上田貞次郎「労働問題と社会政策」

 

 

今の世の中に労働者という一種の階級ができております。労働者というのは、ただ働く人という意味ではなくして、賃金をもらって雇われて働く。働く人は昔からある。働かなければ食うことも着ることもできない。だから働く人は昔からあるが、昔は労働問題というものがなかった。今日なぜ労働問題があるか。日本においては維新前には労働問題はなかった。維新後においても、最近に至るまで労働問題はなかった。近ごろになってそういう問題が実際に一般公衆の注意を促すようになった次第はどこにあるかというと、賃金労働者という大きな階級がここに現われてきた。これは産業組織の一大変化のもたらしたる結果であります。六十年前に日本が国を開いてヨーロッパの文明を輸入したということが、日本の独立を維持し、今日の世界的位置をもたらすに至った大原因であると同時に、このためにまた日本の社会にヨーロッパの社会におけると同様な困難なる問題を惹起した。すなわち賃金労働者という大きな階級を生じたのであります。すなわち大工場が出来る、大事業が起こる、これに雇われるところの非常に大勢の労働者がある。これらの人は、従来の労働者たる農民とは非常に性質を異にしている。また、従来のいわゆる職人、丁稚からだんだん仕上げて親方になるところの職人というものとも非常に性質を異にしております。どこが異なっているかというと、独立の営業をしているのではなくして、人に雇われて働く、賃金をもらって働くことです。しかも今日の仕事というものは規模が非常に大きいから、そういう同じような位置にいる労働者が多数あります。同じところに何千何万と固まって働いている。そのためにいろいろな問題を生じてくる。

 

もっとも、この社会の下層にある階級がもっぱら筋肉労働によってその生活を維持しているということは昔からあった。昔からそういう階級の地位を向上させるということは、必要なる問題でありまして、また実際においてだんだんに向上してきていると思います。ごく大昔の話をしますが、西洋でギリシアにおいては奴隷というものが一般に用いられておった。アテネというところは世界のデモクラシーの起こったところと称されているが、しかしながらそのデモクラシーというのはいわゆる自由民の間の平等であって、その下に奴隷という階級が非常にたくさんあった。つまり自由民は奴隷を働かして、衣食の資料を拵えさせて、そうして自分たちは政治に関与し、教育に関与し、文学、美術、哲学、科学の研究に力を入れた。それでその時代の偉い学者たちは、この奴隷という制度は必要なものであると考えた。アリストテレスのごときは奴隷制度必要論を唱えておりました。どういうわけで必要であるかというのに、すべての人が生きていくには衣食の資料を得なければならぬけれども、すべての人が衣食の資料を得るために働いておったのではとうてい文化というものを進めるわけにはいかない。文化というものはどこから起こるかというと、これは暇を得ることから起こってくるのである。朝から晩まで筋肉を働かして自分の衣食を求めておったのでは、物を考える暇がない。考える暇がないから、詩を作る人もなければ音楽をやる人もない。哲学科学の問題に思想を触れるということもできない。すなわち、文化ということは暇があるということを必要条件とする。それであるからして、この社会の文化を進めるためには、一部分の人たち(あるいは大部分であるかもしれないが)にはせいぜい筋肉労働に従事せしめて、その造り出したところのものをもって、少数の選ばれたる人たち、選ばれたる階級を養うということは当然のことであるとこういうのであります。

 

ところが今日は、われわれはそういうふうには考えないのであります。すべての人にできるだけ広く暇を与える。すべての人をしてできるだけ高い文化に進ませたい。今日はアリストテレスの時代と違って、衣食の資料を造り出すところの手段というものは非常に発達している。幾多の発明、幾多の発見が現われている。ことに第十八世紀の末に起こったところのいろいろな発明、ことに蒸気機関の応用ということによって、人間の力で行なったならば到底やることのできないような、非常な大規模の力が――天然力が利用されるようになっている。だからしてわれわれは、この天然の力というものを奴隷にして、人間をその上に立たしめたい。労働者は天然の力を奴隷にしたところの自由民にならせたい。天然の力を奴隷として使うことによって、人間の労力を省いて、これに暇を与えて一般的に文化の程度を向上せしめたい。こういう要求をするのであります。これをデモクラシーと名づけるか何と名づけるか知らぬが、とにかく現代の要求はそういうようになってきた。昔からの変遷を考えると、全く奴隷であったところの労働階級は、その後にやや自由を得たところの封建時代の百姓となっている。今日はさらに一変して、百姓よりももう一層自由なる賃金労働者となっている。これは大体において下層階級の地位が向上したということができるのであります。

 

しかしながら今日においては、なお決して労働者が満足しておらない。また一般の幸福の増進、一般の文化の向上ということを考えてみれば、むろん今日の状態をもって満足することはできない。ことに今日のこの自由競争時代、いろいろな新発明、いろいろな新機軸を応用しまして、どしどし新しい事業をやることができる、自由に実業的の活動をすることができる世の中においては、一方においてこの実業的材幹を働かして大金を儲けるところのいわゆる成功者、あるいは成金とかいうような人たちが輩出してきましたが、他の一方においては同じような賃金でもって一生涯独立することなしに暮らしていかなければならぬところの労働者が非常にたくさんある。すなわち、その間に貧富の懸隔が非常にできている。よく人の申しますのに、今日の世の中は富者はますます富み、貧者はますます貧と申しますけれども、それは少し間違いである。富者はますます富んでいくが、貧者はますます貧ではない。貧者は昔よりはいくらかよくなっているのが多い。昔の貧民と今日の貧民と比べてみれば、今日の貧民のほうがいくらかよい。貧者が昔より堕落したということは言えないだろうと思いますが、しかしながら貧者と富者の懸隔は決してなくなりはしない。かえってますます甚だしい状態であると思うのであります。

