台湾紀行

 

3月に初めて台湾に行ったときの紀行文です。

その後いろいろと忙しかったので、未完のままになっています。

いつ完成するかわからないので、このまま掲載することにしました。

 

1 到着

1998年(中華民国87年)3月2日、日本アジア航空EG203便で中正国際機場(中正とは蒋介石のこと)に午後1時50分着。成田から4時間弱。飛行機に乗るのは20数年ぶりだが、離陸のとき、3歳のころの感覚を思い出した。

空港の台湾銀行で台湾元に換金する。10万円が2万4640元になるので、つまり1元は約4円である。それから観光局旅客服務中心でホテルを予約する。受付の彭小姐は日本語が少し話せるが、細かいことは筆談である。やはり外国に来てしまったのだと実感する。

台北ゆきのバスに乗る。台北車站(駅)まで約1時間で110元。途中の高速道路を走っている車は、ほとんどトヨタやスズキなどの日本車で、ほんの少しだけフォードも走っている。車窓に映る建物は、うす汚いのが多いように感じられた。

3時30分、台北車站に到着。バスを降りると、まず鼻をつく排気ガスのにおい。工事現場近くの殺風景なところに降ろされたのだ。歩いてホテルへ向かう。とにかく車とバイクが多い。運転も乱暴だ。これは東京以上の混雑ぶりである。

台北車站わきの、信号のない横断歩道を渡れずに立ち往生していると、向こうから車のあいだをぬって、杖をついた老女が渡ってきた。こちらに近づいてきて、「何かお困りですか」とていねいな日本語で話しかけてくる。ちょっと気味の悪いようなお婆さんだが、「台北は車が多いから気をつけて下さい」と言って去っていった。まったく、唖然とさせられる。

気を取りなおして歩きはじめると、歩道はでこぼこで、しかも途中でなくなったりする。工事中のところが多い。鼻をつく排気ガスのにおいに、食堂の店先の美味しそうなにおいやお香のにおいが混ざって、独特のにおいのする街である。

台北の歩道は二重になっていて、車道側に公の歩道があり、その内側に各商店がつくっているアーケード下の歩道がある。このアーケード下の歩道は、店ごとにばらばらで、段差があり、でこぼこで、とても歩きにくい。それなら公の歩道のほうを歩けばよいかと言うとそうではなく、そちらは無数のバイクの駐車場になっていて歩けないのである。

やっとの思いでホテルに到着するころには、とんでもないところに来てしまったかも知れない、と心細くなっていた。日本と似たようなところだという話だったが、少しも似ていない。ホテルは柯達大飯店(ホテル・コダック。アメリカのフィルム会社とは何の関係もなさそうだ)で、中山北路二段(中山とは孫文のこと)という、林成蔚さんの話では台北の銀座のような通りの裏にある。日本人客が多いらしく、フロントでは日本語が通じる。一泊1910元は安くないが、部屋は広くてきれいだ。

4時を過ぎていたが、散歩に出る。小雨が降って、肌寒い。林森北路という、台北の六本木を北上する。露店の食堂や、檳榔(びんろう、チューインガムのような嗜好品)の売店がたくさんあり、なぜか宝石店も多い。それから、硯や印章を売る店も多い。吉野家、セブンイレブンも何軒かあり、日本食のレストランも目につく。三街区くらい行って、中山北路を南下する。道行く人の服装はきれいだが、歩道はあいかわらず歩きにくい。

途中、敦煌書局と永漢国際書局という二軒の書店に入る。永漢書局はお金もうけの本で有名な邱永漢氏の店。日本に帰ってから、邱永漢著の『濁水渓』(中公文庫)という自伝小説を読んで、そういう来歴の人かと納得した。日本の植民地支配とその後の国民党の暴政に抵抗して故郷を去った人が、今は台北の書店のオーナーになっている。永漢書局にあるのは大部分が日本語の本で、岩波新書や講談社新書の古本も売っている。それから政治の本。台北の書店には、李登輝とか蕭萬長とか連戦とか陳水扁とかの、政治家個人についての本が実に多い。永漢書局には日本の故・渡辺美智雄の本まであった。ついでに書くと、新聞紙面も彼らの動静についての記事が大部分を占めている。

