柴田雄次「東山問答」(『知性』19433月号)

 

名古屋駅から一路東山公園行の市電に乗ると動物園前で降ろされる。この停留場から右手へ山径をだらだらと左へ右へ登ること数町で忽焉として眼界が開け、ここに新設の名古屋帝国大学理学部が聳えているといいたいところだが、じつは防空色の薄汚い倉庫風のバラックが六棟横たわっている。形態はすなわちしがないバラックではあるが、内には国家有用の人材と知識とを充実して東海に学術の中心を建設せんとの意気に燃え立つ少壮学徒が立て籠もり、物資不足の時艱を克服しつつ教育に研究に精進しつつある学問道場である。この倉庫はた道場の番人として鍵を預かる一老爺は、今しも彼の部屋の窓から外を眺めている。左手すなわち西方には八千坪にあまる鏡ヶ池の翠漣を前景に、はるか里余の下方に大名古屋市の全貌を見渡し、その後を限って伊吹の竣峯にならんで鈴鹿山彙が聳えている。前方と左方は常盤の松をいただき起伏する丘陵に囲まれ、すべてこれ名古屋帝国大学の敷地で広袤十八万坪を数えるのである。老人は彼の机の前に腰を下ろして冥想に耽りはじめた。冬の日ざしは部屋一杯に広がり、室内は春の暖かさである。どこからか伝わってくるモーターらしい鈍いうなりのほかには物音一つ聞こえない。冥想がいつか無何有郷への遊行にならなければ幸いである。やがて戸口に訪う響きが聴こえて訪客が入ってきた。かくして東山問答が始まったのである。

 

訪――先生は相変わらずお達者ですなあ。

 

この訪客は番人の老人を捕らえて先生というのである。番人もいい気になって返事をしている。

 

老――おかげでねえ。それにこの東山はじつに空気がいいよ。よく見たまえ、ここには煙とか塵とかいうものは薬にしたくもない。それに学者の神経によくない雑音というものが入ってこない。

 

訪――なるほどね。ときに時局柄この新大学の設備は容易ならぬことと思われますが、一通りのことはできたのですか。

 

老――一通りというにも色々あろうが、学校に人と物と金の要ることは他のすべての場合と全く同じだ。もちろんこの三拍子にわたって一通りというわけにはいかない。学校ことにも最高学府の大学に最も必要なものは一にも二にも三にも人であるが、この「人」はまず一通り陣容が整っているし、またこれを充実する目当てもついている。ただ物にいたっては半通りも整っていないよ。

 

訪――へえ……この重大時局に大学の店開きをして、物が半通りも整っていないよなどと涼しい顔をしていてよいのですか。

 

老――いや、決してポカンとしているわけではない。先にもいった通り、教育も研究も結局人の問題だ。有為の人はどんな難局に処してもただ呆然とはしていない、また泣き言もいわない。研究用機械が足りなければ七処借りしても何とか組み立てて、一日も休んではいない。また実験室の設備がおくれると見ると、大自然へ飛び出しこれと取り組んで数字を出したり採集をしたりして楽しんで科学している。また最近には、全国から数十人の新進数学家がこの東山道場に集って盛んに討論会を開いていた。我輩の見るところでは、有為の人材さえ集まれば物などは自ずから集まってくる。

 

訪――えらい気焔ですね。いや、しかしよくわかりました。ときに先生、世間の科学論もこのごろ少し下火のようですが、まさか世間が科学にあきてきたのではないでしょうね。

 

老――いや何ともいえないよ。この老人には世間のことはよくわからないが、あきっぽいのは大衆の通弊だからね。しかし一度わっとわき立って間もなくしんと静まるなんていうのは、世間にほんとの科学的背景が欠けている証拠とも取れるね。こういう時機こそ、科学者が大いに奮起しなければならないのではないかね。

 

訪――あの雨後のきのこのように科学論の続出したとき私もずいぶん勉強して読んでみましたが、今日となってみると、さて何が書いてあったかどうもはっきりしませんね。先生もあれを一々ごらんになりましたか。

 

老――年を取ると万事スローモーションとやらでね。外でがんがん番鐘がなるのにゆうゆうと夜具をかぶって寝ているわけにもゆかず、しぶしぶ雨戸を細めにあけてみると、あちらこちらに火の手が上がっている。そこでその大きそうな火の手は、誰の家で何を焼いたかくらいをちょっと確かめたという程度に覗きはした。