 

しかるに他の一方において、いわゆるデモクラシー、あるいは人間の価値というようなことをだんだんにすべての人が考えるようになった。ことにこの教育の進歩によって、現代の子どもはすべての事柄についてなぜということを問うように習慣づけられる。そうすると、貧乏人の子どもは考えてみたくなる。一方においては労せずして大いに贅沢な暮らしをすることのできる人がある。一方には十年一日のごとく働いて、いっこうその生活の状態を改めることのできない人がある。なぜこういうふうになるだろうと、こう考える。今日は文明の利器が非常に進んできて、盛んに利用されるようになったにかかわらす、その文明の恩沢というものは、多くは社会の一部分、すなわち財産をもった人のほうに行き渡る。いっこう他のほうには行き渡ってこない。じつは全く行き渡ってこないことはなくして、先刻申す通りだんだんに進んでおりますが、少なくとも貧乏人の側ではそういうふうに感じる。どうしてもこの下層階級たる労働者の物質的および精神的の向上を図るというところの要求が出てくるのであります。この要求が昔はないことはなかったが、極めて弱かった。つまり奴隷はもうその奴隷であるということを自分で諦める、あるいはそれ以上に物を考えるような力を養成されておらない。ですからして、この労働問題について労働者自ら奮起するということは、非常に堕落の極点に達した場合に起こるのではない。堕落の極点に達したものは、あるいは初めから極めて幼稚なる労働者の間には、そういう問題はまだ起こってこない。百姓でもその大地主を旦那様と崇めて、そうして村の問題から夫婦喧嘩の仲裁までも旦那様のところへ持っていってどうかしてもらうという時代には、自分の人間としての価値、自分の精神的の向上というようなことは考えておりはしない。相当の程度に達したところの労働者によって、はじめてこの問題を起こされる。だからして、かくのごとき問題の起こってくるということは、必ずしも労働者は昔よりもひどい目にあっているというわけではない。しかしながら、しかるがゆえにこれを放っておいてよいものだという理屈は立たない。要求が生ずれば生ずるだけ、これをだんだんに引き上げていかなければならぬ。引き上げていくことが人生の理想であり、また必要であろうと思います。

 

労働問題と一口に申しますが、二つの方面があることを注意しなければならぬ。一方は、労働者が団体となって雇主との間に労働条件の協定をするという問題であります。すなわち労働者対資本家の問題、昨今神戸あたりでもって非常な大騒ぎをやっておりますが〔1921年の川崎・三菱神戸造船所争議。3万人の労働者が40日間にわたって繰り広げた戦前日本最大のストライキ〕、この問題の帰するところは労働者の団体と資本家との間に労働条件をいかにするかということを議するにある。その相談がうまくまとまらないと同盟罷業〔ストライキ〕をするというようなことにもなっていくのであります。それが第一の問題であります。

 

もう一つの方面は、いわゆる労働立法の問題であります。労働立法というのは、国の法律の力をもって労働契約の条件に相当の制限を加えることである。契約の自由という原則から言ったならば、労働者と資本家の間にどんな約束をしようと差支えはない。二十四時間打ち続けに働くということを約束しても差支えはないけれども、そういうことをさしてはならないというのでここに法律を設け、労働時間はこれこれ、労働をする者の年齢はこれこれというような制限を立てて、この埒内でもって契約をしろ、こういうふうに法律上の規定を拵える、これが労働立法である。

 

つまり、法律的に申しますというと、前のほうの団体交渉の問題は私法関係、お互い当事者間の談判、後の労働立法の問題は国家としてかくのごとき契約をするときにどういう範囲内でやらなければならぬというところの範囲を定めるのであります。今日のところでは賃金問題すなわち労働者の所得に関する問題は、多く組合の団体交渉によって決定されるようであります。すなわち賃金の値上げ、あるいは値下げの反対というようなことが、ストライキの理由にしばしばなるのであります。これは、法律でもってどういう職業の賃金はいくらだということを定めることはなかなかできませぬ。米の値段をいくらと定めることのできないように、労働者の賃金をいくらと定めることはできない。今日の動揺の多い経済組織において、そういうことを法律で定めてみても役に立たない。それであるからして、これは当事者間の契約の問題になるのであります。しかし、先刻申す通り、この一般の文化の向上はただ賃金の問題、金の問題だけではない、時と金であります。金のほうはそういうふうにしてやっていくが、時のほうはどういうふうになるかというと、すなわち今の労働立法の問題に多くなるのであります。すなわち労働時間をどのくらいにするかということであります。もっとも、この労働時間の問題は労働組合の要求によって解決していくということも、組合の進歩したところにおいてはできるのでありますが、しかしながら主としてこの問題は公法上の問題になってまいります。かの工場法の内容は、主として労働時間をどうするか、もう一つは労働年齢をどうするかということである。労働年齢もやはり一種の労働時間と見てよかろうという――大きい広い意味でいえば時間と見てもよいかもしれぬ。

 