ホテル近くのモスバーガー(摩斯漢堡)で腹ごしらえ。フィッシュバーガーとコーンスープで92元、値段も味も日本と変わらない。

 

2 張さん

7時に、ロッテリア(儂特利)で張さんに会う。張さんは、基隆出身で29歳。国立台湾大学で経済を専攻した後、駒場の国際関係論に留学した人で、現在は日本の銀行の台北支店に勤務している。大変聡明で、育ちのよい感じの人だ。駒場の林さんに紹介してもらった。

天厨菜館(銀座に支店があるとのこと)という北京料理の店に連れていってもらったが、途中、南京東路という大通りの、横断歩道のないところを平気で横断した。台北っ子はわざわざ横断歩道や地下道を使うのが面倒で、多少危険でも渡ってしまうのだそうだ。せっかく台北に来たのだから、台北ライフを体験しなければ、と言う。そんなことで交通事故が頻発しないかと心配になるが、台北っ子はドッジボールがうまいから大丈夫(?)という話だった。

張さんは、日本に留学する前に、民進党議員の秘書をしていたことがあるそうで、こちらが台湾の政治や社会保障制度に興味があると言うと、いろいろ面白い話を聞かせてくれた。秘書は、行政院の政策に対する議員の質問をつくるのだそうで、やりがいがありそうだが、政治の汚い部分も見せられて嫌気がさして辞めたという。

社会保障については、今までは家族が老人の面倒をみるのがあたりまえだったが、台湾でもそのような考え方は急速に変わってきているという。8年前に、保守派の赫(この字ではなく赤へんにおおざと)柏村行政院長(当時)が三世同堂を国民に説いたが、国民の笑いものになったそうだ。台湾版「日本型福祉社会論」は、すでに8年前には時代遅れになっていたのだ。

最近の台湾女性は、結婚の条件として、まず両親との別居をあげるという。しかし、張さん自身は保守的な家族観の持ち主だと言い、現在婚約中だが、結婚したら両親と同居するつもりだそうだ。最近のニュースで、娘がアメリカに行っているうちに母親が亡くなり、死後3か月経ってようやく発見されたという話があるらしい。これなどは「家族の危機」を強調するたぐいの話だが、それが話題になるのは、家族の変化がごく新しい現象だからだろう。

最近の台湾では、福祉の充実が国民統合の焦点になっている。東京・白金台の台北駐日経済文化代表處でもらった『中華民国台湾早分かり』(1995)という小冊子には、「現代文明国家で、福祉国家と福祉社会の建設を目指さない国家は一つもありません」と、いくぶん誇らしげに国家目標を掲げていた。

福祉の充実をめぐって、選挙のたびに国民党と民進党が公約合戦をくりひろげている。林成蔚さんのお祖母さんが住んでいる嘉義県では、選挙公約で老人手当がもらえるようになったが、選挙の数か月後には早くも廃止された、という話だった。いい加減なものだ。張さんは、公約合戦は財政的にも問題があり、良くないという。張さんが秘書をつとめた民進党議員は、その後、無所属で南投県(台湾で最も貧しい地域とのこと)知事に立候補し、当選したそうだ。国民党と民進党の候補が福祉の公約合戦をしたのに、この候補は福祉公約をしなかったので、逆に人気が上昇したのだ。

労働組合について聞くと、台湾の労働組合は現在にいたるまで弱体だという。数年前に、総工会(ナショナルセンター)の会長がポストを下りた後、行政院労工委員会の委員長になったそうだ。日本でいえば、連合会長のあがりポストが労働大臣ということで、要するにどちらも国民党の指定席なのだ。こういうことに関しては、台湾は、コーポラティズムどころか、全体主義国家の残滓を引きずっているとさえ言えるかも知れない。台湾の公務員の大半は、現在でも国民党員だそうだ。

張さんは、駒場では岩田教授について、台湾経済論と国際経済の難しい数理モデルで2本も修士論文を書いたそうだ。台湾の労働事情にかんする論文が「京都大学経済学部紀要」と「アジア経済」に載っていたはず、と教えてくれた。現在も駒場の博士課程に籍を置いており、休学中ということになっているという。張さんの勤務先の銀行は、台湾大学と東京大学で学んだ若き秀才を、あまり厚遇していないようだ。現地採用社員と日本人社員との間には歴然とした待遇格差があり、学歴は通用しないのだそうだ。気の毒なことだ。

