上田貞次郎「士族の思い出」

 

 

明治維新の革命は武士の支配をやめて四民平等の制度を立てたけれども、その原動力は百姓町人の側にあったのでなくして、武士の一部にあったことは申すまでもない。したがって維新後になっても、軍人や官吏はもちろんのこと、在野の政治家、学者、さては実業家のおもなるものが、士族のうちから出てきた。明治十二、三年ごろ、志士論客が憲法の私案を作ったときに、士族に対して特別の選挙権を与えるがよいとしたのも少なくなかった。しかるに、それからわずか二、三十年の間に、士族というものは全く戸籍面だけの名称になってしまって、数年前に代議士の誰彼が士族の称号廃止説を持ち出したときに、賛成または反対したのは極めて少数の田舎の人々に限っていたような状態である。士族消滅の歴史は社会上の階級の興亡を考うるについて絶好の資料であろうと思う。

私の家は祖父の代まで町人であったが、父〔上田章、18331881〕が漢学をやったために、どうしたものか士族に引き上げられた。而して私も明治十二年に東京山の手の或る大名華族〔紀州徳川家〕の屋敷内で生まれ、そこで成長したから多少士族の思い出をもっている。私は今ここに年長者じみた昔語りをするのではない。自分のような若輩でさえも、今とは非常に異なった世相の経験をしてきたことを回想して驚くのである。

私の幼少のころの山の手は地方から出てきた役人などの植民地であって、この人々は概して高台に屋敷をもち、買い物をするときは坂下の商店町へ行くのであった。学校へ行っても、屋敷の子は上品で町っ子は下品であるように感じた。ある時、屋敷の子と町っ子とおのおの数十人の隊をなして坂の上と下とで対陣し、大喧嘩をやろうとしたことなどもあった。今の言葉でいえば一種の階級闘争だろう。私が中学へ入ってからでも、士族の家庭はまだなかなか家柄の誇りをもっていたので、ある生徒が「おれは武士の子だ」といって威張ったが、しかしその時には皆の者が大笑いをして、爾来この子の綽名を「武士」ときめてしまった。

私よりも十幾歳年長の人にはもっと面白い話がある。現に立派な貿易商になっている某氏は、父が時勢を察していたお蔭で、築地の商法講習所、すなわち今の商科大学〔現・一橋大学〕の前身たる小さな学校へ入学したが、当時、学校の規則で縞の着物に前垂れをかけさせられた。そうすると母なる人が涙を流して、この子は何の因果でこんななりをしなければならないのかと泣きくどいた。それで子供は、毎朝家を出るときは袴をはいて行って、学校の門前で前垂れにつけかえたという。これは当人の直話である。

どうして士族が消滅したかといえば、むろん彼らが禄の代わりに政府からもらったところの公債を元手に商売をやろうとしたからだ。もしあの時、公債の代わりに田地をもらっていたら、いま少し士族の伝統が長続きしたかもしれない。ただし、その公債の金高がいたって僅少なものであるのみならず、すでに都会人となってしまったところの士族が自ら鋤鍬を取ることはできなかったろう。ともかく、いわゆる「士族の商法」は明治十年代の大流行であった。それに失敗したものは諸官省の門衛などになって、昔の忘れぬ威厳を維持せんとしたらしい。私の記憶しているのはこの士族の商法がすでに落語家の話題になった時代のことだが、それでも、伯父〔松尾三代太郎、18471912。竹橋事件で陸軍大尉を免官となる〕が共立商社とかいうものを設立するについて家の道具類を売るといったようなことを、ほのかに覚えている。その共立商社というのは、どうも今の消費組合〔生活協同組合〕のことであったらしく、伯父はその案を慶應義塾の友人〔おそらく森下岩楠、18521917〕から聞いてきたものと思う。

私の国では、維新後に旧藩主〔徳川茂承〕が数十町の田地を寄付して士族の社〔徳義社〕を作らしめ、青年に学資を与え鰥寡孤独を救恤することとしたが、追々、士族と士族でないものとの区別がつきにくくなり、また、士族でない者がこの社員の株を安く買って子供の学資を請求するなどの弊害を生じたために、数年前解散してその金を高等学校新設費のなかへ寄付してしまった。おそらくこのあたりが士族史の最後のページであろう。

 

(「文藝春秋」192611月号。上田貞次郎『白雲去来』所収)

 

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