 

訪――そこで御感想はどうでした。

 

老――若い君さえ大体忘れたというのだろ。この老人が一々覚えているはずがないではないか。しかしあれは確か大東亜戦勃発以前のことだと思うが、この内にはこの国家超非常時にあたって科学者が従来の研究をそのまま続けていてよいものか。さあ万事をなげうって国家有用の研究をさせてもらいたいものだというような、立派な精神から来たものもかなりあったようだ。そしてこれらの火の手は、たいてい東京から遠い方面の夜空にあがっていたようだね。

 

訪――そういえばそうでしたね。しかしまたなぜ、こんな火の手が東京にはあがらなかったのです。

 

老――東京にもあるにはあったが、しかし東京の科学者の大部分はすでに数年来、それぞれの筋から何かしら時局応急の研究を委托せられていたせいもあろう。しかし今日ではあまりこういう声をきかないね。

 

訪――昨今新聞を見ると、アメリカでも物理学者、化学者数千人を国家が動員して、国家統率のもとに大々的に軍事的研究に従事せしめるとありましたが、わが邦でもこの程度にやらなくてもよいものでしょうか。

 

老――可否を議論する前に、ひとまずアメリカという国柄を考えてみる必要があるのではないかね。元来アメリカ人は行動的にも思想的にも派手好みで、何事にも世界一といういくぶん幼稚な目標で進んできた国柄ではないか。そしてことに現大統領ルーズヴェルトの代になってこの傾向が一層著しくなり、なお悪いことにはこの国民的性癖を国際政事に集中して、遠く太平洋を越えて東洋にまで触指をのばしてきて、皇国に対し理不尽の挑戦をさえも試みてきた(といささか興奮口調)。それでルーズヴェルトの毎度のいい草は「文化の自由と民主主義擁護のための戦い」という黴の生えたお題目でありながら、実際の行動は最も露骨な帝国主義と専制政事であるから笑うこともできない。このやり方で国内をまとめてまた敵に当たるには、空宣伝も一つの武器となってくる。やれ一年に飛行機を十二万台生産するの、一千三百万の軍隊を仕立てるの、一日数隻ずつの汽船を進水せしめるのという放送とともに、最近にはいま君のいったような種も出てきた。しかしだ、ルーズヴェルトの宣伝が百パーセント空念仏かというに、決してそうでない。その何割かは実現せられ、ことに科学者動員の問題のごときは最も可能性のあるやつで、実行すれば必ず若干の効果の挙がるものだ。ただアメリカという国は全く人種の展覧会で、多数の科学者のうちには外国種も多く、また最近に輸入したユダヤ系の人間も少なくない。この不均一系科学者群を一糸乱れず強力な国家統制のもとに滅私奉公的国家有用研究に従事せしめようというのは、並大抵のことではあるまい。今日とはすべての事情も違うが、前欧州大戦の際、アメリカはドイツのアンモニア合成の特許を接収して大費用を投じて実行を試みたが、平和克復までについに成功しなかった例もあるよ。

 

訪――(老人の長広舌にいささか閉口して)やっぱり新聞種ですが、旧臘、技術院に科学技術審議会というものが設置せられて、たくさんの科学者が委員に任命されたようでしたが。

 

老――よく人の話の腰を折る男だな。えーと、まだアメリカの話が残っていたはずだ。そうだ、それら不均一的人種にして国家的意識の必ずしも確固たらざる科学者群を動員して曖昧な戦争目的に協力せしめようと努力するのとは違って、数において劣るとも臣道実践に火の玉となった皇国の科学技術者群に、いま君のいったような適当の組織を与えたときの効果のどんなものかは君にもわかるだろう(と演説口調である)。

 

訪――もちろんわかりますよ。それで私も安心しました。

 

老――いやいや、安心しろとは決していわない。むしろ安心してはいけないといいたいのだ。

 

訪――どうもお年寄りは気むずかしいな。一体どうすればよいのですか。

 

老――君、その科学技術審議会のことがこの官報に載っているよ。君は眼がよいからそのはじめのところをちょっと読んでくれ。

 

訪――なるほど、「重要国策の科学技術的検討、その他科学技術に関する重要事項の調査審議を行なう」云々とありますね。

 