それからなおこのほかに非常に重大な問題は、いわゆる失業問題であります。昔は先刻も申すように、百姓が主な労働者でありまして、これらの人たちはもう土地に縛りつけられて、百姓が自分の土地を捨て他へ移住しようなどという企てをすると、それはいかぬというて連れてきて、またその地に無理に働かせる権利を領主がもっておったのであります。田を売ると、その田に付いた百姓も一緒に売られるというようなことになっていた。そうでありますからして、彼らの自由ということは今日の賃金労働者に比べて劣っている、不自由な位置にいる。けれども彼らの位置が割合に安定であった。とにかく一年間の食物は田から獲れる。世間の物価が高くなろうと安くなろうと、彼らに痛痒を感じない。なるほどずいぶん誅求は激しい、年貢は余計取られる。だけれども、自分の貧しい生活の程度を維持していくということについては、あまり心配をしないでもよかったから比較的安定であった。今日の労働者はどうであるかというと、その安定がない。景気のよい時には彼方からも此方からもさあ来いさあ来いといって雇いに来て、それから雇われて行ってはたらくというと、なかなかよい給金をくれる。ところが景気が悪くなってくると賃金をさっそく値下げをする。値下げをするならばまだよいが、今度は君は明日からもう来なくてもよいという、こういうので解雇される。解雇された当座はまあ今までの景気のよい時代の貯蓄があるからしばらくは行けるだろうが、間もなく衣食に差支えるようになってくる。この失業ということのために生活の安定を欠くという、この生活問題の動揺が激しくなってくる。たんに労働者のみならず、社会全体が経済上の安定を欠くようになった。それで、その不安定な経済組織の影響を一番強く感じる者は、最も下層にいるところの貧乏人であります。

 

しかしながら、この失業をいかにして処置するかということについては、今日まで未だ立派な制度が出てきておらない。ヨーロッパにおいても、この景気不景気の波瀾が激しく襲ってきたというのは、百五六十年前からのことでありますが、まだこの問題はいかにして解決されるかわからない。この景気不景気ということは、今日のこの自由競争の経済組織に付いてまわってくるところの弊害である。これを改めることは非常な根本的の変革を要する。それであるからして、まだこの失業問題の処置について適当なる制度を見つけ出したというのはないのである。

 

こういう具合に労働立法の問題がいろいろあります。他の一方においては、先刻申した団体交渉という問題があります。団体交渉のほうは、相当進歩した労働者でなければそういう問題は起こさない。その代わりその問題がもしも悪く取り扱われるならば、いわゆる階級闘争というような危険を生じる。すなわち、たんにこの労働者が資本家を打ち倒すのみならず、悪くすると社会の文明そのものの根底を危うくする。階級闘争によって労働者が勝つか資本家が勝つか、そんなことは社会全体の文化という立場から見て大した問題ではないかもしれぬ。日本中の金持ちがみな一文無しになってしまったところで、いっこう恐るるに足らない。しかしながら、今日の社会組織は不完全ながら昔に比べてはいちだん高いところの文化を拵えている。この文化の根底をことごとく打ち壊してしまうということになるのは甚だ困るのであります。しかしながらそういう危険は現にある。ロシアのことは極めて的確な実例なのである。今日の経済組織はそういう危険が付いているということは、われわれが明らかに認めなければならぬことである。どうしてもそうならなければならぬ、それよりほかに出途がないのだということを社会主義者の或る者は申しますが、それは必ずしも私はそう思えない。階級闘争の結果として経済上の革命を惹き起すというようなことは、避くべからざる運命ではなかろうと思う。けれどもこの問題は非常に恐ろしいものであります。非常に重大な問題である。この重大なることが十分に日本の指揮者に理解されているや否や、これを疑うのである。

 

先刻も申す通り、日本が国を開いてヨーロッパの文化を輸入したという、その文化のなかにはいわゆる資本主義という文化を含んでいる。資本主義を日本国に輸入してきた、その結果として今のような大騒動の種子を日本がすでに輸入したのである。それはこの社会の破裂というようなところから見て恐るべき問題だというのですが、それでは破裂しなかったらよいのか、労働者が今の状態において満足をしているような労働者であったならばよいのであろうか。彼らが幸いにしてか、あるいは不幸にしてか愚昧であり無気力であり幼稚であるがために、そういう問題を引き起こさないような労働者であったならば、それならばよいのだろうか。近ごろ汽車で旅行などしておりますというと、よく実業家らしい人がお互いに話をしている。神戸の問題が起こった、どうも困ったものだ、ああいう無茶のことを言っては困ったものだ。なるほど無茶なこともあるかもしれない。だけれども、無茶でないこともそのなかにある。困ったものだという人のほうが、その返事に無茶のことを言っている場合がしばしばある。それらの人から見たならば、そういう問題を惹き起こさないところの、ごくおとなしい無気力な労働者ばかりであったならば天下泰平ということになるのであります。しかしながら、これをよく研究してみますというと、決してそうでない。おとなしい場合には騒ぎはないけれども、しかしながらそれと同様に重大な問題が生じる。これはすなわち、国民のなかに無教育の不健康な不健全な不良な分子が増加していくということであります。機械は手入れをしなければ悪くなる。人間もやはり手入れをしなければ悪くなる。ところが、この手入れをするには時と金を要する。そこで、もし一般の人民に時と金を与えずして、安い賃金で長い時間働かせるとしたら結果はどういうことになるか。かれらの労働能率を低くすることはもちろん、その他国民として、日本帝国のメンバーとして発達することができない。ここにおいてか一国が、社会全体が一種の病気になる、社会的の病気になる。じりじりじりじりと肺病のように衰える。衰えないまでも非常に進歩を妨げる。でありますからして、労働者がおとなしくしていれば、それでは黙って観ていればよいかというと、決してそうではない。その時こそ、なお研究を要するのであります。かくのごとき場合に、その弊害を矯めるところのものが、第二の問題、すなわち労働立法の問題なのであります。私は今日、この労働問題と実業補習教育とのこの関係を論ずるについては、第一の方面、すなわち労働組合、団体交渉という問題よりも、むしろ労働立法の問題について少し詳しくお話をする必要があると思うのであります。

