上田良二「超微粒子──未来技術はいかにして生まれるか」



発端は必中爆弾の計画

未来技術というと、何かSF的な感じがする。現在の宇宙技術やコンピューター技術も、かつては未来技術だったといえる。同じ未来技術といっても、これから述べる話は四桁も五桁も小さなものである。そんなささやかなものでも、日本で生まれ日本で育った技術は少ないから話の種になるのだ。冗長なところもあるが、私の昔話から始めることにしよう。

戦争が始まった頃のことだ〔註:『上田教室日記V』によると、第七陸軍技術研究所の研究会で藤岡氏から依頼を受けたのは19441024日と思われる〕。30年以上も前で記憶も薄らいだが、当時学会のリーダーの一人だった藤岡由夫先生〔1903〜1976〕から手紙をいただいた。戦争を必勝に導く必中爆弾の計画に協力しないかとのことだった。船ならば煙突、飛行機ならばエンジンから出る赤外線を検知して、自動的にその線源に向かって進む爆弾を作るという計画〔註:「まるケ」(決戦兵器の意)という暗号で呼ばれた。ケ号爆弾とも〕である。問題は赤外線の感知器、つまり自動誘導の目に使う煤にあった。

普通の煤(カーボンブラック)は、可視光をよく吸収するが赤外線には透明で、目の役は果たせない。当時の文献によると、その役に立つのが亜鉛の煤だった。これを試みたところ、製作直後はよい性能を示したが、数日後には劣化して使いものにならなくなってしまった。それで困っているから、その原因を私の専門の電子回折で調べてくれ、と頼まれたのだ〔註:「現在、熱を入れている金属微粒子の研究も、源をただせば陸軍第七研〔第七陸軍技術研究所。物理的基礎研究を課題とした。所在地は大久保百人町〕の研究課題だった。藤岡先生(藤岡由夫)の御指示でその報告をした時、主任者の竹下中佐(竹下俊雄)から「将来のために」と激励されたのを思い出す。」上田良二「電子回折と電子顕微鏡──過去四十年の回想」日本物理学会編『日本の物理学史・上──歴史・回想編』(東海大学出版会,1978年)457頁〕。

私はそれを引き受け、協力者の紀本和男氏〔1916〜2004〕とともに実験を始めた。亜鉛の煤を作るには、減圧した空気中で金属亜鉛を加熱蒸発する。そうすると、あたかも不完全燃焼のように煙が出て、器壁に真っ黒な煤がつく。それを電子回折して分析してみた。それは金属亜鉛のみでなく、酸化亜鉛や酸化タングステン(これは加熱用に使ったタングステン線から出た)などを含んでいた。

こんなに複雑では性能劣化の原因はつかめないと思い、純粋な窒素中で亜鉛煤を作ってみた。そんなことをしている間に戦争は終わってしまったが、この研究が面白かったので終戦後もそれを続けた。そして、窒素中で作った亜鉛煤は金属亜鉛の超微粒子であり、製造条件により、粒径を100オングストローム〔10ナノメートル。100万分の1センチ〕以下にすることができることを確かめた〔註:上田良二・紀本和男「陰極線廻折法による亜鉛煤の研究」『應用物理』第18巻,第2-3号(1949年)〕。

それから10数年もたったある日のこと〔1962年〕、理論物理学者の久保亮五氏1920〜1995〕に会い、氏が研究中の金属微粒子の話を聞いた。金属の粒子が小さくなって、径が100オングストローム以下になると、普通の金属とは全く違う性質が予期されるというのだ。私は大いに興味を感じ、実験的証明はどうするのかと聞いたところ、久保氏はいとも簡単に、実験は実験家のすることだと答えた。「さすがに一流の理論家のいうことは違うな」と妙に感心すると同時に、10年前の亜鉛煤のことを思い出し、実験試料は私が作ってみせると約束した。私は研究室に帰ると直ちに、技術員の野々山実氏とともに実験を始めた。

われわれがこの研究を休んでいた10数年間における電子顕微鏡の発達は、実にめざましいものであった。以前には電子回折という方法で平均粒径を間接的に推算していたのだが、今や電子顕微鏡で粒子の一粒一粒を直接に見ることができたのだ。もっとも、電子顕微鏡だからといってそんな小さなものが簡単に見えるわけではなかったが、野々山氏の技術がよかったので、素晴らしいものを次々と見ることができた。

驚いたことに、煤の粒の一つ一つが美しい結晶なのだ。例えば、マグネシウムは六角板、クロームは立方体、鉄は菱型十二面体といった具合なのだ。水晶や岩塩や方解石が美しい結晶であることは誰でも知っているが、こんな美しい金属の結晶を見たのはわれわれが最初だったのである。それで私は満足し、最初の目的だった久保理論の実験的証明は忘れてしまった。しかも、超高圧電子顕微鏡の建設という大きな仕事と取り組まねばならなかったので、結晶形態の研究は古い友人の紀本氏に引き継いでもらった。