老――どうだ、科学者の任務がそこにのってはいまい。その文句には、科学技術といつも四文字になっている。そしてこの場合には下の二字に重点があるわけだろう。ところがこのほかに、同じ四字でも基礎科学というものがある。下手をやると基礎科学はこういう時期にとかくままっ子になりやすく、一朝これがままっ子にとなったら大変だ。この基礎科学的研究はじつに千差万別で、ちょっとの素人見にはほとんど目的がわからなくて、まるで馬鹿みたいに見えることがある。ところがその結果が三十年五十年の後に、いや、あるいは明日にもどんな途方もない応用を生み出すか、じつに気まぐれ千万なやつだ。したがって、この基礎科学には統制や審議は役に立たない。ただ保護育成あるのみだ。

 

訪――私も全くその通りと思いますが、その保護育成は一体どこでやります。

 

老――何しろ基礎科学的研究は大体金っ食いだから、結局国家事業として各官立大学の研究室を主体として行なわれ、いわゆる保護育成的世話は学術研究会議のような機関をしてこれに当たらしめるのが最も自然的な方法だろうね。すなわちわが邦の科学政策は明らかに二本建てとなり、技術の方面は技術院の科学技術審議会の手に任せ、基礎科学的方面の世話は文部省の学術研究会議がすることとなり、何だか大変組織的体裁がととのったようではないか。

 

訪――そこで両方の連絡の関係はどうなります。

 

老――おいおい、倉庫の番人たる吾輩にそんなことを聞いたってわかるものか。何事も人とその誠意の問題さ。また両方に関係のある人も定めて多かろうから、うまく行くにきまっている。また時局の進展も両者の連絡をいよいよ円滑にするに違いない。

 

昼さがりの冬の日はますますこの老人の部屋を暖め、やや喋り疲れた老人の頸はなんだかだんだん下に向かうようだ。どのくらい時が経ったか知らないが、はっと目覚めた老人はあたりを見回し、さて客はどこへ行ったかと独り語ちつつ立ち上がった。果たして、ほんとに客が来たのかどうか、そのあたりどうも疑わしいというわけは、老人の前に冷えた茶の入った茶椀が一つ置き忘れてあるばかりである。夕日は今し鈴鹿山彙の上にたなびく横雲を紅に染め、夕空の美しさはなにものにも譬えがたい。老人は苦笑を洩らしつつ帰りじたくを始めた。

 

 

参考T:渋澤元治「理学部長候補決定のこと」同『五十年間の回顧』(1953年)第二編65

 

昨十五年十二月七日、前述のごとく十七年四月から理学部独立の予算が大蔵省で承認された。当時は大蔵省で承認さるれば議会の通過は確定したと同様に考えてよかった。そこで直ちに同学部教授の人選に取りかからねばならぬ。余は理学方面には教え子もなく知人も少ないから、どうしても立派な部長を選び、この方に一任するのが最良の方法と考えた。十五年の末のころであった、東大御殿食堂〔註:現在の山上会館〕で食事したことがあった。隣席に理学部教授・柴田雄次君がおられ、名古屋の話が出たとき、氏いわく「僕も名古屋には両親の墓があって時々墓参する」と。余は同君の人格と学識には敬服していたので、この話を聞き直覚的に本学理学部長として最適任である、かつ同君は来十七年三月には定年で東大を退職せらるることも知っていたから、それまで兼任教授をお願いして教授陣人選に当たっていただくことに決心した。直ちに詮衡委員の東大理学部長・寺沢〔寛一〕氏に相談した。氏も同様の考えをもっておられたが、定年の関係上、余がいかに考うるやと懸念せられてあえて提案しなかったとのこと。余は、定年は東大のように後継者が続々輩出する大学では有意義であるが、新設大学創業の際はその人物によって判断すべきもの、同君のごとく年齢は定年に近いといえ、身心ともに少しも衰えておらぬ方がこのまま隠居するは国家的大損失である、いわんや時局重大となり後進の養成が急務なる場合、形式的のことをいうべき時でない、名古屋のごとき新設大学理学部を創設する任務を負うことは学界および国家的にも望ましいことと思うことを述べ、寺沢氏より柴田君に余の意中を話してもらい、また余よりも丁寧に書状にしたためてぜひ承諾を乞う旨を申し送った。十六年二月余が上京の際、寺沢氏より、同君は最初相当難色があったがついに承諾された旨を報告せられた。次いで直接同君に面会して承諾の内意を確かめ、平賀〔譲〕東大総長に面会して諒解を求めたるに、同氏も即座に賛意を表され、じつに理想的の人を得たと喜ばれた。

