人間へ戻るために、人間を離れねばならぬ。
──オーギュスト・コント(清水幾太郎『オーギュスト・コント』に引用)
社会事象は一つの統一的現象である。
その大きな流れから経済的事実をむりやりにとり出すのは、研究者の秩序を立てる腕である。
──ヨーゼフ・シュンペーター『経済発展の理論』
解釈における客観性は、あらかじめの憶測を排除することによって保証されるものではなく、
了解主体とその対象とを結びつける作用史的コンテクストを反省することによってのみ保証される。
──ユルゲン・ハーバーマス
実践的な関心がその底にもつあの最高の「価値」というものは、
文化科学の領域において思惟の整序的活動がそのときどきに辿る方向に対して、
決定的な重要性をもつし、もち続けるだろう。
──マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』
先ず何よりも、今という時点において、いかなる理由で、何のために
この曲を創造せねばならないのか、そのコンセプトが明確でなければならない。
既往の西洋音楽の形式や、個性的な響きのイメージをオーケストラがいかに見事に実現しても、
それが現代の日本の社会においていかなる意味を担ってそこに存在しているのか、
その意味が明確でない限り、その構成やその響き自体がいかに美しくとも、
存在の理由は希薄であると考える。
──柴田南雄「作曲について」
理論を興味あるものにさせるのは、
有力な問題状況に対するその理論の論理的関係、
先行する競合的な諸理論とその理論との関係、
存在する諸問題を解決する、また新しい問題を示唆する、その理論の力、である。
──カール・ポパー『果てしなき探求』
物理学者は、まず最初は、世界1の対象─たとえば水晶とかX線─に主として関心をもつかもしれない。
しかし、すぐさま彼は事実についてのわれわれの解釈に、つまりわれわれの諸理論に、
それゆえ世界3の諸対象にいかに多くたよっているかを悟るにちがいない。
──カール・ポパー『果てしなき探求』
むしろ、私は図式によって、思想のある「筋道」をたどるという性向によって、
またきわめてしばしば─特にある考えを書きとめようとする時には─言葉によって思考する。
そして、「あるものを理解した」、ある思想をはっきりとらえたという思い込みがとんでもない誤りであることに、
私はしばしば気づく。私が理解しなかったかもしれないこのあるもの、
私が書きとめる前には、あるいは少なくともさまざまな面から私が批判的に検討できるように
はっきりと言語で書き表わす前には、理解したとはまったく確信がもてないこのあるものは、
客観的意味での思想であり、私がとらえようと努めている世界3対象である。
──カール・ポパー『果てしなき探求』
私は、自然の研究を宝探しと考えています。
神様−自然の権威−が万物を創造し給うた時、どこに何をお隠しになったかは、我々人間には分からない。
そこで、研究と称して宝探しに出掛けるのです。
もちろん目標を立てて出発するのですが、浅はかな人間の予想はめったに当りません。
予想が外れて思いがけず大きな宝物にぶつかることもありますが、
それは一生にたかだか一度ですから、それをつかまえるのは難しいのです。
──上田良二「運の良い人は偉い人」
社会に関する演繹的科学は、決して或る原因の結果を普遍的に主張する公理を説くものではなく、
むしろ所与の場合の事情に適合する公理の組み立て方を、われわれに教えようとするものである。
それは社会一般に関する諸法則ではなく、いかなる社会にせよ所与の社会の諸現象を
その社会に特殊的な諸要素あるいは諸与件から決める方法を与えようとするのである。
──ジョン・ステュアート・ミル『論理学体系』(アーノルド・トインビー『英国産業革命史』に引用)
なおここでいう「方法論」とは、中立的な技術のくみあわせではなく、
重要な問題・資料源・社会や歴史に関する広大な仮説・学問の目的
といったものの相互関係を意味する。
──シーダ・スコチポル「序文」『歴史社会学の構想と戦略』
いかなる社会体系も─もしくは民族社会も─将来への独占的特権をもっておらず、
そして社会学の問題は、変化の性格と、そして、もし可能なら変化の経路を見極めることである。
すなわち発進させる力、抵抗する力、強化する要素、分解する要素などを見極めることである。
──ダニエル・ベル『脱工業社会の到来』
比較社会学的な研究は、社会構造を解明するのに特に適している。
一つの構造を他の構造と対比することによって、その構造についての「視界」を拡げるからである。
こうしてヨーロッパの封建制は例えば日本の封建制との比較によってもっとくっきりと定義できるし、
西欧文明における教会の意義はそれと比較できるような宗教組織を発展させなかった諸文明
との対比によって、もっと明らかに見ることができよう。このような対比は
何らかの型にならって自国を発展させようとしている人が直面している問題点を確認するのにも役立つであろう。
そして人々がそれぞれの社会に特有の問題にたいして発見した部分的な解決の分析に
この比較の展望を用いることによって、社会構造の歴史の次元を眼前に浮べることができるようになるのである。
──ラインハルト・ベンディックス『国民国家と市民的権利』
哲学者や思想史家は、いまだに、思考の生成を内在的発展であるかのように、
もっとわかりやすくいうならば、思考の歴史が一つの記述された書物から他の書物へと
その道程をたどるかのように表現している。
ところが社会学者は、一見いかにも生活の戦場からまったく離れて、
書斎(ここから無時間性、無空間性の欺瞞が生まれる)のなかで成立するような労作をも、
それを超えたより包括的な体験関連の部分としてしめすという逆の見方にひきつけられる。
──カール・マンハイム『保守主義的思考』
ある問題が、社会的にみて政策的な性格をそなえているということの標識は、まさしく、
