上田貞次郎「百年後の日本――平均年齢百二十五歳」

 

 

産婦はみな国家の保護により充分の手当を受くるにより、生まれた子どもは健康にて幼児死亡率ゼロに近く、義務教育は幼稚園より始めて十六歳まで継続せらる。しかして優秀の者は、男女とも国家の費用にて中学大学に入り、卒業の後、社会の指導者となる。優秀ならざる者も、二十歳まで補習教育を受け、完全なる市民となる。労働時間は四時間に止まり、その余の暇は文学芸術運動遊技に費やさる。男女普通選挙は言うに及ばず、産業もみな国有公有となり、従業者の自治によりて経営せらる。衛生の進歩により伝染病は絶無となり、人々みな健康長寿にして、平均年齢は百二十五歳に上る。

 

(原題「平均年齢百二十五歳」。『百年後の日本』〔『日本及日本人』春季臨時増刊号〕政教社、1920年、所収)。

 

 

 

 

増田四郎「上田先生と実学の尊さ」

 

 

上田貞次郎先生に対する尊敬の念は、年をとるに従って増大するばかりである。それは恐らくあの学風のせいであり、学問に裏うちされた識見のせいであり、学生を愛されたお人柄のせいであろう。

 

私たちが学生の頃、先生はいくつかの講義を担当されていたが、ある日のこと、いつものように教壇に立たれた先生は、前列に席をとっていた私たちに、「今日は何の講義だったかね」と聞かれた。誰かが「商業政策です」と答えると、先生すこしもあわてず、「あ、そうだったか、それではその講義をしましょう」といって、平然と、何もみないで一句一句考えながら、実に絶妙な講義をされた。

 

またある日のこと、中央線の電車でたまたま御一緒に帰宅する光栄に浴したが、その時先生はいろいろ学問の話をされたあとで、「自分は外国のことをいろいろと勉強してきたが、停年になったら日本の社会経済史をじっくり研究してみたい。外国のこと、特に学説だけを追っかけていたのでは、ほんとうのことはわからないよ」といわれたことがある。同じようなことを、私はあとで、上田先生と肝胆相照らす仲であった三浦新七先生からも聞いた記憶がある。

 

そのほか、ちょうど先生が学長をなさっていた時に『一橋論叢』を創刊したという事情もあって、その頃の思い出はつきないが、それとは別に、ここで一つだけ、私がまったく頭のさがる思いをしている最近の発見を紹介して置きたい。

 

それは今から五五年も以前のこと、つまり大正九年という年に、三宅雪嶺が主宰する雑誌『日本及日本人』が、「百年後の日本」という特集を企画し、当時の代表的知識人三百数十名にアンケートをもとめたことがある。真の実学の尊さをわきまえぬ多くの「有名人」は、よほどこまったとみえて、とんでもないつまらぬ作文的返答をしたり、中には「来年のことをいってさえ鬼がわらうのに、百年後のことなどわかるはずがない」といった無責任きわまる返事をした「有名人」もいた。その中にあってわが上田先生は、自分の研究に即して真面目に予想をたて、百年後には産婦に対する国家保護がすすみ、幼児死亡率はほとんどゼロとなること、義務教育の年限は延び、能力あるすべての青年男女には大学進学のチャンスがまったく平等に与えられること、労働者の労働時間は短縮し、国有産業が増加するとともに、各産業には従業者の自治的経営が普及すること、日本人の平均年令は一二五才ぐらいにのびるであろうこと等、きわめて具体的にして的確な見通しを述べている。それは決していま流行の思いつき的のビジョンでもなければ、単に統計的・機械的な分析でもなく、先生の哲学、先生の身についた学問からの責任をもっての発言である。三百数十名の返答の中で、最も光っているのが先生の予想であることがわかる。

 

真の実学とはこういうものなのであろう。それは理論とものの考え方とをしっかりと身につけ、的確な事実認識をふまえての識見であり、内に社会哲学を蔵したたくましい知恵のことなのである。つぎつぎにあらわれる新学説を紹介するだけでは、いつまでたっても身についた学問にはならないことを、先生は如実に私たちに示されたように思えてならない。

 

(上田貞次郎全集刊行会『上田貞次郎全集の栞』第5号、1975年)

 

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