 

この労働立法は、まず工場法として発達をしたのであります。つまり、工場における労働の状態をどうするかという問題をもって立場としている。今日は工場以外、鉱山、あるいは鉄道、あるいは土木工事の仕事から建築工事の仕事から、あるいは港湾倉庫等の仲仕人足の労働というような、いわゆる屋外労働というようなものにまでも拡張されるようになってきております。進歩した国においてはそういうふうになっております。それからして、その法律の適用を受ける人のほうから言いますと、一番初めにはまずもって少年工の保護ということをもって始まる。その次には婦人に及ぼす。最近に至って成年男子までも労働立法の適用を受けさせなければならないということに、ヨーロッパの傾向がなってきたのであります。日本においては、まだ工場以外の労働立法というものはあまりありませぬ。鉱山について多少の規程があるくらいのものであって、日本の労働立法といえば、まず工場法と思ってよろしい。この工場法というものは、世間で骨抜き工場法と申しているのであります。何故に骨抜きであるかというと、規程は表面上一通りできているが、但し書きが付いたり、恐ろしい長い猶予期間が付いたりして、事実上その規程を――まあ極端に言えば――ないも同じことにしてしまっているのであります。

 

しかるに幸いにして、このパリの平和会議の結果が国際労働会議というものを拵えて、これを国際連盟の一部分として毎年会議を開く。そうしてこの会議には各国の代表者が出て行って、そうして世界的の労働立法の最低限を議することになったのであります。第一回は一昨年の秋にアメリカのワシントンでありました。この第一回の会議は、工場労働に関する重要な規程を拵えた会議であります。第二回の会議はジェノアで昨年やりました。それは海の労働者についての条約を拵えた。第三回目はすなわち今年で、これはスイスのジュネーブで農業労働と商業労働についての会議をやる。こういうふうに毎年開くことになっているのであります。

 

この会議においては従来の条約と違いまして、条約国の代表者が全権をもって条約を定めるというのではない。各国の代表者――ことにその代表者は政府の代表者ばかりでなしに、資本家団体の代表者、労働団体の代表者とこう三方の代表者を各国から寄せて、ここで問題を多数決でもって決める。その多数決で定めた案は、これを一つの条約案として各国にまわす。各国は適当なる機関にこれを掛けて、これに賛成をするや否やを決める。こういうことになっているのであります。それでありますからして、この国際労働会議において定めたところの条約案というものは、直ちに各国に対して強制力をもっているものではありませぬ。強制力をもっていないけれども、しかしながら各国がもし言うことを聴かないならば、その国は世界の交際社会から除外されるという結果になるのであります。だからして、強制力はないとはいうものの、しかしながらよほど道徳上の制裁をもったところのものであります。

 

そうしてその第一回の会議においては、工業をはじめ鉱山業、鉄道業その他いろいろな業務についての重要な規定を議したのであります。これが今日各国にまわされて、日本においては最近枢密院の議に付せられているわけであります。この会議において日本政府はよほど奮発をしました。世界の大勢は非常に動いてきて、日本ばかり労働立法について保守的な態度をとっているわけにはいかないところから、いわば国際的の圧迫によっていわゆる大勢に順応するという――あまり見識のあることではないかしれないが――そういう理由によって、日本としてはよほど進歩したところの案を持ち出したのであります。それで現行の工場法に比べてみると、非常に進歩したところの工場法がここに出来るか出来ないかという瀬戸際にいま立っている。つまり枢密院の態度如何によってそれが決まる。

 

少しばかりその内容をお話してみますと、まずもってこの最低年齢の問題であります。何歳から工場において働くことを許すやという問題、これについては今日の法律では満十二歳以上でなければ工場に行って働くことは許さない、こういう規定が原則として出来ております。しかしながら、骨抜きの骨抜きたるところはこれに例外を付したことであります。すなわち、軽易なる半日労働者というものを認めてある。つまり、軽くて易しい作業については十歳以上の者は働いてもよろしい、その代わり時間は六時間――すなわち普通の時間を十二時間と見てその半分、六時間だけは働かしてよろしい。その規定の結果として、今日十二歳にならないところの学齢児童の何万という数が工場労働に服している。いちばん著しい例はマッチです。マッチの工場に行きますと、朝のうち学校へ行ったその児童が昼過ぎに工場で働いている。それで、諸君のなかには御経験のある方もあるだろうと思いますが、その半日労働のためにその地方の普通教育というものは滅茶滅茶にされている。大人でも一日働いてきてそれから夜学に行きますとずいぶん坐睡をします。大人の夜学校に行ってみると、よくそういうことを経験する。その人は勉強するよりも、むしろ頭を休めたほうが気が利いている。そのほうが国家的によい。いわんや子どもが、半日働いて半日学校へ行く。子どもとして六時間働けばずいぶん疲れてしまう。それから学校へ行って算術をやったり読み方をやったりしても、その効果は極めて微弱であります。微弱であることを、そういう局に当たったところの小学校の先生がいうている。

 