ともあれ、料理も美味しく、話も面白かったので、台湾初日の心細い印象は吹き飛んだ。すっかり張さんに御馳走になってしまった。張さんがこんど東京に来た折には、ぜひ御馳走しなければ。

 

3 正中書局と市内観光

3月3日、曇。9時起床。朝食は宿の食堂にて、おかゆと肉や野菜。11時、ホテルを出て衡陽街へ。タクシーで60元。正中書局(衡陽街20号)という本屋の3階に「中華民国政府出版物展示販売センター」がある。政府の各部署ごとに出版資料が展示されているが、社会保障関連のものは少ない。面白いのは、政府が歴史や文化についての本をたくさん出版していることだ。チベットや内モンゴル(いまだに中華民国の領土なのだ!)の文化についての本などもあるが、台湾の郷土史の本も多い。また、空中大学(放送大学)のテキストも売っていた。店員には英語が通じないので、ひと苦労。以下の買い物をした。しめて1600元。

Statistical Yearbook of the Republic of China 1997』(1997)。台湾の社会経済にかんする最も基本的な統計集。昨年、修士論文執筆のため、アジア経済研究所6階の統計調査部で幾度となく閲覧したが、アジ研ではコピーするのに1枚50円かかった。台湾では1冊(280ページ)まるごと350元で買えるのに。稲上先生へのお土産に、一冊よぶんに買う。

『中華民国台湾地区社会指標統計 民国八十五年』(1997)。人口、家族、雇用、教育、医療、運輸通信、環境、安全、社会福祉、文化、余暇、社会参加などの、社会指標の統計集。この本のデータをもとに、台湾の人口1万人あたりの年間交通事故死亡者数を計算してみると、1.4人(1996年)である。日本は0.9人(1991年、総務庁統計局編『世界の統計 1994』による)だから、いくら台北っ子の運動神経が良くても、やはり道路は横断歩道を渡るべきなのだ。参考までに、韓国は2.7人、香港は0.5人、シンガポールは0.9人。ただし、アメリカが1.8人、フランスが1.7人、イギリスは0.9人だから、先進国ほど事故が少ないというわけでもないらしい。台湾の交通事故死亡者数のピークは1987年(4373人)で、以後しだいに減少し、1996年には2990人となっている。一方、日本におけるピークは1970年で、16765人である。1993年には10942人となっている(警察庁資料。東京都立大学の小山雄一郎さんの報告より引用)。ここでも日本と台湾とでは、約20年の位相差がある。

他に『中華民国八十五年老人状況調査報告』(1997)と『中華民国八十四年台湾地区工会概況調査報告』(1996)を買った。買い込んだ統計集を入れてもらった手さげ袋には、「民所欲知、全心服務」と書いてあった。現在、政府は情報公開に力を入れているのだ。再びタクシーでホテルに戻る。

 

4 中村公一氏(未完)

5 故宮博物院(未完)

 

6 誠品書店と新光摩天楼

台北車站近くの大亜百貨店のなかに、誠品書店という新しい、大きな書店があって、専門書も分野別に豊富に揃えてあった。ここで5冊も本を買った。

林萬億著『福利国家−歴史比較的分析』(1994)。著者は台湾大学社会学研究所の主任教授。福祉国家の発展に関する理論について概説したのち、台湾とアメリカ、スウェーデンの経験を比較している。最近の文献までよくサーヴェイされていて驚くが、著者はカリフォルニア大学バークレイ校に留学し、アメリカの学界と直接につながっているのだから少しも不思議ではない。ちなみにエスピン-アンデルセンは、漢字では艾斯平-安コ森と書く。アメリカやスウェーデンと比較するより、韓国や日本と比較したほうが面白そうなものだが。

林萬億編『台湾的社会福利−民間観点』(1995)。社会福祉に関する論文集。国民党の社会福祉観、社会福祉か国家福祉か、経済発展と社会福祉、宗教と社会福祉、社会福祉支出の分析、軍人・公務員・教員に対する福祉、福祉の民営化、などについて。理論は翻訳過多みたいだが、台湾の現実についても分析している。

