上田良二「デュプイ博士と私」


私は昭和361961)年度に東レ科学振興会の研究助成を受け、50万ボルト超高圧電子顕微鏡の建設を行なった。この仕事のおかげでフランスのデュプイ博士(Gaston Dupouy19001985)の知己を得たことは、私の一生の幸せであった。人から博士のことを聞かれると、私は「茅誠司先生(18981988)に大蔵省を付けたような人」と答えることにしていた。私より10歳年長で、年齢も茅先生に近い。CNRSCentre national de la recherche scientifique、フランス国立科学研究センター。フランスの科学研究の中央機関で、総裁は研究費の配分に大きな権限を持っている)の総裁を数年間も務め、引退の直前に自分の専門の電子光学の研究所を自分の出身地のトゥールーズに創設し、自分で所長に就任した人である。

1958年に新設まもないこの研究所を訪問した時、「私は自分の50歳代を管理の仕事で無駄にしたから、これから、この手で研究をするのです」と言って、両手のひらを私の目の前に広げ、大げさなポーズをとった。いま思い出すと彼の眼光には迫力があったが、その時は「この親父、大きなことを言っても所詮は管理に終わるだろう」と密かに嘲った。彼が「この手で」と強調した研究の目玉が100万ボルトの超高圧電子顕微鏡で、そのために白銀に輝く球形実験室が建てられていた。

私が超高圧電子顕微鏡に興味を覚えたのは、それから23年も後のことである。デュプイさんの考えは至って簡単で、電圧を上げれば電子の透過能が増し、熱い試片が見えるようになる、というだけだった。しかし、日本のお家芸の電子回折理論によるとそうはいかない。100万ボルトともなると相対論効果で電子の質量が増し、透過能は飽和するはずなのである。橋本初次郎氏は、京都大学の30万ボルト電子顕微鏡でこの傾向を確かめた。私はこの理論を100万ボルトで試したいと思い、予備実験で測定技術を改良し、デュプイさんにこの測定の重要性を説得した。彼は私の意見を容れ、フィラデルフィアの国際電子顕微鏡会議(1962年)のあとで私をトゥールーズに招待した。

フィラデルフィアでのデュプイさんの発表くらい私に深い感銘を与えた講演はない。満場の聴衆を圧倒したと言っても過言ではなかった。装置の話では桁外れの規模の大きさにため息がもれ、電子顕微鏡写真の美しさには投影のたびに拍手がわいた。それを終わったデュプイさんは、さすがに重荷を下ろしたという表情で、「トゥールーズに来たらゆっくり実験して下さい」と言われた。

私は初めて大西洋上を飛んでフランスに向かったが、飛行機がパリに近づくと、「コノヒコーキハ、マモナク、オルリーヒコウジョウニツキマス」と日本語の機内放送があった。驚いてあたりを見まわしたが、日本人は私一人だった。ところが、飛行機を降りて荷物が出るのを待っていると、にこやかなデュプイさんが現われて、「今の日本語はわかりましたかね?」と聞かれた。狐につままれたようにポカンとしていたら、種あかしがあった。「君の便名を調べて、同じ飛行機(ただしファーストクラス)で来たのです。日本語の話せるスチュワーデスがいたから、重要なお客様にサービスをさせました」、と。

研究所ではデュプイさんの命令で、電子顕微鏡写真を撮るたびに、加速電圧を3桁目まで書き込むことになっていた。当時、日本での精度はたかだか2桁だったので、3桁目は怪しいと思い、菊池図形による加速電圧の精密測定をやってみた。この方法の原理は30年も前に西川正治先生(18841952)に習ったものだが、世界の誰も試みたことがなく、もちろんデュプイさんが知るはずはなかった。日本人の奥の手で、世界に名を轟かせた大先生の見せかけの精度を暴いてやろうと企んだのだ。ところが驚いたことに、書き込まれた数字はいつでも大体正しかった。そこでこの隠しごとを白状すると、デュプイさんは、「私を信用しない人も多いようだが、上田さん、君は信用してくれるのですね」と御機嫌だった。その後いろいろなことがあったが、私はデュプイさんを信用するだけでなく、心から尊敬するようになった。

名古屋大学の50万ボルト超高圧電子顕微鏡の実験室とデュプイさんの100万ボルト超高圧電子顕微鏡の球形実験室を比べると、誰が見ても雲泥の差がある。それでも私は「これで身分相応」と満足だった。その理由は説明を要する。デュプイさんは電子顕微鏡で厚い試片を観るという夢を持っていた。そのなかには生きた生物を観ることも含まれていたようだ。それは達せられなかったが、厚い試片を観るという夢は実現し、特に金属結晶の欠陥の観察では後の研究者に大きな道を開いた。他方、私は理論や技術の進展に目を配りながら仕事を始めた。デュプイさんは夢で、私は知識で計画を立てた点が大きく違うのである。デュプイさんのやり方は、フランスでさえしばしば「はったりの強引」と評されたそうで、日本には類がない。日本人は研究を知能でするものと思っているが、研究が未知の世界への探究である限り、それだけでできるものではない。理論も技術も混沌とした時点で研究を始めるには勇気が要る。デュプイさんが彼の夢を実現できたのは、その勇気を持っていたからである。知能だけでは、上手な二番煎じはできても創始者にはなれない。デュプイさんに接して、彼の勇気が、幸運を信じて失敗を悔やまぬ楽天性に裏づけられていると感じた。彼の人並み外れた努力や周到な計画については語るまでもない。

(東レ科学振興会編『科学振興二十年――財団設立20周年の記念誌』、1981年)


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