 

かくて同君は十六年四月本学教授を兼任せられ、来年四月専任となり部長に任命せらるる内約をせられた。しかして理学部教授、助教授以下職員全部の人選を一任した。同君のことゆえ直ちに人選に着手せられ、じつに迅速に新進気鋭の教授陣を組織せられた。(柴田教授を学部長に迎えたことが本学理学部建設の成功の主要なる基因となったことは、本邦学界で認められたことである)。

 

 

参考U:柴田雄次「田村春吉君を懐う」春光同門会編『田村春吉』(1954年)

 

私が田村春吉君と初めて相識ったのは何年ごろのことであったかは、はっきりした記憶がないが、おそらく同君が砒素の化合物を研究しておられた時期ではないかと思う。いずれにせよ明治の末ごろか、大正の初期に違いない。しかしそのころは、互いに若い科学者として一脈の意気相通ずるものがあったというほどのこと以外には、深い交際はなかった。

 

君と親しく話しあうようになったのは、昭和の初めごろだった。当時多数の科学者を擁して相当華やかな存在であった日本学術協会が、その学会を名古屋で開いた。そのとき私も協会理事として、名古屋医大の先生方と接触する機会を得てからである。

 

さらに君と熟知の間柄となったのは、昭和十一年初夏のころ、君と同じ船で渡欧して以来のことである。

 

この年九月、スイス国ルツェルン市で開かれた万国化学連合に、私は学術研究会議の代表として出席のため、五月末、神戸出帆の靖国丸の客となった。その夕の食卓で図らずも、夫人令嬢を伴ない羽織袴姿の田村君を見いだしたときは驚きかつ喜んだ。聞けば君は学事視察の海外旅行で、夫人令嬢は名古屋港から門司港まで見送りかたがたの同道とのこと、誠に君らしい家庭的思いやりの温かさに敬服した。

 

全く俗務から解放された一ヶ月ほどの船旅は、三度の食卓でのおしゃべりが主な一日の銷閑である。私は田村君とともに船長を囲む食卓に席を与えられていたから、じつにさまざまのことを楽しく語りあった。君は東京日比谷の一中、一高、東大と学校系統の表街道を踏破した下町生まれのチャキチャキの江戸っ子。私もまた東京生まれの東京育ちではあったが山の手っ子で、少々馬糞臭いほうであるが、しかし互いに話は合うのであった。君の話術は決して雄弁とはいわれないものの、一種独特の持ち味があり、論旨話題ときにすこぶる飛躍して聴く者をとまどいさせるが、急所はちゃんと押さえていて結論に間違いはなく、そしてすべてをつつむ天然の愛嬌は誰にも好感を抱かせた。

 

印度洋上でのある日の昼さがりである。私は日課の昼寝を自分の寝室で楽しんでいると、船室の窓外で君の例の口調が聞こえる。元来わが靖国丸は不思議にも新婚旧婚の華やかな夫婦数組をのせていたのでいとも賑やかであったが、いま午睡から半ばさめた私は田村君の声を聴くともなしに聴いていると、先生はこれらの若夫婦の前である種の医学を講じているらしいのである。私はこのほほえましい光景と、緊張して聴き入っているらしい生徒連の空気を乱すまいと、いつもより少し長く昼寝のベッドに横たわっていたことであった。

 

私は船中で、君としばしば名古屋に綜合大学を建設することの必要性につき論じあった。旧幕徳川の親藩として長い文化の伝統を持ち、また近年工業の急速な発達を見せている中京の地に帝国大学を欠くことは、本邦綜合大学の地域的分布から見ても遺憾千万のことである。君が主裁する名古屋医科大学を中核とし、君の手腕によって近い将来にぜひ名古屋帝国大学創設の運動を起こせなどと、晩餐の際に傾けた芳醇の勢いで述べ立てたことであった。ところが君には当時この問題の腹案がすでに熟しており、今回の外遊の目的のうちにはその下心も蔵せられていることを知って、私は自分の迂愚を笑った。

 

