渋澤元治「退任に際して学生諸君に告ぐ」(194621日)

 

諸君、私は今年131日退任いたし、諸君とお別れすることとなりました。この際なしうれば諸君の全部のお集まりを願って一言お別れの言葉を申し述べたいのでありますが、それは時節柄困難でありますので、ここに私の意のあるところを記しまして学部長諸君に代読をお願いすることといたしました。

 

本学の沿革に就いてはここに改めて申すまでもありませんが、昭和144月、綜合大学たる名古屋帝国大学として創設せられ、名古屋医科大学を医学部とし、同15年、当初理工学部と称せられたが実質的には工学部が設けられ、越えて17年には理学部が設けられたのでありました。しかし当時はすでに支那事変が始まっており、続いて今次世界大戦が勃発したために、本学の建設にあたって諸先生の招聘、建築ならびに設備用の資材の獲得その他につき、非常な苦難をなめてきた次第であります。しかし私がかつて総長懇談会において述べ、のち小冊子『我等の学園』に述べたごとく、たとい物賀的には恵まれずとも精神的には一致和合した学園を築き上げたいと念願して、その理想のもとにできうる限り努力してまいり、各位の一方ならぬ援助により着々進捗してまいったのでありました。しかるに計画なかばにも達せぬうちに不幸戦災に遭遇し、ついに現時の状態に立ち至りましたことは、まことに遺憾千万に存じます。しかのみならず疎開先から帰るべき場所も決まらぬ教室も多い状態でありまして、この点は私がいま本学を去るに臨んで諸君に対してはお気の毒に堪えず、また私自身としてもじつに忍び難いものがあるのであります。しかし、これも『我等の学園』中に述べたように、大学の構成の主要素は結局人にあるのであります。本学は、空襲もっとも甚しく羅災者の多かった名古屋としては不幸中の幸いと申すべきは、諸先生方ならびに学生諸君に一二の例外を除いては犠牲者が極めて少なかったことでありまして、まことに喜ばしい極みであります。よって、将来諸君の力によってこの大学が立派に復興することを確信いたします。

 

このたびの大戦でわが日本は徹底的に敗れました。そして国際平和を理想とする一国として民主主義に改むる義務を負いました。これは諸外国では前世紀において国民の間に流血を見た闘争の結果得たものを、わが国では敗戦の結果、連合軍から与えられたのです。したがって、わが国民はこれがため苦難をなめて得たのでないから、現時形式的には盛んに論議されておりますものの、そう急には到達し得られない。相当長い期間の試錬を経なくては、立派な民主主義国家となることは難しいと思います。

 

大学の自治も同時に盛んに強調されております。これは本邦ではよほど以前からすでにある程度実行せられてきたのでありますが、大戦中軍事上から強い圧迫を受けました。すなわち、勝たんがためにすべてを犠牲にするのやむを得なかったのであります。しかし、いまやその本然の姿を取り戻す、否、もっと進んで学園の自治を確立せねばなりませぬ。元来大学は自然界の真理を闡明し、もって社会を指導する使命を持っております。真理の研究には外部からのいかなる圧迫をも排除して、自由明朗なる境地にあらねばなりませぬ。

 

しかしながら、自治にはここに考えねばならぬ他の一面があります。近来「われは彼なり」なる標語をもって唱えられておりますが、各人が自己の自由を主張すると同時に、これと同様に他人の自由を尊重することであります。各人が自己の意志を主張するにいわゆる矩を踰えないで、社会が全体の調和を保ち渾然一体となることであります。あたかも交響楽を演奏する各員が、その持ち場持ち場で自力を充分発揮しつつも、全体として調和を保つことによって千古不滅のメロディーも生ずると同様であります。私は本学創設にあたり、論語にある「進吾往也」と、聖徳太子の十七条憲法第一条冒頭にある「以和為貴」なる二つの標語を提唱して座右の銘といたしましたが、いま日本が新しく民主主義国家を建設するにあたり大学の自治を確立するためにも、この二つの標語を餞の辞として残しておきたいと思います。すなわち、前者は自主独立を、後者は調和を守る指針となると信じます。

 