一昨年この国際会議のあります時分に、神戸あたりのマッチ業者の陳情がありました。マッチというものは、これはごく貧乏人の子どもを寄せて働かして、そうして相当な所得を得せしめる、いわば救済的の事業であるということを言ったのであります。しかしながら何が救済であるか。日本の国策として、義務教育ということをすでに認めている。義務教育というのは国民教育の最低限、いやしくも日本国民たる者はこれだけの教育はもっておらなければならぬという最低限、その最低限を与えずして働かせることは救済であろうか。それで、この国際条約案にはどうなっているかというと、これは十四歳をもって原則としております。いずれの国も十四歳以下の子どもを向上で働かしてはならぬ、ということになっております。ただし、日本については特殊条件が付いております。それは十二歳以上にして普通教育をおわった者はこの限りにあらず、工場へ入って働いてよい、こういうことになっている。しかし、むろん半日労働などという例外は許さない。でありますから、もしこの案が枢密院で可決されれば、そうして御上の御裁可を得ることができれば、日本の学齢児童の就学についても、少なくとも可能性を与えることになります。現在では義務教育とはいっておりながら、他の一方において産業に関する立法の不完全なるがために、義務教育の原則を曲げている。十二歳まで教育すべきはずを、一方において半日労働ならやってもよい。学校には行っているけれども、しかしながら上の空で何もわからない。そうでありますから、日本の教育の統計を見ますと、学齢児童のなかで学校へ入っている者のパーセンテージは非常に多いのでありますけれども、実際工場に入ってみると、義務教育未修了の者が非常にたくさんある。尋常科を少しばかりやって工場に送られてしまうという人間が非常にたくさんあります。

 

もしこの法律ができるならば、そういう者は義務教育をおわらなければ工場へ入ってこられないことになる。それだけ義務教育を保護することになる。しからばなぜ日本においてこの十四歳という原則に例外を加えて、十四歳にならなくても学校をおわった者は入ってよいということにしたかというと、その理由はつまり日本において義務教育をさらに二年間拡張して、八年生の小学校制度を実行することは即時にはできそうもないとこう見たのであります。だからして今の例外を拵えた。いったい学校をおわってから工場へ入るまでの間にどこへも行かない時があることはよくない。学校へも行かず工場へも行かず、全然無節制な時期を置くということは、これは不良少年を養成する源である。であるからして、この義務教育の年限と、それから工場の年齢とを一致させることが必要である。それで日本では八年生教育を即座には実行できまい。それだから、まずこういう例外を認めておいてもらう。しかしながら、日本でもやはり十四歳というこの原則を認めた。これはすなわち、近き将来において出来るだけ早く八年教育というものが実施されるようにならなければならぬということは、暗々裡に認められておったものと私は思うのであります。

 

なお、この点については問題があります。日本の小学校令には除外規定がある。すべての人が義務教育を受けなければならないが、しかしながら病弱なる者、不具癈疾の者は免除する、これは当然のことである。しかるにもう一つ免除の規定がある。それは赤貧なる者は免除する。それで今の義務教育をおわった者は工場へ入ってもよいという規定を拵えるについては、義務教育を免除されたる者は義務教育をおわった者と同様にみなさなければならぬ。ところが、今の赤貧な者は義務教育をおわった者とみなされたならば、義務教育というものは全然主義において打ち壊されてしまう。そもそも、これが国民の教育の最低限であるという以上は、これはいかなる手段を尽くしても実行しなければならぬ。貧乏人の児童で学校へ行かれないというならば、学校へ行かれるだけの給与をしてやらなければならぬ。文房具が足りなければ文房具をやる。腹がすいて算盤ができないならば腹をはらしてやるということが、この義務教育の必要条件でなければならぬ。すでに先進国においては、いずれもそういう規定を拵えている。イギリスのごときは、この小学校の児童に市の自治団体の費用をもって弁当を食わせるということは法律にもあります。また、実際においてよほど広く実行されている。教育にかかわらず、国民的の最低限というものを置いて、これより以下には落とさないということが、近世の社会政策の方針であります。教育については今の義務教育ということを定めたのでありますから、これまではいかなる手段をもっても実行しなければならぬ。

 

最近に読売新聞であったかと思いますが、学齢児童保護法というものについて時々記事が出ておりました。今日も出ておった。私はワシントンの会議に行きましたときに、少年の労働問題についての委員会に列席しておった。それで日本の義務教育について何か例外がないかというから、こういう例外があるといったところが、非常な反感を買うたのであります。それで、赤貧なるがゆえに免除するというようなことは、これを考慮に入れないということにしてしまいました。それでこの条件付きの日本の案というものは通ったようなわけである。帰ってきてみますと、内務省あたりでもって学齢児童の保護法ということについて議があるということを新聞で見ました。文部省の人に聞いてみると、それぞれやっているという。これはじつにおかしな話である。これは内務省の問題でもあろうが、文部省の問題でもあるだろう。日本の教育行政官なり、あるいは教育家はいったい何をしているか、甚だ意気地のない人たちだと私は驚いたのである。私は間違っているかしれないが、日本の教育に従事する人はあまり遠慮過ぎはしないか。義務教育ということが今日の国策の一つであるならば、これを実行するのになぜもっと厳格なる態度をとらないか。しかしながら、この問題は必ず近き将来において解決されることと私は思います。何となれば、日本中の小学学齢児童に義務教育を受けさせるということは、〔専門学校の大学〕昇格問題などよりははるかに大切な問題である。昇格問題ということは昨今政治上の問題になり、高等政策とか何とかいうものから言ったら肝腎かもしれないが、高等政策ということは多くはわれわれ学者の立場から見れば劣等政策である。一の政党が内閣を取るか、他の政党が内閣を取るかという問題で、いわば一時的の問題である。しかしながら、国民教育のプリンシプルをどうするかということは、これは一時的の問題ではない、ジェネレーションの問題である。われわれの次の時代の国民を築いていくという問題である。この問題について考えることを忘れて、昇格問題について争っているというのは甚だ不見識なわけである。政治家というものは気の毒なものである。