欧州の地では一、二度君と出会っただけで、君も私もこの年の十月末ごろ帰朝した。そのころから君の名帝大建設の具体的活動がそろそろ始まったのではなかったかと思うが、この辺の消息は名大医学部の教授方が詳しかろうと考える。とにかく君は、この件の情報を文書や印刷物でたびたび私の許に寄せられたばかりでなく、今日の名大事務局長須川君の足を東大の私の実験室に運ばせたことさえあった。このように、君は船中における私との雑談をも決して雲烟過眼視することなく、その秘策を一々第三者の私に洩らされる誠実さには全く打たれたのであった。君の情熱は実を結んで、ついに政府も名古屋に帝大を創設する決心を固め、昭和十四年度にこれを発足させることになった。その後の経緯は、先ごろ上梓せられた渋澤初代総長の著『五十年間の回顧』に詳らかである。

 

名大医学部のこうむった未曽有の戦災と復興事業と、また昭和二十一年二月以後、名大第二代の総長として名大の綜合的復興計画、さらに文法経三学部の増置などに関する君の心労は次第に君の健康を蝕み、時には会議の席にも堪えないこともあったので、吾人はしばしば憂慮した。ことに学部増設の途における幾多の難関はいかに君の心身を過労させたか、理学部長として昭和十七年以来つねに君のかたわらにあった私は、深くこれに気づきながら積極的に君を助ける才に乏しかったことを、今に悔いかつ君の霊に詫びるところである。

 

1947年7月30日、理学部玄関にて、米国科学調査団(R. Adams博士)来学

1947730日、米国科学アカデミー代表団来学、名古屋大学理学部玄関にて。前列左から菅原健(化学)、Royal Sorensen(カリフォルニア工科大学、電気工学)、田村春吉総長、Roger Adams(イリノイ大学教授、化学)、久野寧(生理学)、William Coolidge(ゼネラル・エレクトリック社、物理学)、生源寺順工学部長、柴田雄次理学部長、戸苅近太郎医学部長。後列左から上田良二(物理学)、森野米三(化学)、中山正(数学)、?、江上不二夫(化学)、石丸三郎(工業分析化学)、William Robbins(ニューヨーク植物園、植物学)、小野勝(数学)、?、宮原将平(物理学)、金原淳(電気工学)、野田浩(電気工学)、吉田耕作(数学)、高嶺昇(植物学)、?、有山兼孝(物理学)。

 

 

参考V:柴田雄次「名大理学部創設と私」『名古屋大学理学部二十五年小史』(1967年)

 

何事であれことの顛末を時の流れに沿って記録するのが歴史の本命であるとしても、回顧とか追想とかと今日から時に逆らってこれを考え、またある時点を中心としてそのあとさきを思い回すことも、ある事件の歴史的取扱いの一方法であろう。

 

年月というものが正確な物理的単位の集積でありながら、これを人の頭を通してだけ考えると心理という要素が介入して、その長短は意外の感じをもたらす結果となる。名古屋大学理学部創設二十五年史が編纂せられることになったから、その関係者の一人として一文を投ぜよとの呼びかけを受けて、気がついて指折り数えると、なるほどそれ以来まさに四半世紀が過ぎている。昼寝の夢を不意に呼びさまされた思いである。老来とみに薄れた記憶力でものを書くことは危険千万と、書架から二冊の本を抽き出してこれを座右に置き、ペンを取り始めた。さて、その二冊というのは、春光同門会編『田村春吉』と名大初代総長渋澤元治先生著『五十年間の回顧』である。そしてこの二冊の頁をそこここと翻しながら、何くれと往時を偲びながら筆を進めるのである。

 

まず昭和111936)年6月の私の渡欧のことから想い起こすことにする。じつはこの年9月にスイスのルツェルン市で万国化学連合(今日のIUPACの前身)が催され、私は学術研究会議の代表としてこれに臨むべく命を受けたが、これを機会に欧米学界見学も試みようと3〜4ヵ月も早めに6月初旬、神戸港から当時の日本郵船の豪華船・靖国丸の客となってマルセーユに向かったのである。出帆の日、晩餐の卓で羽織袴姿の紳士と一緒になり、ふと顔を見ればなんとこれは年来の知己田村春吉君であったので、かつ驚きかつ喜んだ。

 

