絶対を相対化し、もっと大きな問いへ−最相葉月『絶対音感』書評

 

 

『絶対音感』はすでに13刷をかぞえ、33万部のベストセラーになっているという。書籍部にも、うずたかく積みあげてある。帯には「それは天才音楽家へのパスポートなのか!?」とある。絶対音感をもたざる評者は「どうせもてる者が書いたイヤミな本だろう」と思って読まずにいた。一方、絶対音感をもっている人のなかには、タイトルを聞いて「何をいまさらわかりきったことを」といった反応を示す人もいる。それが「いまさら」どころではないのだ。

これは、絶対音感のたんなる解説書ではない。絶対音感を切り口にして、教育や、国家や、戦争や、家族内権力や、文化階層の問題や、さらには日本の文化のおかれた歴史的状況といったことまでが探究され、印象ふかく語られるのだ。「絶対音感教育とは、いうなれば、西洋音楽の伝統あるいは環境といった外的要因のほとんどなかった日本の音楽家が、異文化を一刻も早く受け入れるためにはどうすればよいかを考えに考えて生み出した、アクロバティックな一方法論だったといえるのではないだろうか」。こう著者が書くとき、絶対音感の絶対は相対化され、そのむこうに「人にとって音楽とは何か」という、もっと大きな問いが姿をあらわす。

著者は絶対音感をもっていないそうで、信じがたいのだが、取材を始める直前の1996年冬まで「絶対音感」という言葉さえ知らなかったというのだ。友人が何げなく口にしたその言葉の語感に引かれ、「そもそも曖昧であるはずの人間の感覚が『絶対』とは何なのか」と疑問に感じて調べはじめたのだという。そして、100人を超える音楽家や科学者にインタヴューや質問紙調査を行ない、さらに音感教育の歴史から認知心理学や脳科学の知見にいたるまで調べつくした。著者が絶対音感をもっていたら、あるいは絶対音感についてはじめからよく知っていたら、この本を書けなかったはずだ。

「絶対音感」の辞書的な定義は「ランダムに提示された音の名前が言える能力」だそうだが、評者には、著者のすぐれた社会学的想像力(ある素材を通じて文化の全体状況を言いあてる能力。すべての社会学者がもっているわけではない)のほうが、絶対音感をもつことよりもうらやましく思える。音楽にかんする社会学的な分析としては渡辺裕氏の『聴衆の誕生』(1989年,春秋社)や長木誠司氏の『第三帝国と音楽家たち』(1998年,音楽之友社)などが思いつくが、これらアカデミズムの内側の作品は外国の流行を追いかけたという感じで、いま一つピントがずれているような気もする。『絶対音感』の著者のほうが、専門家でないぶん自由自在に、私たちのおかれている状況の謎を解き明かしてくれている。

 

(1998年10月30日。初出「ほん」誌。最相葉月『絶対音感』小学館)

 

 

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