 

要するに、私の素人考えとしては、教育家があまり教育に無頓着である――無頓着ではないのだろう、非常に頓着しているのだろうけれども、世間を御存知ないのではないか。そんな費用がないというていつでも断わられるが、しかしながら教育家は何故に進んで日本の財政問題を研究しないか。日本の財政上、国民教育の費用を出すべき余地がどこにもないのか。この大きな身代のなかから一千万円や二千万円絞り出せない理由はない、必ずある。

 

もう一つの問題は労働時間の問題であります。最低年齢ということも結局は時間の問題に帰するとちょっと申しましたが、その意味はこうなのであります。つまり、人間は一日のうちに幾時間働いて、後を暇として残しておくということと、一生のうちに何歳から上を働いて、何歳から下は暇として残しておくということは、問題として同じことであります。つまり、その間に暇を与えて、精神上身体上の発達をするところの余地を与えなければならぬ。アリストテレスのそう言った「時を与える」、それが文化の基礎であります。国民教育はつまり文化の基礎であります。その意味において、最低年齢という工場法上の規定が重要になるのであります。労働時間についてもやはり同じことであります。ある一部の空想家によれば、労働というものは結局愉快なものにしなければならぬ。遊戯も身体を労し精神を労する、ベースボールをやってもなかなか力が要るので汗が出る。だけれども彼は苦しくはない、愉快である。労働も、もし快楽化することができるならば、それがいちばんよいのである。けれども労働を快楽化するということは、これはどうも理想であって実行できない。労働は大体において苦しいものである。もっとも、まるっきり遊んでいることは人間にはできない。人間には活動欲がある。けれども、大体からいうと労働というものは苦しいものである。労働によって人間の精神が向上し、その健康が増すということは言えないのであります。ですからしてこれは、労働時間を短くするということは、一方からいうとそれ自身労働の苦痛をいくぶん減じるということになるのでありますが、それと同時に他の一方において暇を拵える。教育のために、娯楽のために、あるいは社交のために使うべき暇をそこへ拵える。これが労働時間を制限するところの精神であります。

 

それでは日本の現行工場法において労働時間をどういうふうに規定しているかというと、日本の工場法は子どもおよび婦人についてだけ規定しているのであります。そうしてその時間は十二時間としてあります。しかしながら、これにも例外が付いておりまして、どこまでも骨抜きたるにおいて徹底しているのであります。その除外例あるがために、今日は十二時間の制限は行なわれていない。製糸場へ行ってごらんなさい。織物工場へ行ってごらんなさい。十五六の女が十四時間働いている。朝の六時から夜の八時まで、もっともその間に食事の時間が入っております。食事と休憩で一時間くらい入っている。正味十二時間ないし十三時間働いている。そういう国は世界広しといえども、いやしくも工場法をもっている国のなかにはない。十四時間というのはほとんど最極限であります。それ以上やったら死んでしまうかもしれぬ。だから法律がなくたって、それ以上にはなかなか出られないのであります。

 

ところが先刻申した通り、幸いにもここに国際労働会議というものが起こってきた。日本の国内には、これらの工場においてただ言われるままに働いているところの多数の婦人、多数の子どもの労働者に対してどういう規定を設けなければならないか、どういう政策をとらなければならぬかということを熱心に考え、またこれを主張するところの人は極めて少ない。その少ない人は不幸にしてみな有力な人ではない、われわれみたような素寒貧ばかりであります。これに対して、できるだけ彼らを長く働かせたい、できるだけ安い賃金でという人は非常にたくさんある。それらの人は素寒貧ではない、みな有力な実業家である。この人の力をもって議会を動かすこともでき、政府を働かすことができる、そういう人が非常にたくさんある。でありますから、日本の工場法は骨抜きながら〔明治〕四十二年に出来たが、大正五年までは行なわれない。さて行なってみると、それにいろいろ例外が出来ていていっこう実質が現われない、こういうことになっているのであります。この柔順なる労働者の状態について、幸いにして外国から圧迫が来た。情けない話である。労働問題は国内の問題である。しかるに外国の圧迫――圧迫というてはいかぬかしらぬが、とにかく国際条約の力によって日本がこれを初めて問題にする、日本の枢密院なり政府なりが初めてこれを問題にする。つまり、自分の家の子どもの教育、自分の家内の食物衣服のことについて、隣の伯父さんからして注意を受けたというような形である。それで外国の振合いを見ている。これはじつはそんな問題ではないのであります。日本自身として決定すべき問題である。

 

しからば、その外国の圧迫の結果として出来たところのワシントン条約案というものはどうようものであるか。原則としてこれは、八時間労働、世界の各国は八時間をもって労働時間の最低限とすべしということになっている。けれども日本はまだそれと同じには行かぬ。そこで九時間半、すなわち一週間に五十七時間という制限を置いたのであります。そうしてただ、十六歳以下の者だけは八時間にする。こういうことにしてある。それで、もしもこの案が批准されるならば、日本の幾多の製糸場、幾多の織物工場において、十六歳以下の女子どもは今の十四時間からして八時間、もっともこの八時間というのは正味八時間ですから九時間くらいになるかしれませぬが、少なくとも四五時間短くなる見込みであります。十六歳以上の女でも三時間短くなるのであります。

 

