上田貞次郎「金井延先生と社会政策学会」

金井延先生(18651933)に私が面識を得たのは明治四十二年海外留学から帰った時のことで、当時先生は社会政策学会の中心人物として会員多数の尊敬の的となっておられた。同会の実際の仕事は故・桑田熊蔵博士(18681932)、故・矢作栄蔵博士(18701933)、故・福田徳三博士(18741930)、それから山崎覚次郎博士(18681945)、高野岩三郎博士(18711949)らがやっておられたが、これらの諸博士は金井先生よりずっと後輩であったから、学会を代表するような役目はいつも先生が引き受けておられた。しかして先生の高潔な開放的な人格が学会の俊豪を指導するに最も適していたようであった。社会政策学会は毎年十二月に諸学校の授業が終わったころ総会を開く例であったが、その時は東京の官私立諸大学はもとより全国各地の大学その他の経済学、政治学、法律学の教授らが数十人会合して時の問題を討論し、また公開講演を催して啓蒙的の働きをなした。それでこの会合はわが国で社会政策という思想の普及するに大功績を留めたのであるが、この本来の目的以外に、従来別々に孤立していた諸学校の学者たちに相識る機会を与え、学問研究の刺激を与える点においてすこぶる効果があったのである。総会において開会の辞を述べるのはいつも金井先生であって、懇談会の座談の中心になるのも先生であった。それから同会は毎月例会を開くことになっていたので、その時は東京の諸大学の人々が集まったが、あのころ同学の士は至って少数であったから、私どものような若輩でもストーブを囲んで先生と会談する機会が多く、教えを受けることができた。それゆえ、先生の小柄な顔や歯切れのよい言葉が自分に親しみあるものとして今日も私の記憶に残っている。

かくのごとく金井先生は私にとっては学校を卒業して外国へ留学してから後の先生であったが、私の母校たる東京商大すなわち当時の高等商業学校と先生との関係は私の在学した以前にできていた。現在商大に保存されてある旧教員の履歴書の綴込の中には次のような簡単な履歴書があって、それは恐らく先生の自筆のものだろうと思う。

静岡県平民 金井延

慶応元年二月一日遠江国豊田郡三川村において生まる

明治十四年七月   旧東京大学文学部に入り政治経済学修業
同 十八年七月   同卒業、文学士の称号を受く
同 十九年七月   独逸国へ留学
同 二十三年八月  英国へ転学
同 二十三年十一月 帰朝
同    年同月  法科大学教授に任ぜらる

この履歴では先生が高商の講師を勤められた年月はわからないけれども、佐野善作前々学長(18731952)に伺ったところでは、それは明治二十五年ごろ、すなわち先生の御帰朝直後のことで、佐野博士はその講義をきかなかったが、故・関一博士(18731935、高商の教授となり後に大阪市長として令名を馳せた)は確かに金井先生の経済原論の教えを受けたし、また福田徳三博士もたぶん先生の弟子であったろうとのことである。今日、関、福田両氏が存命であったら先生についての面白い追憶が聞かれうることと思うが、惜しいことに両氏とも物故されたのである。福田博士は後に立派な学者になられてからも先生の知遇を受くること深くして、家庭の問題にまで先生のお世話になられたように聞いている。社会政策学会なども津村秀松博士(18761939)や故・瀧本美夫氏(18761918)、さらに下って私(18791940)などが先生に親しくなったのも、先生と高商との古い関係がいくぶん助けたかもしれない。先生は今日まで生存されたとしてもまだ七十歳を超えたばかりの御年輩であるのに、比較的早逝されたのは惜しいことである。

(原題「東京商大と金井先生」。河合栄治郎編『金井延の生涯と学績』日本評論社、1939年、所収)


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