当の問題が、既定の目的からの技術的考量にもとづいて解決されるようなものではなく、
問題が一般的な文化問題の領域に入り込んでいるために、
ほかならぬ統制的価値基準そのものが争われうるし、争われざるをえない、というところにある。
そのさい、統制的価値基準は、今日好んで信じられているように、たんに「階級的利益」の間で争われるばかりではなく、
むしろ、世界観の間でも争われる。
──マックス・ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』
一般に、研究者はある結果を予測しても良いが、絶対に信じてはいけない。
常温核融合はもちろん、UFOでも心霊現象でも、科学的研究の対象になる。
しかし、それをあらかじめ信ずる者はその研究者になる資格がない。
人間は、何かを信じてしまうと、客観的な観察も考察もできなくなるからである。
──上田良二「常温核融合、"追従"から"自主"へ」
こうしたあまり類のない、第三者にはおよそ馬鹿げてみえる三昧境、
こうした情熱、つまりいまいったような、ある写本のある箇所について
「これが何千年も前から解かれないできた永遠の問題である」として、
なにごとも忘れてその解釈を得ることに熱中するといった心構え─これのない人は学問には向いていない。
そういう人はなにかほかのことをやったほうがいい。
なぜなら、いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである。
──マックス・ヴェーバー『職業としての学問』
大勢のアマテュア作曲家がいる(事実、極めて多数である)。
アマテュア作曲家とは、《綺麗な楽想》を発見して、それを五線紙の上に書きとめることができる音楽家の謂いだ。
稀有で独創的なふしまわしとか、興味深い和音、《面白い》リズムの断面、
《未知の楽器》の音色など、この種の要素を一つなり幾つかなり見つけ出すのは、
音楽を書く人間ならほとんど誰にでもできる。
ピアノを一本の指でたたいて旋律を手探りする《完全な》アマテュアから、
机にむかつて《対位法をいじ》れる《訓練された》アマテュアにいたるまでの、まず誰でもができるのである。
本当に音楽をつくることを知っている作曲家は、
こうした連中のかたわらに、ほんの僅かいるにすぎない(何時だつてそうだつた)。
両者の相違はこうだ。
アマテュア作曲家は、語彙と措辞法の要素をみつけて、彼らなりにあやつる。
これに対し真の創作家は、「音楽で考える」。
作曲上の問題を設定し、次いで彼らの革新が細部を対象とするのではなく、
音楽創作の観念そのものを改めて問うことであるような仕方で、それを解決するのである。
そこでの努力は、あれこれの部分的な要素の発明を目的とはしない。
新しい想念が表現できるような、全く新しい組織の創造をめざしている。
──ルネ・レイボヴィッツ『現代音楽への道』(L'evolution de la Musique)
自由な社会は、たえず過去の伝統と目指すべき未来像に照らしながら、
現在の現実について考え、討論することを必要としている。
──ロバート・ベラー『心の習慣』
現代が必要としているのは、人間生活の基本的な諸価値を現代自身の条件と欲求として再確認することである。
伝統はわれわれを失望させるし、伝統に頼ろうとすれば伝統はわれわれを裏切るであろう。
個人の自由という原則を放棄するのではなく、それを再生しなければならないのである。
いかに歴史の靄が歴史上の社会の諸悪をわれわれの目から隠してくれたとしても、
われわれは過去の社会を復興させることはできない。
得られるかぎりの過去の教訓と警告から学びつつ、われわれの力で社会を再建しなければならないのだ。
──R・M・マッキーバー「序文」(カール・ポラニー『大転換』)
人間は衰運に際会し又は自己の事件について失望せざるを得ないような状態になると
(或る人々の考えるように)自ら起こると気づいた災難を防ごうと、
ますます努力して力めるものではなく、むしろ反対に一切の努力についてますます気力を失い活力を減ずる、
そして事態を救治し得る方法を企てまたは実行しようとはしない。
こう考えて、国家の一員としての私は、
先ず吾々の共同の利害が如何なる状況にあるかについて精確な真理を知り、
次に、いろいろの疑いある場合には、その最も有利な方を考えようと思う、
従って社会の福利に対する私の希望を減殺する傾きのあるような一切の事項は、
これを注意深く検討し、強い明らかな根拠を見出さない限りは、みだりに失望しないつもりである。
──ウィリアム・ペティ『政治算術』
学者は実際を知らず、実際家は学問を知らず、政治は産業を離れ、産業は社会に背く、
是実に産業革命の波濤に漂へる現代日本の悩みではないか。
吾人は此混沌裡にあって、企業より社会を望み、社会より企業を覗ひ、
眼前の細事に捉はれず又空想の影を逐はず、大所高所より滔々たる時勢の潮流を凝視して、
世界に於ける新日本建設の原理を探らんとする。
吾人の悪む所は虚偽と雷同とであり、吾人の戒むる所は煩瑣と冗長とである。
吾人が訴ふる所の読者は純真にして且聡明なる満天下の青年識者である。
──上田貞次郎「企業と社会」(大正15年4月創刊)毎号巻頭
人の子に生まれたる者、孤島にはあらざるなり。
人はすべて等しく大陸の一部なり。本土の一部なり。
一塊の土、海に喰わるれば、ヨーロッパ大陸の浸食さるるところ、
大いなる半島の海に飲まるると異ならず、
隣人の屋敷、否、わが屋敷の飲まるると異ならざるなり。
一個人の死は、わが身をも浸食するものなり。
われもろびとにかかわりある身なればなり。
されば弔いの鐘の鳴るや、しもべを送り弔わるるは誰ぞやと問うことなかれ。
弔わるるは、汝自らでもあればなり。
──ジョン・ダン「瞑想」(ロナルド・ドーア『21世紀は個人主義の時代か』序文に引用)