次に、一般に大戦争は一面惨憺たる破壊行為をいたしますが、一面には科学技術の飛躍的進歩をいたすものであります。過ぐる第一次世界大戦においては、航空機とラジオの大発展を遂げました。私はこの大戦直後、欧米諸国を視察して、大戦により真空管製作の進歩がラジオ放送を生み出したことを見て次のように申しました。

 

「電波が地球上の一地点からその対側最遠距離に到達する時間は約1/15秒を要します。音波がこの時間内に達する距離は約22メートルに過ぎない。だから電波で世界各国間に話を交換するのは、音波で直径約22メートルの室内で話をすると同様である。すなわち電波は世界人類をあたかも一堂の中に集め、一家庭のごとく談笑せしむることができるから、人類の最高理想たる世界平和を永遠に保持することができる」

 

と期待したのでしたが、今次の大戦が勃発し、電波は重要なる兵器として有力なる役割を占むる皮肉の現象を見たのは遺憾千万であります。

 

第二次世界大戦においても、科学技術は各方面に飛躍的の発展を遂げました。ことに顕著のものは、原子力と極超短電波応用であります。原子力の応用はわが国に悲惨なる災害を蒙らしめたのでありまして、その破壊偉力がいかに大なるかは体験したのでありますが、秘密に保たれ、将来いかに発展するかはわかりませぬが、人類の福祉増進に応用せらるることをひたすら切望いたします。

 

いまや大戦のため、敗戦国はもちろん戦勝国といえども、多くは食糧難、住宅難、インフレ難等にさらされ、国民生活は苦難のドン底に落ちつつあります。しかし私は、若い学生諸君、将来ある諸君はこの苦難を突破して学術の研究心を発憤し、よろしく現代を超越したる理想をもって卓越せる科学技術を起こし、もって東洋に光明ある平和日本の建設に邁進せらるることを切望してやみませぬ。

 

私が本学を去るに臨み、私の心を安んじましたことは、後任として田村〔春吉〕前医学部長〔18831949〕が就任なさることに定まったことであります。同先生は東京大学卒業後ただちに名古屋に来られてすでに30余年本学にあられ、その間つねに当地に綜合大学を設置することを主張され、7年前ついにそのことが実現したのも全く同先生のお力によるものが多大であったのであります。いまや本学は戦災のため建物の大部分を失い、疎開地にあって焼失を免れたる多くの機器も帰るに家なきありさまにあり、教官および学生諸君も住宅難、食糧難に苦しめられつつ教育に勤しんでおられます。かかる際、同先生のごとく豊富なる経験と地方事情に精通せらるる方が本学再建の任にあたられることはじつに理想的であって、本学の将来のためまことに喜ばしく存ずる次第であります。

 

終わりに一言します。私が去るに臨んで愛惜やまぬものは、東山鏡ヶ池畔、恵風亭のありし付近の地区であります。ここは私が風致地区として保存し、できうれば簡素な集会所を造り、他日諸君が学園を去った後、この地を訪れたときはここにお立ち寄りを乞い、長く諸君の憶い出の場所ともなりうるように造り上げたい考えで、戦時中にもかかわらず植樹などほそぼそ着手しおりましたところ、戦災にあい、恵風亭は焼かれ、付近の風致も全く見る影もなく荒廃に帰したことは遺憾至極であります。願わくは新総長および諸君ならびに将来の学生諸君が協力一致して、ぜひ本学の学風を表徴するよう再建せられんことを切望します。

 

二月八日 東山学園に最後の別れを告ぐ。空襲のため校舎はおおむね焼失または破壊せられ、緑の大学を志して植樹せる風致地区も荒涼たる惨状を呈しおるさまを見て低徊去るに忍びず、七年間の努力も水泡に帰したるかと感慨無量。されどまた思えば志を同じうせる教官、学生諸君があまた名古屋に集まり居らるるをもて、必ずや近き将来にうるわしく再建せらるることを信じて惜しき別れを告げつつよめる歌

 

ここにして若き理想に燃ゆる園おほしたてなんこの小松原

 

(渋澤元治『五十年間の回顧』渋沢先生著書出版事業会、1953年。著者は名古屋大学初代総長、電気工学者、18761975

 

 

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