上田良二「明治180年の夢――あとがきに代えて」



結晶学と縁の深い、菊池正士〔1902〜1974〕の電子回折の実験と茅誠司〔1898〜1988〕の強磁性単結晶の実験は、ともに1928年の発表である。少し遅れるが、湯川秀樹〔1907〜1981〕の中間子理論(1935年)も同時代のものと見てよかろう。これらはいずれも、彼らに続いた後輩たちの憧れの的となった。

私は不思議なめぐりあわせで菊池先生の残された電子回折から始め、電子顕微鏡に進み、表面・微粒子の結晶学的研究をして、50余年の研究生活を終わった。その間、われわれは一応の水準を保ったが、菊池先生の右に出る者は現われなかった。ところが最近この分野から、菊池先生の右にせよ左にせよ、国際的に牽引力のある研究業績が出始めた。

菊池や茅の業績はおよそ明治60年にあたり、最近の業績が出始めたのが明治120年である。日本で近代的な自然科学が始まったのを明治元年とすると、60年ごとの区切りがあるらしく思われる。

私の知らない最初の60年間にも、国際的に評価される業績を残した日本人科学者はいる。しかし、彼らは西欧に留学してその伝統のもとで研究したのだから、彼らの業績を日本人自身のものとは言い難い。彼らの業績はむしろ、日本人にも自然科学の研究能力があることを示し、後輩を激励した点にある。日本人科学者が欧州に留学したとき、次は猿が来るだろうと言われた時代のことは、今の若手には想像もつくまい。

菊池、茅、湯川などは、西欧の学者に師事することなしにあの業績を挙げたのである。これが明治60年の節目を画した。しかし、当時の研究題目自体は欧米の産であり、日本への直輸入だったのである。だから、輝かしい業績も、もとを正せば日本の地盤で生まれたものではない。彼らの実験装置に輸入品が多かったことも見逃せない。例えば、菊池の回折装置は理化学研究所の工作室で作られたが、真空ポンプはすべて輸入品だった。西川正治〔1884〜1952〕が留学以前の1915年にスピネル結晶の構造解析に成功したのは、例外的な前兆と見るべきだろう。

今日の日本は、60年前に比べれば自然科学の地味が肥えてきた。電子顕微鏡を例にとると、50年前は模倣だったが、今日では日本的な精巧美さえ見え始めた。そのなかに菊池以来の伝統が生きており、最近の研究が展開されている。これを日本の地に根づいたと言ってもはばかることはない。さりとて、基本的なことになると、古いところはやむを得ないとしても、最近のSTMにいたる多くのものを欧米に負っている。根づいたと言っても、その根が大して深くないことを忘れてはならない。

自然科学に国境はない。世界中で自分に最も適した研究室に行って自分の能力を最大限に発揮すべきだ、と言う人もいる。そのような人こそが、本当の自然科学者なのかもしれない。しかし私は、島国根性と評されても、日本にこだわり続けてきた。日本国内の教育には、及ばずながら努力した。また、外国の新しい流れに便乗する研究態度には今も批判的である。外国の新分野の輸入を嫌うのではない。他人のふんどしで根のない仕事をし、「追い越した」などと言って実力以上に自負することを、日本人として戒めたいのである。

日本の研究者の優れた能力は、60年ごとの進歩を見ればすでに証明済みである。今後は身のほどを知り、謙虚であってほしいと心から願っている。それさえ忘れなければ、さらに60年後には、日本に深い根を張った自然科学が茂り、日本の香りのする自然科学が輸出される日が来るだろう。それが、私の描いている明治180年の夢である。

(原題「明治一八〇年の夢」。「日本結晶学会誌」第34巻第3号、1992年)


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