この労働時間を短縮することは教育と非常に関係がある。ことに補習教育と関係がある。補習教育の働くべきところはここにあると思う。英国において最近に通過しましたところの教育法においては、十四歳までは普通教育を受ける、十四歳以上になれば工場法によって工場へ入ることは許されるわけでありますが、それから後は補習教育を受けなければならない。その補習教育の時間は一週間のうちに何時間でありましたか、これはいま覚えておりませぬが、その時間のあいだは工場主が暇をやらなければならない。暇をやると同時に、その時間に相当するだけの賃金をやらなければならない。こういうことを教育法に規定しているのであります。日本では産業に関する法律が義務教育の規定を犯している。英国では教育法が産業に干渉したのであります。いずれが順当のことであるか、これは諸君の御判断に任せます。ともかくも、そういう法律が出来て、補習教育というものは義務的に課せられる。ドイツでは、もう戦争前からして補習教育を義務的にやっておった地方がたくさんにあります。英国は比較的補習教育の制度が遅れておったのですが、最近そういう法律が出てきました。

 

労働時間短縮の問題が出ますというと、雇主側からこういう意見が出る。至極それは結構だけれども、しかしながら暇を与えるというと、彼らはろくなことにこれを使わない。ある紡績会社でもって時間を短縮してみたところが、工女たちはみな表に出て買食いをしてお腹を下してしまったという。だからこれはいかぬという。けれども私どもの考えでは、そんなにお腹を下すほど食べるだけの小遣銭はあるまいと思う。第一、今まで毎日十四時間働いたものを十二時間に減じた。そうすると、二時間ずつ余るからといって、毎日買食いをする者がとても出来まいと思う。すなわち資力が続かない。しからば多数の者がその時間をどう使うか。これを身体の給養に使う、あるいはその他のことに使うでありましょうが、その使い方の一つとして、どうしても補習教育ということが入ってこなければならぬと思う。ことにこの十六歳以下の者に対して思い切って労働時間を短縮して、今の十四時間から八時間に短縮するというような場合においては、たくさんに時間が余る。その余る時間において、よしんば買食いをしないでも、この時間が必ずしも彼らの精神的物質的の程度を向上させるような方法において使われることは保証ができないのであります。だからして、一方において健全な娯楽機関が発達してこなければならぬ。それと同時に、立派なる教育機関が発達してこなければならぬと思うのであります。これが同時に解決されなければならぬ問題だと思うのであります。補習教育ということについては近ごろだいぶ政府の御注意がありまして、そうして今日のこの講習会のごときも開かれたのでありますが、いかに補習学校を設けてみたところで、労働時間が長ければ彼らはこれを利用することができない、何にもならない。

 

もう一つ、この時間に関係して重大な問題は夜業であります。夜業というのは、ただ夜深更まで働いているというのではなくして徹夜業であります。昼間寝ておって夜働く、これほど不自然の生活はない。しかるに今日、日本においてまあ何万ありますか、十万くらいありますか、女工が昼間寝ておって夜働いている。それは紡績職工、日本のすべての大工業のなかでもって非常によく発達したと称せらるる紡績業において、この徹夜業が行なわれている。いわゆる二組制度、昼間働く者は夜寝ている、夜働く者は昼間寝ている。一週間経つと後退して、前に昼働いておった者が夜の番になる。こういうふうにして、昼夜兼行して紡績の糸をひくことになっている。これは、紡績機械を利用することからいえば非常に経済なやり方であります。何となれば紡績機械、紡績工場を拵えるについての資本がかかっている。もしこの資本を借りているとすれば、それに対して利子を払わなければならぬ。昼夜兼行で使っても昼間だけ使っても、利子の歩合は同じことであります。でありますから、事業家の算盤勘定からいえばできるだけ長い間、二十四時間だけ機械を働かせるのが、この資本に対して一番たくさんの収益を得る所以である。

 

しかしながら、使われる者のほうから言ったならばどうであるか。先刻申す通り、昼間寝て夜働けという人間のある道理がない。泥棒か蝙蝠のような生活をしなければならぬ。しかしながら、この泥棒あるいは蝙蝠生活というものは決して弊害なしに終わるものではない。非常に病人が増す、しかも肺病が非常に増す。今日まで工場における職工の統計を見ますると、そんなに肺病などというものは挙がっておりませぬ。しかしながら、何故に挙がっておらないかというと、それは病気になれば解雇するから職工でなくなる。しかし実際はこれほど悲惨なことはない。田舎にいれば野天で働いて歌を歌って新鮮な空気を吸っているところの生理的美人、これをつれてきて工場でもって徹夜で働かせる。肺病になった、それではもう明日から要らない。この結果が日本国民の健康上どうなりますか。かの奴隷というものは持ち主が飼っているのです。病気になった時には、やはり主人が自分の所有物であるからして、機械の手入れをするのと同じ考えで手入れをする。しかしながら、今日の賃金労働者は自由労働者であるからして、病気でもって役に立たなくなれば、それではもう要らぬといって家へ帰してしまう。こういうことを考えてみると、紡績業の駸々たる発達、日本の紡績糸の東洋市場における勢力が増せば増すほど、一方において日本を肺病国にしているのかもしれない。

 