昔の欧州航路の船旅というものは1ヵ月あまり全く公私生活の煩わしさから解放され、三度三度の御馳走、船客間のおしゃべり、港々での観光ドライブ、また船側で催すダンス会、デッキスポーツ会等々、今日から考えれば馬鹿馬鹿しいほどのレジャー旅行である。甲板でも食卓でも最も多く話し合った相手はもちろん田村君であり、話題としては名古屋に帝国大学を創設する問題がはなはだしばしばであった。私としては中京の地に一総合大学を置くべきだという抽象論に過ぎなかったが、田村君はすでに若干具体的運動に着手しつつあると聞いて、私はこれあるかなと感嘆し、その秋帰朝したうえで何か手を貸すことがあれば遠慮なく言ってもらいたいなどとも言った次第である。

 

上記『田村春吉』中では同君の門下、友人など約120の人々が同君に対する感謝、追想、人物評等々それぞれ興味ある筆で同君を浮き彫りにしているが、知友数人の人々は、同君がそのころ口を開けば名古屋帝国大学創建問題の議論で、なかにはいささか閉口した人もあったようである。しかし、一総合大学創設というような難事業を比較的短時日の間に成功せしめるには、君のような情熱なくしては到底不可能であることを当事者たちは後に至って皆思い知ったのである。

 

昭和11年秋に私は外遊から帰り、田村君はやや遅れて翌年正月早々に帰朝せられた。そして早くも宿願の名帝大創設の画策に取りかかられたらしく、たびたび私のもとに中間報告を寄せられ、あるときはわざわざ医大の事務局長須川氏を私の教室に来訪せしめられたことさえあった。田村君の運動は必ずしも文教の府に対する正攻法ばかりでなく、君の広い顔を利用しての地許名古屋の県庁方面から実業家たちにまで及んでいたらしく、じつに頭の下がる熱意であった。

 

さて参考書をこの辺で渋澤先生の『五十年間の回顧』に移そう。渋澤先生の回顧録は第一第二の両編からなり、その第二編がすなわち名古屋大学創設私記と題せられ、昭和14年に発する編年日記体でじつに正確無比の歴史的記録である。その初頭の大学設立の経緯という条に、「昭和13年、愛知県知事田中廣太郎氏が従来の医科大学を医学部とし、新たに工・理二学部を置き総合大学とする計画をたて、これに要する900万円の創設費(ほかに仮校舎改造費、敷地整地等あわせて約1000万円)と約18万坪の敷地を寄付する旨を政府に申請した」云々の文字が見える。知事をここまで引っ張ってきた田村君の情熱がこれらの文字の陰に沸々とたぎっているような気がする。なお、この項の末尾に「この大学創立委員として長岡(半太郎)、本多(光太郎)、田中(芳雄)、大河内(正敏)4博士に石黒次官、田中知事の6人で委員会を組織し、創立に関する準備調査をなしつつあった(中略)、この委員会で初代総長として余に白羽の矢を立てたのであった(後略)」とある。これは昭和14年2月のことで、何分にも当時は満州事変を経て昭和12年7月より始まった支那事変の真最中、わが国としてまことに容易ならぬ時期であったが、渋澤先生を中心として理工学部の人的、物的の建設が着々進行し、この年の4月に医と理工の2学部で、わが名古屋帝国大学は国家枢要人材供給の使命を帯びつつこの難時局中に乗り出したのであった。

 

次にまた渋澤先生の回顧録の頁をめくって、「理学部独立の件」という項の記載を拝借することにする。「(前略)県民の強い要望と時下工学教育の切実なる要求とにより、ついに工学部の諸講座のほかに理学的のもの5講座を加えて、名称を理工学部とすることにして議会を通過したのであった。しかし余は、この理学講座を少し加える混合教育法には賛成できない(後略)」とあって、先生の持論と医学部方面の切なる要望もあって、理学部独立の気運はその間に着々醸成されていた。そしてついに、昭和15年に文部省に設置された科学振興調査会で名大に理学部を設置することが提案可決せられたそうである。先生の回顧録昭和16年の条に進むと、ここに「理学部長候補決定のこと」という項がある。先生の記載を上例のようにここに拝借転載するのは私として少し面はゆい感がなくもないのでこれは返上し、自家記憶に切り換える。それは昭和15年も暮れに近いころであったと思うが、ある日、名大総長渋澤先生と東大御殿の一室でお逢いした。そして、名大に理学部が独立設置せられることになったから、創設委員として教室の人選等に協力してくれとのご相談を受けた。昭和11年6月田村君と靖国丸船中で同君の計画に手を貸すという約束を思い出し、また、これまでに阪大、九州大、京城大などの理学部創立委員に加わったことなどの経験もあったので、渋澤総長の申し出も快くお受けした。そして、当時の寺沢〔寛一〕東大理学部長や、すでに定年制で東大を退き文部省の資源科学研究所長を務めていた亡兄柴田桂太とも相談して、ぼつぼつ数、物、化、生物の教官の人選を推し進めて年を越した。

