上田貞次郎「二十八年前の福田先生」

お需めに応じて私も何か書きたいと思い立ったが、なにぶん時日が迫っているので念の入ったものはできません。福田〔徳三〕先生〔1874〜1930〕の学生時代から今日までのことを多数の方々が分担してお書きになるとすれば、私の受け持ちうる部分は二十八年前、すなわち明治三十四年、留学からお帰りになった当時のことだと思います。もちろんそのとき私は学生でありましたから、学生としての観察であります。先生はたぶん明治三十四年中に御帰朝になったと思うが、教室に出て講義されたのは三十五年の春でありました。出淵勝次君〔1878〜1947、外交官〕や堀光亀君〔1875〜1940、海運学〕や私などはその年の夏専攻部を卒業したから、先生の講義を聴いたのはわずか数ヶ月に過ぎません。三浦新七君〔1877〜1947、経済史〕はすでに商学士になって学校の講師をしていました。左右田喜一郎君〔1881〜1927、経済哲学〕、坂西由蔵君〔1877〜1942、経済史〕は本科三年にいたでしょう。そのころの東京高商はもちろん日本に唯一の高商であって、在学生の総数が五百人くらい、専攻部は一級十人くらいしかなかった。われわれが福田先生の講義を聴いたのは、大震災に焼けた煉瓦の講堂の裏口にあった小さい室でありました。当時の校長は駒井重格氏〔1853〜1901〕で、専攻部の先生の大部分は外部から頼んで来ていただいたところの講師であった。その中で田尻稲次郎博士〔1850〜1923〕の財政および金融、渡辺廉吉博士〔1854〜1925〕の行政法、齋藤十一郎氏の民法、古賀廉造博士〔1858〜1942〕の刑法、水野繁太郎氏のドイツ語などは今でも思い出すが、これらの先生方はいずれもすでに故人になられました。現に健在なのは松波仁一郎博士〔1868〜1945、海事法学〕くらいのものでしょう。関一博士〔1873〜1935、都市政策〕、佐野善作博士〔1873〜1952、会計学〕も福田先生と前後して帰朝されたけれども、私どもはその講義を聴かなかったのです。

さて福田先生の受け持ちは商業政策であったが、じつはその講義目録をいただいたのみで、商業政策そのものの話はあまり聴かされなかった。その代わり、当時新版のシュモラー〔Gustav von Schmoller, 1838〜1917〕張りの企業発展論を教えていただいた。私どもは前に申す通りわずか三四ヶ月しか聴講しなかったけれども、真実敬服してしまいました。従来英国の古典学派のほかにドイツの歴史学派があるということは聞いていたけれども、真に歴史学派の精神を伝えたところの言説を聞いたことがなかったのです。私自らは先生の帰朝前にミル〔John Stuart Mill, 1806〜1873〕の経済原論を独学して非常な興味を感じていたが、当時わが国で歴史学派をやると称せられたところの某々博士等の説を読んでも一向感心しなかった。歴史学派が果たしてそれらの人の説くくらいのものなら、ミルのほうがよほどよいと思っていた。しかるに一度福田先生の説を聴いてから、少なくとも私自身の思想は大いに動かされてしまいました。これは決して軽率に動いたのではない。経済生活にも進化発展の理があるということをはじめて知ったから、その学説に引きつけられたのです。私は中学時代に動物の進化論を教えられて以来〔正則予備校で博物の猪間収三郎から進化論を学んだ〕、社会の進化ということも考えていたけれども、この理法が経済生活の説明にもなっていることは、じつにはじめて福田先生によって示されたのでありました。これは私一個の経験を申したのですが、当時のわが経済学界の状態から推測すれば、おそらく私以外にも同様の意味で福田先生の新学説に敬服した人が多くあったろうと思います。先生は爾来二十八年間、絶えず西洋の最新学説を取ってわが学界に紹介され偉大な功績をとどめられた方ですが、右の御帰朝当時のことだけでも他に真似のできる人はなかったと考えます。

私は専攻部卒業ののち実業界に入る予定であったが、福田先生から勧められて学校へ残ることに決心しました。それから一年あまり、先生から手を取らぬばかりにして教えていただきました。この間に私は、シュモラー、ビュヘル〔Karl Wilhelm Bucher, 1847〜1930〕を熟読するようになりました。また、そのころ友人の瀧本美夫氏〔財政学〕が帰朝して学校の教授になられたので、時々同氏と福田先生と三人で会談したその間に非常な刺戟を受けました。私は元来学者などになる気は少しもなく、いわんや教師などは馬鹿のする職業だくらいに考えていたので、福田先生から勧められて学校へ残った当座はなかなか一生教師で暮らすつもりはなかったのですが、先生の学を好むこと熱烈であるのに引かされて、自分も多少勉強する気になりました。じつに先生の功績の一半はその天稟の語学の才能を用いてさかんに西洋最新の学説を絶えず紹介されたところにあるが、その他の一半は先生自ら率先して研究に熱中するとともに後進をして同じく研究に熱中せしめたところにあると思います。先生の直門たる左右田〔喜一郎〕、坂西〔由蔵〕、小泉〔信三、1888〜1966〕、大塚〔金之助、1892〜1977〕、井藤〔半彌、1894〜1974〕、中山〔伊知郎、1898〜1980〕の諸君は皆、かくのごとくして先生からインスパイヤされたところの経験をもたれることと推測するのであります。独り門下の方々のみならず、先生の同輩の方々でも同様の刺戟を受けた方が必ず多数にあることを信じます。あるいは先生のために罵倒されたり、嘲笑されたりして不愉快な思いをした人でも、これによって刺戟を受け発奮したというような場合が少なくないことと思います。

遺憾なことに、私は前記のごとく卒業後一年以上非常なお世話になっていながら、ついに先生から破門されたような姿になってしまいました。瀧本美夫君も同様でありました。率直にいえば、私どもにも悪いところはあったろうが、先生にも悪いところがなかったとはいえませぬ。しかしながらそれはそれとして、先生の秀でた学才と飽くことを知らざる旺盛な研究心に対しては、終始一貫私は深き敬意を抱かざるを得なかった。したがっていかなる場合でも、先生をしてこの長所を発揮せしむべく微力を尽くしたつもりであります。先生もまた学問上ではつねに私を鞭撻せられ、時には論争の相手になって下さったこともあります。企業および経営の意義についての論争、株式会社の本質についての論争は今でもよく覚えているが、それ以外にもやったし、また書面で論争したこともありました。先生は申すまでもなく非凡な天才であり、したがってやや偏狭な性格をもっておられましたけれども、学問にはじつに忠実でありました。二度目の外遊中大病にかかられてから精力も著しく衰えたように見えましたけれども、まだまだ一人前以上の仕事をされると思っていました。先生の死はじつにわが学界の損失であり、またわが母校の損失であります。それにつけても先生没後の商大にいる人々、特に先生の後継者たる人々の責任重大なることを痛感せずにはいられません。私はこれらの諸君が今後ますます奮い立って学界における商大の地位を重からしめることを祈ります。

(「如水会報」第79号、1930年6月。上田貞次郎『白雲去来』所収)


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