ところが、久保理論を本当に証明しようという野心をもって、和田伸彦氏が早稲田大学から名古屋大学の私の研究室にやってきた。ちょうどその年(1963年)の夏に、野尻湖畔で第1回の茅コンファレンスが開かれた。この会議は茅誠司先生1898〜1988〕の御退官を記念して始められ、毎年一回開かれている。先生ご夫妻をお招きし、家族もともに参加して、三泊四日のスケジュールでよく学びよく遊ぶ会である。

1回の話題は、先生の専門の磁性だった。私は先生の弟子でもなく磁性の専門家でもなかったが、この会議に参加して、自由時間に飛び入りで鉄やニッケルやコバルトの結晶の電子顕微鏡写真をスライドで紹介した。そこで紹介した強磁性金属の粒子は学問的にも応用的にも重要なものなので、私は誰かが興味を示してくれるものと密かに期待していたのだ。

その反響は、私の予想をはるかに上回るものとなった。当時まだ大学院生だった田崎明氏〔1934〜〕が手をあげて、この微粒子の研究をさせてくれと申し出たのだ。そして夢を描いた和田、田崎の両氏が互いに協力して、いろいろの計画を進めることになった。それが今から12年も前のことになる。その後いろいろなことがあったが、もしこの二人の協力がなかったら、私の超微粒子研究は今日のようには発展しなかっただろう。


神の創造物へ探検開始

前回はことの始まりから、二人の若手、和田、田崎両氏が現われたところまでを述べた。当時のことをもう少し回想してみよう。

超微粒子はとても美しい神様の創造物である。神様はそれを人目につかぬように、そっと暗闇のなかに隠しておかれた。そこに賢人が現われて、その暗闇のなかに美しい宝があると予言した。それに勇気づけられた私は、電子顕微鏡という懐中電灯のようなものを持ち出して、そのささやかな光で暗闇の一隅をのぞいてみた。すると、キラキラ輝いた貝殻のようなものが見えたのだ。私はその美しさに驚いて、古い友人にそれを見せた。彼もそれに魅せられてさらに多くの貝殻を集め、世界に一つしかない美しいコレクションを作りはじめた。

しかし、神様が暗闇のなかに隠されたものは、ちっぽけな貝殻だけではなかった。もっと美しく、そして壮大な山や川があった。そこに二人の若者が現われて、貝殻に満足していた私に、その山や川への探検を勧めた。世の中のわずらわしい仕事に疲れた私は、彼らの夢の探検をためらっていた。それでも彼らは、私をみこしに乗せてかつぎ出してしまったのだ。

私は振り落とされはしないかと青くなって、つかまっているのが精一杯だった。私が怖がったのにはそれ相当の理由があった。彼ら二人は、ぜんまいはしっかりしているが、歯車のかけた時計みたいに時々狂うことがあるからだ。ある日のこと、二人が大阪で実験をし、大成功と電話で知らせてきた。しかし、その結果は常識では考えられない大発見だったので、秀才どもがニヤニヤしているうちに、間違いとわかって大笑いになってしまった。

さて、みこしがかつぎ出されたといったが、それはアカデミックな研究ではなく、技術開発であった。さきの二人、特に田崎氏は磁気の専門家なので、われわれの作った強磁性合金のコナ(超微粒子)を利用して従来より高い性能の磁気テープを開発する案を、新技術開発事業団〔現・科学技術振興機構〕に持ち込んだ。その調査課に同年輩の若手、千葉玄彌氏1933〜〕がいて、二人組が三人組になった。そして勇ましい意気込みで計画が出発したのだ。

もちろん国から大きな援助を受けるこの種の計画は、軽々しく承認されるものではない。いくら調査課の若手ががんばっても、計画が出発するには大家の揃った委員会を通過しなければならない。幸い、それを説得できるだけの基礎資料は、二人の数年間の努力でできていた。われわれは亜鉛煤に始まるこのコナの製法をガス蒸発法(不活性ガス中で金属を蒸発する方法)と呼んでいるが、最初は数ミリグラムしかできなかった。和田氏はプラズマフレームによる加熱法を年がかりで開発し、数グラムできるまでにしてあった。また一方の田崎氏は、数種の金属のコナの磁気的性質を測定していた。

これらは、将来の開発の基礎的資料として欠くことのできぬものだった。しかし私の考えでは、まだ工業的開発の段階に至ってはいなかった。一応の基礎資料はととのったとしても、中間プラントに行く前に実験室で試作品を作り、その特性を十分に調べ、製造工程も検討したうえで、次の段階に進まねばならないと考えていた。

