上村泰裕「石井隆庵伝」

 

石井隆庵の名は今日ほとんど忘れ去られているが、幕末名古屋の爛熟した知的ネットワークの中心人物の一人であり、それを近代につなぐ役割を果たした。文化八年、医師・山田梁山の四男として名古屋に生まれた。梁山の妹には藩医・柴田龍溪の妻・里登がおり、弟には国語学者であり全国に先駆けて藩校で国学を講じた鈴木朖がいた。彼らは隆庵にとって叔母であり叔父であった。隆庵は、幼時から父および兄・貞石に従って医を学んだ。兄・山田貞石は小野蘭山に学んだ本草学者であった。隆庵は長じて浅井貞庵・紫山父子の教えも受けた。浅井家は尾張藩医の筆頭であり、その家塾・静観堂講舎(後の尾張医学館)では柴田承慶(龍溪の孫)と大河内存真が学頭を務めていた。浅井貞庵は、漢方のなかでも古方を排し後世方を重視する立場であり、蘭学にも理解があった。長崎の蘭学者・吉雄常庵を招聘して藩医に登用させたのも貞庵であった。隆庵は吉雄の教えも受けている。

 

十九歳のとき藩医・石井恕庵の養子となった。天保二年、養家を継いで寄合医師となり、五年、奥医師格となって前藩主・徳川斉朝の侍医に抜擢された。時に二十四歳であった。天保八年、維学心院付の侍医となり、十年にわたって京都に住んだ。維学心院と言うのは、先々代藩主・徳川宗睦の養女で左大臣・近衛基前の正室となった琴姫の、左大臣没後の呼び名である。在京中の隆庵は、日野鼎哉から西洋医学を学んでいる。鼎哉は、シーボルトおよび小石元瑞のもとで研鑽した蘭方外科医であった。一方、隆庵は詩文を貫名海屋に学び、京都の文人サロンにも出入りした。海屋は詩書画に巧みで、とりわけ書において市河米庵、巻菱湖とともに幕末の三筆と評された人物である。

 

在京十年の後、奥医師に昇進して名古屋に帰り、藩主の侍医となった。日野鼎哉が九州以外で初めて種痘を行なった嘉永二年には隆庵はすでに京都を去っていたが、その知らせはすぐに名古屋にも届いたと思われる。隆庵らはさっそく種痘法の実施許可を願い出たが、そこで漢方医の反撃を受けることになる。なかでも旧師・浅井紫山は、牛痘を人に接種するのは人を獣とするに等しい所業であると難詰し、隆庵を国賊と罵って殴打したという。しかし隆庵は屈することなく種痘を続けた。嘉永五年、ついに藩立の種痘所が設置され、隆庵は大河内存真・伊藤圭介兄弟とともにその取締に任じられた。それは、英国のエドワード・ジェンナーが種痘法を確立してから五十六年後のことだったが、明治維新には十六年も先立っていた。

 

慶応三年から明治三年まで、藩命により藩内の町医者を監督する。明治三年、伊藤圭介、中島三伯とともに藩立洋医学校の設立を藩庁に建議したが、それは翌年、仮病院・仮学校の設立となって結実した。これが名古屋大学の創基とされている(筆者はむしろ、藩校明倫堂が開学した天明三年や、尾張医学館が発足した天保二年のほうが重要だと思うが)。隆庵は維新後も徳川家の侍医として暮らし、明治十七年三月四日、七十四歳で没した。嗣子・石井梧岡は愛知医学校の教官を務める傍ら、森春濤に学んだ漢詩人として知られた。

 

 

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