公爵三條実美殿閣下

 

〔国立国会図書館憲政資料室蔵「三条家文書」より。2003129日閲覧〕

 

 

【文献】

梅辻春樵『古桐餘響集』

上村泰裕「梅辻春樵年譜」

生源寺希三郎「嘉納治五郎の一族と家系――治五郎は三男か四男か」静岡学園短期大学研究報告61993

中村真一郎『頼山陽とその時代』中央公論社,1971

富士川英郎『江戸後期の詩人たち』筑摩書房,1973

鷲原具仁子「漢詩における社会批判――村瀬栲亭と梅辻春樵」国文学・解釈と鑑賞74(3)2009

『平凡社日本人名大辞典』

『国書人名辞典』

 

【早稲田大学古典籍総合データベース】

『春樵隠士家稿』ほか

【国際日本文化研究センター《平安人物志データベース》より】

「磨磋吟骨眼長醒」「峯餘花」「晩夏蝉聲」

 

 

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