王振寰著『資本・労工・與国家機器−台湾的政治與社会転型』(1993)。著者は台湾の「東海大学」(日本の東海大学とは無関係)の社会学の先生。1980年代の台湾の民主化にともなう国家コーポラティズムの変容について論じているらしいが、中国語が読めないから論旨はつかめない。国民党によるメディア統制の問題や、自主工会(労働組合)運動についても論じている。

李允傑著『台湾工会政策的政治経済分析』(1992)。著者は台湾大学の政治学の先生。大陸時代から1980年代までの国民党政府と労働組合との関係を政治経済学的に分析した本。王振寰の本とあわせて読めば、台湾の国家コーポラティズムの歴史に見通しをつけることができるかも知れない。

蕭新煌編『変遷中台湾社会的中産階級』(1989)。編者は台湾大学社会学研究所の先生。執筆陣には、台湾を代表する政治学者、経済学者、社会学者が名を連ねている。よく読めないが、ちょっと考えただけでも、台湾の「中産階級」は日本やほかの先進諸国のそれとはずいぶん違ったものではないか、という気がする。

 

7 龍山寺(未完)

 

8 台湾大学と三民書局

国立台湾大学の正門前でタクシーを降りる。100元。正門には青天白日旗が高々と掲げられている。構内はじつに広い。古い建物は一橋大学の兼松講堂によく似ている。台北帝国大学の名残りなのだろう。広い道の両側に椰子の木の並木がつづく。もうつつじが満開である。南国なのだと感じる。

社会学科を探して歩く。「文学院」にも「哲学研究所」にも、それらしい学科はない。「哲学研究所」の書籍展示会を観るが、あまり面白そうな本はない。「文学院」は美しい西洋建築で、中庭があり、まるでオックスフォードかどこかみたいだ。ここにも文学や歴史の学科しかないようだ。中庭ではカップルがお昼を食べており、空き教室では別のカップルが、フランス映画かなにかに出てきそうな熱烈なキスの最中だった。まったくのんびりと開放的だ。

しばらく歩くと「学生活動センター」があった。その壁面には「敦品勵學愛國愛人」という言葉が掲げられていた。校訓なのだそうだ。オーケストラのパート練習が聞こえてくる。合唱の練習はやっていなかったが、女子学生がきれいな声で歌いながら出てきた。合唱団員にちがいないと思った。「台大合唱団・加招」というポスターは、たくさん貼ってあった。生協の書籍部は貧弱で、社会学の本はほとんどない。社会科学の学部はどこか別のキャンパスにあるのだろうか。

再び哲学研究所の前まで戻り、ちょうど自転車でやってきた女子学生に聞いてみた。「請問、Where is the department of sociology?」。すると、数分待っていてくれたら案内すると言って、哲学研究所に入っていった。友達に聞いてくれたらしく、再び出てきて案内してくれた。楊さんという、美しい人だ。哲学研究所の前で会ったので哲学専攻かと思ったら、電子工学専攻の一年生だそうだ。社会学研究所はキャンパスのはずれにあり、ずいぶん遠くまで歩く。

途中、いろいろな話をする。英語の発音は、日本の普通の学生よりもずっときれいだと思うが、考えながら話すので、スピードはこちらの聞き取りレヴェルに合っている。漢字が読めるとわかって、感心される。台湾大学は東京大学と比べてどうかと聞かれる。台湾大学のほうがずっと広くてきれいだ、と答えると、台湾にはこの大学よりも広くてきれいな大学がたくさんあると言う。ほんとうだろうか。また、まちなかとは正反対に、大学構内にはバイクが一台もなく、自転車ばかりであるのはなぜか、と聞くと、バイクは規則で禁止されているのだそうだ。社会学研究所の前で、メールアドレスを交換して別れる。楊さんは、後日メールをくれた。ダンスと歌と読書が好きだという。

台湾大学法学院社会学系曁研究所に潜入する。4階建ての新しい立派な建物で、ここにも中庭がある。入口の掲示板によると、社会階層、都市與人口、文化與理論、発展社会学、組織社会学、社会福利政策、社会工作直接服務、社会行政管理、などの研究室があり、24人も専任教官がいる。教室をのぞくと、女性の教授が講義をしていた。黒板の文字からすると、女子労働と家族にかんする講義のようだった。みんな真面目に聴いているので、入っていく勇気はちょっと起こらない。