 

そのうちに渋澤先生から寺沢君を通して、さらに一歩進んだ具体的の協力要請が私にもたらされた。それは、昭和17年4月が名大理学部開学の時期であり、これがまた私の定年による東大教授退職の期でもある。ついてはいっそのことこの機会に、まだ定年制のない名大教授の職につき、理学部長として新学部の運営にあたってもらえないかとの申し出があった。私は即答を避け、自らの熟考と先輩、同僚、親近と相談の結果、結局これをお受けすることとなり、当時の平賀東大総長の許可のもとに、昭和16年4月から名古屋大学教授兼任の辞令を受け取った。そして、その翌年新入生を受け入れて早速授業に差し支えなくするため、数、物、化、生物の先生方全員の人選を鋭意進めることとして、諸先輩や同僚の説を聞きつつ、適任候補者が勤務中である大学や高等学校に罷り出て、それぞれの総長、校長に人材割譲の懇請を行なったのもこの1年間であった。

 

この年の12月、日本は非運の大東亜戦争に突入し、この報を東大の食堂で聞いたとき背筋を冷たいものが走るのを感じたことを今も忘れない。とにもかくにも、私からお願いした各科の教官は一人の変更脱落もなくこの非常時の学部開設を一致して進めてくだすったことは、これまた忘れることのできない感激であった。私は昭和17年3月末日に東大を退職すると同時に名大の兼任教授が本官となり、自分は単独名古屋に赴任した。ここにも田村君の一方ならぬ友情が働いて、椙山家〔田村氏の縁戚〕の一室を私の宿舎として用意せられ、ここにはベッドなどもそなえられ、しかも田代の田園を眼下にして朝夕雲雀や蛙の歌をきき、目路の果てに東山の木立を望むという、心のなごむ住まいであった。

 

このようにして始まった名大理学部は、無事学生の入学試験や入学式などを済ませたものの、東山における仮校舎の建設の工が終わらないので、しばらくのあいだ西二葉町の工学部に間借りしていたが、その4月の18日に、かのドーリットルの突然の空襲はまさにこの戦争の将来が容易ならぬものであることを暗示して、絶大な印象を受けたものであった。

 

さて、約束の紙数がそろそろ尽きたようである。賤の小田巻くり返し思い出の糸を手ぐれば、まことにきりのないことである。苦しかった空襲苛烈下の名古屋の生活、生物学教室の全焼、理学部全教室の長野県下への疎開、私が仮寓の椙山邸も至近爆弾による損害を受けたため私は疎開で人なき化学教室へ移って自炊生活を始めるなど、これらの辛苦は理学部全員が多かれ少なかれ皆々経験されたところで、20余年の昔を同じ思いでしのぶ方もあることと思う。

 

私は昭和2312月、思わず長居した名大理学部長の職を辞して、感慨にふけりつつ帰東した次第であるが、そのときはすでに永年住みなれた東京の家も焼け、茅ヶ崎の茅屋にひと息ついたと思う間もなく、昭和24年4月から東京都立大学総長に引っ張り出され、日本学士院では第二部長を数年務めた後、ただいまは負うけなくも院長を仰せつかっている。長の字のつく任務には全くつかれ果てた。いよいよ終点も近いことと思う。名大理学部創設以来、私と行動をともにせられた先生方のうちには、あるいはすでに故人となられ、あるいは定年退職せられ、あるいはまた他に転任せられた方々も少なくないが、まだ名古屋大学理学部のために研究に教育に尽瘁しておられる方々も少なくない。これら故旧の方々に厚く感謝しご健康を祈って筆をおく。(昭和42年初秋)

 

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