私はこの問題を研究するについてどうしても十分な調査をしなければならぬと思うのでありますが、そういう機関ができないのみならず、今日の政府がまだ思い切ってそういうことを言い出しもしない。しかし、事実はたいていの人が知っていると思います、想像していると思います。田舎へ行ってみると多少の事実は挙がる。つまり、工女の出てくる農村に行ってみると、近ごろ肺病が増して困る、どういう原因だろうということをみな考える。郡長だとか村長だとかという人が考える。そういう人の話を聞いてみると、非常に恐るべき事実がある。われわれは今までそういうことを聞いたことがありますが、不完全な研究であります。どこまでが夜業の害である、どこまでが工場生活の害であるということを断定的に言うことは難しいかもしれぬけれども、これは大体において事実だということを認めなければならない。それであるからして、一方において日本が殖産興業において大いに発達をし、富国強兵の実を挙げることは、他の一方において病民弱民を養成していくということになりはしないかと思います。われわれは紡績業の発達を歓ばずして、かえって紡績業の発達を呪うほうが至当かもしれない。これは今日の経済組織として非常な欠点であります。自由労働契約の欠点であります。資本家としてはそういう者でも使って、肺病になっても何でも構わない。彼が十銭でも二十銭でも高く取れるという、そういう引力によって田舎から工場へ吸収されさえすればよい。そこで働かして、病気になったら田舎へ還す。その負担は工場主が負わない、それは田舎の父兄が負う、あるいは田舎の市町村が負う。紡績業それ自身は高い配当ができる。日本国は国家の禍をここに招いているのではないかと思います。この夜業も現行法においては禁じてある。しかしながら、本法施行後十五年間猶予されている。何にもならない。幸いにしてもしも今の国際労働条約案が実行されれば、来年の七月から夜業を廃することになります。つまり、この条約案の運命如何によって、何万かの女工の夜業生活というものが終わりを告げるか、あるいは継続されるかということになるのであります。

 

すべてこれらの問題は、従来あまり騒ぎになっておりませぬ。女工が多くは嫁入り前の身で、支度金の一部分にするくらいの考えで工場に入る。あるいは家へ仕送りをするために入る。少々苛められたって、諦めて自分の身を売ったというような考えでいる。だから女工の騒動というものはあまりない。する気力もなし、する智慧もない。子どもはなおさらわからない。かくのごとき無能力な者と、算盤玉の勘定に敏い事業家の間に自由契約を許したならば、それはつまり強者をして弱者を自由に圧制せしむるに過ぎない。それだから工場法の必要が起こってきた。しかしながら、人は今日現に大騒ぎをしているところの労働問題については大いに注意するが、この黙って音を立てないところの悲惨な出来事、破裂はしないが、じわじわと国を弱らす病根については十分に注意を払っているかどうか、これが労働立法の問題であります。

 

なお、最近に国際労働会議において商業の労働問題を議することになった関係からして、東京でもって二三の人が演説会をやりました。それは商業週休および営業時間の問題、毎週日曜日には休む、それから営業時間をもっと短くする、夜八時になればみな小売店を閉める。こういうことについて主張をもちまして、私もその一人になっているわけであります。それでこの問題については、やはり工場労働の時間問題と同じことで、時を与えて修養発達の機会を得せしめる。つまり、補習学校の利用を可能ならしめるというための問題でありますけれども、これは工場労働よりはよほど簡単な問題であろうと思います。なぜならば、工場労働においては先刻言う通りに長い時間のあいだ機械を使えば使うほど生産費の倹約になると申しましたが、小売店の場合においてはそういう関係はない。店を長く開いておっても短く開いておっても、一つの村、一つの町、一つの都会において、その地方人の有する購買力は同じことであります。営業時間を短くし日曜を休めば、それだけ商売の分量は減るかというとそうではない、分量は減らない。ただその営業の時日が縮められる。つまり、日曜に休めば平日それだけ忙しくなる。夜遅くまで店を開けておく代わりに、八時に閉めれば八時前が少し忙しくなる。そういうわけで事務を集中するのであります。それでありますから、商業の場合においては週休もしくは時間短縮ということは、労働者対店主の問題でない、店主もまたこれによって利益を受ける。営業費はかえって節約される。夜遅くまで電灯をかんかんつけておかないでもよい。もっとも、一つの店が早く仕舞い、他の店が何時までも開けておくというのなら、早仕舞いのほうが負けましょう。けれども、法律をもって、あるいは組合の規約をもって、すべての店がみな八時限に閉めてしまうということになれば、お客様のほうはそれ以前に物を買うことになりますから、店主は損失を受けないのであります。

 

それにもかかわらず、店主の側においてこの週休もしくは営業時間短縮問題について議論の出るのは何であるかというと、やはり先刻の買食い問題であります。お客様のほうはただ不自由を耐えてくれればそれでよいが、しかし雇人のほうは暇をやるとろくなことをしませぬという。それに対して私どもは何と答えるか。やはり女工の問題と同じことを言う。それは、なるほど一年間に二度、正月の十六日と盆の十六日の地獄の釜のあく時に労働生活から解放される状態ならば飲み過ぎ食べ過ぎがあるけれども、週休を実行すれば必ず健全なる力が出てくる。また、自治団体、富豪として社会事業をやるならば、彼らの利用するような社会事業をやるようにならなければならぬ。しかし、これと同時に非常に重大なことは何かというと、すなわち補習教育である。この補習教育によって、その余された時間を最も有効に、いわゆる彼らの文化生活を向上せしめるような方法において使っていくということにならなければ、労働時間短縮、あるいは夜業廃止、あるいは日曜休暇の立法の精神を遂げることができないと思います。これが労働問題と補習教育の関係であります。

 

192189日、文部省補習教育講演会における講演。原題「補習教育と労働問題」。文部省実業学務局編『実業補習教育講演集』帝国地方行政学会、1922年、所収

 

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