社会政策関連の研究室があるという4階に上ってみた。そこで、ひげの立派な先生に呼びとめられる。孫中興教授という知識社会学の先生。『愛・秩序・進歩−社会学之父:孔徳』という著書がある、台湾の清水幾太郎だ。自己紹介すると、主任教授の林萬億博士の話になり、林教授の著書を買ったと言ったら、それはよろしい、と言われた。林教授は、とても尊敬されているらしい。主任教授の研究テーマが「家庭政策」と「福利国家的歴史與発展」というのは驚きだが、台湾の福祉ブームを考えれば、ありうる話だ。

後日、台湾大学のホームページで調べたところ、他の教授陣の専門も、中産階級論とか、工業社会学とか、社区工作(地域福祉?)とか、労資関係とかの、実学的傾向のものが多い。孫教授はむしろ例外のようだ。孫教授によると、教授たちはほとんどアメリカ留学組なので、英語でメールをくれれば返事ができるとのことだった。日本とのつながりは、ほとんどないとのことだった。日本人女性の大学院生がいるから紹介すると言われたが、あいにく不在だった。その人も留学生というわけではなく、台湾人と結婚して台北に来たのだそうだ。教授たちの著書はどこで手に入るか、と聞くと、三民書局という本屋を紹介してくれた。名刺を交換し、修論のレジュメを進呈して別れる。日本語の読める学生に見せるという。

台湾大学を出て、タクシーで重慶南路の三民書局へ。120元。途中の街路は、道も建物もきれいだった。台北も東や南の郊外のほうはきれいなのだ。中産階級的台北である。

三民書局は、誠品書店に比べると旧式な本屋だが、専門書は豊富に揃っている。ただし、買うべき本はもうほとんど誠品書店で買ってしまっていたことが判明した。ここでは、行政院主計処編『工商及服務業普査初歩報告』(1997)のCD-ROM版と、『呂泉生歌曲集−最新創作與合唱』(1992)を買う。呂泉生は、歌曲集の序文によると、戦前の日本で作曲を学び、1943年に帰台、以後、台湾民族音楽の研究、創作活動、および音楽教育に功績のあった人らしい。台湾のコダーイかと期待したが、後日、ピアノで弾いてみたところ、台湾の平井康三郎といったところだ。中国ふうの和音も使ってあるが、結局エテュードふうであり、面白くない。むしろ歌詩が興味ふかく、「思い出は尽きせぬものぞ心なき幼きころは楽しかりけれ/無意想幼時、幼時値懐思、父母在身辺、快楽的童年」という日本語の歌もある。

社会学の棚で、林教授の『福利国家』と、アーサー・グールドの『福祉国家はどこへいくのか』(もちろん中国語版)を手にとっていた小姐に話しかけてみる。彼女はまさに台湾大学の社会学の学生で、林教授の講義を聴き、これから福祉国家の研究を始めるところなのだそうだ。彼女も、林教授はとても有名な人だと言う。修論のレジュメと名刺を進呈すると、大喜びしてくれた。こちらも嬉しい。日本語の読める友人と一緒に読んで、メールで感想を送ってくれると言っていたが、まだメールは来ない。日本語ができなくて申し訳ない、と言う。こちらも中国語ができないのに。台北は車と人が多く、公害がひどく、人情も冷たい、と言う。東京に比べれば、人情は温かいと思うが。また、台北には遊びに行くところが少ないので、みんな家にいることが多いのだそうだ。行楽地は陽明山くらいのもので、地元の人は故宮博物院などには行かないとのこと。これから花蓮に行くと言うと、花蓮はまだ公害もなく、人々も親切だ、とのことだった。彼女の名前は聞きそびれてしまった。

新光三越デパートの地下で食事をしてから、台北車站で午後5時発の自強号に乗りこむ。自強号は台湾で一番速い特急だが、昔の中央線のしなの号みたいな乗り心地だ。

 

9 花蓮と太魯閣(未完)

10 帰途(未完)

 

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