上田貞次郎「修学の方針」

 

 

予科学生夢野氏なる者あり。一日余を訪うて修学の方針を聴かんと請う。余、欣然としてこれを迎え、対談数時にわたる。いま当時の言を補綴し、その要点を録して諸君に示す。もしこれによりて多少の印象を諸君に与え、その一部たりとも実地に行わるることあらば余の大いに喜ぶところなり。

会見の時、余まず問うていわく、君、新聞を読むか。答えていわく、否、生の中学にありし時、校長は中学生の心を学校の教課に専らならしめんことを望み、われらの新聞雑誌を読むを好まず、よって習慣性となり、時事を論ずることなし。余いわく、これはなはだ不可なり、中学生はともかくとして、高等専門の学校に在るものは必ず時代の大勢に注目し、時代の思想に接触せざるべからず。特に商業学生は政治、外交、経済、財政、技術、労働の諸方面にわたりてつねに実際問題の意義および由来を研究し、学校の教課と連絡を通ぜしめるを要す。学校の教課はかくのごとくして初めて君の胸裏に深刻なる印象を与え、試験一過してノートの全篇を忘尽するの奇跡を避くべきなり。むかし太宰春台壮なりしとき荻生徂徠を訪うて師事せんことを請いしに、徂徠問うに米の時価幾許なるをもってせり。しかるに春台、経史を学ぶに専らにして時事に疎かりしかば、一言の出ずるところを知らずして呆然たり。ここにおいて徂徠一喝して去らしめ、その後、学問の方針を改め来たるに至りて初めて容れて弟子となせりと云う。これ豈に現時の青年のよろしく三思すべきところならずや。

夢野生いわく、先生の意を了せり、しかもわれらの習慣はその原因遠きにあり。今にわかに新聞を読むもその記事について趣味を生ぜざるを如何せん。答えていわく、趣味なくして読むも効なし。よろしくその趣味を養うべし。君すでに中学において歴史と地理とを学べり。机上に日本地図および世界地図ならびに内外歴史年表を備え、年表中、近年に属する事件の録せられざるものはこれを補いて今年に至らしめ、かくしてまず時代の大勢を総観し、しかる後、毎年毎月毎日の出来事に及ばば、すでに得たる歴史地理の知識と日々の事件と連絡せしむるを得べし。これ趣味を養うの途なり。かくしてなお解釈に苦しむことあらば、毎週来たりて余に問うもまた可ならずや。

余また問う。君、英文の戯曲小説を読みたることありや。答えていわく、否。しからば君は学校所定の教科書のほか、英文を読みたることなしというか。いわく、しかり、われら中学卒業の学力をもって外国の歴史伝記戯曲小説等を読むことはおそらく至難ならん。新聞雑誌といえども容易ならず。さればとて平々凡々たる教科書類を読むの趣味索然たるは明らかなり。余いわく、君のいうところ、中学時代にありては当たれるものあらん。しかれども今後はしかるべからず。君らの語学を学ぶは語学試験に及第せんがためにあらず、これによりて新事実を知り、新思想を学ばんがためなり。ゆえに学校教科書を学ぶをもって満足すべからず。これを利用して修養に資すべし。後年学力の進みたる時にこれをなさんというなかれ、いま直ちに始めよ。君すでに五ヶ年間英語を学び、困難なる高商入学試験にも合格したれば、平易なる記事論文の読めぬはずなし。能わざるにあらず、なさざるなり。いまこれを始むるはいわゆる読書力を養う所以なり。読書力を養わずして後年書を読まんとするも、おそらくは不能ならん。余の友某氏は勅任官吏なり。彼、大学にあるの日、学理を考うるにつとめたれども外国文の書物を読まざりき。近時に至り、しきりに新事実、新思想を知らんとするも、自ら読む力なきをもって後進大学生に読ましめてその訳をきかんとす。しかも大学生また多くは外国文を読む力乏し。転じて外国語学生に依頼するも、彼らは学理の素養足らざるがゆえに往々誤訳に陥るの弊あり。よってわずかに高商専攻部の学生によりてようやく読書の目的を達しつつあり。その不便なること想うべし。されば君らは決してこの先輩の轍をふむべからず。近時の書生、あるいは語学を軽んじて専門学を重んずるの傾きあるがごときも、彼らが学校にて学び得べき専門学の程度はすこぶる制限されたるものなり。これに反して、語学上真に深き修養ありて読書力の勝れるものは、学校を去りて後に至るまで永久に新知識を吸収するを得べし。読書力は無限の知識を開き得べき鍵なり。在学四年ないし六年、幾千頁のノートを暗誦しかつ忘却するも、この鍵を握る能わずんば畢竟何の効かあらん。君、これより家に帰るの途、直ちに丸善に立ち寄り白銀一片を投じて、Home University Seriesのうち好むところの一巻を求めて可なり。

余また問う。君が体力を養うの法如何。答えていわく、中学にてはいささか柔道を学べり。短艇、庭球、野球のごときは弊害ありとて学校より差し止められたり。余いわく、外国風の競技とて決してつねに弊害をともなうにあらず、現に一橋の短艇のごときは、最も堅実なる人格修養の具となれり。しかし余はいま、競技の種類の何たるを問わんとするにあらず。ともかくそのいずれか一を撰んでつねにこれを習うべし。競技をなす能わざる日は散歩すべし。休暇に際しては族行すべし。四年間各四回の夏休み、春休み、冬休みあり。その半ばを利用するをもって全国を周遊するに足らん。かくして体力を練らば、こいねがわくは二十世紀の最大流行病たる神経衰弱を免るるを得ん。学業優等、品行方正、しかして神経衰弱なる者は、我輩のはなはだ感服せざる人種なり。

説いてここに至る、夢野生反問していわく、先生の言、一々わが肺腑をつけり。しかれども学校の学課もなかなかに軽からず。日々のノートを整理するさえ容易ならず。良好の成績を得んとせば、新聞を研究し、外国文の書を読み、運動を怠らざるがごとき、それほど多くの余暇を得ること不可能ならんをおそれざる能わず。答えていわく、近年、学業成績の点数表によって学生の能力を判断し、実業界のごときもその標準に基づいて人を採らんとするは余の服せざるところなり。しかれども、世俗の意を迎えんがために、ことさらに自分の必要と信ずる以上の精力を学課のために費やすは不可なり。学生はその真の学力を進むるに必要なる努力をなせば可なり。年齢わずかに二十にして早くも出世の道を講じて自然の発展を矯めんと試むるごときケチな根性にては、とうてい大器晩成を期すべからず。余は以上の三事をもって、ただ学課の余暇になせば可なるものとするのみならず、少なくとも学課と同様の重みをもってこれに対すべきものたるを信ずるなり。君もって如何となす。

夢野生は唯々として去れり。余は例のごとく漂然として散歩に出でたり。

 

(「一橋会雑誌」191212月。上田貞次郎『白雲去来』所収)

 

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