本来ならこの種の開発研究は、国立の試験所や会社の研究所で行なうべきであろう。しかし日本では、そんな研究を取り上げるところはどこにもないのだ。なぜかといえば、現在進行中の仕事だけで手一杯である。新しい計画を取り上げるのは先進国の進歩を見てのっぴきならぬときに限られている、といっても過言ではないからである。

そんな事情だから、グズグズしているうちに米国あたりで開発が始まれば、日本よりはるかに速いスピードで進んでしまうだろう。そんな懸念もあって、実験室段階での不十分さは承知のうえで、事業団はこの計画の実行に踏み切ったと考えられる。そうなれば、やはり私がまとめ役に立たなければならない。私がみこしの上で震えていたという理由の一つは、こんなところにもあった。むろんそれは私の気が小さいからで、管理に堪能な気の大きい人なら震える必要はなかったのだ。

他方、アカデミックな方面の研究も徐々に進展していった。和田氏は仲間の研究者の協力を得て、久保理論を確かめる実験を始めた。それが直接の契機となったかどうかは定かでないが、しだいにその方面の論文が出るようになった。名古屋大学だけでなく、東大、阪大をはじめ、外国でも同じような研究が始まった。

また、私には意外なことだが、天文学者や地学者がこのコナに非常な関心を示した。宇宙や太陽や地球がいかにしてできたかという気の遠くなるような話と、このコナとが関係しているのだそうだ。工業開発のほうも、磁気テープだけでなく、多くの有望なものが考えられるようになった。こうなると、もはや神様の暗闇のなかにもヘッドライトが交錯し、美しい創造物がつるはしを持つ山師たちによって掘り返されはじめた。

1960年代の終わりに私は、重荷だった超高圧電子顕微鏡の仕事を後進の実力者に任せ、大学院生たちとこのコナの研究に集中するようになった。彼らは全く新鮮な感覚で、コナの生成機構を研究しだした。第4図〔略〕は、ガス蒸発法によって金属超微粒子の煙が発生したところである。こんな簡単な写真が、マンネリ化しかけた研究に新風を吹き込んだのだ。若者の創意こそ高く評価すべきものである。


金属微粒子で水素貯蔵も

前述のように金属超微粒子が山師たちによって掘り返されはじめた現実は、すでに未来技術と呼ばれる時期を過ぎたことを示している。10年前に、夢を描いた若者たちが自分らの未来技術について相当のホラを吹いたものだ。私はそれを聞くたびにハラハラしたが、今から考えれば彼らこそ誠に立派だったといわざるをえない。

見通しがつきかかってきた今ごろになって私がホラを吹けば、それは滑稽至極である。近代的な山師というものは、学問のうわ澄みをすくって、それが金もうけにつながるかどうかの算盤をはじくものだ。彼らは超微粒子の工業的開発について、私よりはるかに多くの情報と優れた見通しをもっている。私は、彼らから流れる情報を漏れ聞いているに過ぎない。しかし、応用の見通しを省略してこの話を終わるわけにはいかないから、そのさわりだけを紹介しておこう。

《化学触媒》
白金やその他の金属の微粒子が触媒に使われることは、よく知られている。われわれがガス蒸発法で作ったコナも例外ではない。今から10年前にすでにわれわれのコナに着目してこれを実用化し、商売している頭のよい人がいる。しかし、これは少量で足りる場合であって、自動車の排ガス処理や、重油の脱硫などを含めた大きな化学工業には、もっと大量のコナが必要である。

触媒の研究は秘密のカーテンで覆われているから、何が試みられているか、われわれにはわからない。最近は公害がやかましいから、そのおそれのある化学的製造法を避ける傾向にある。一方、われわれのガス蒸発法は全くの物理的方法で廃棄物をともなわないから、将来性があるかもしれない。

また、触媒としてではないが、金属微粒子が将来のエネルギー源として期待される水素の保持に利用されている。プロパンガスなら圧縮液化してボンベに詰めておけるが、水素はそうはいかない。そこで、水素を金属微粒子の表面に吸着させておき、必要に応じて吐き出させるのだ。何年かの将来、すべての燃料が完全無公害の水素になったとき、われわれのコナが一役を演ずるといえばホラになろうか。

《磁性材料》
磁気テープの話はすでに紹介したが、いま開発が進んでいるのは録音用である。われわれのコナは性能も高いかわりに値段も高い。したがってもっと高級な用途、特に計算機に適しているそうだ。強磁性のコナを固めて、ばかに強い磁石を作るという話も聞く。また、強磁性流体という面白いものがある。宇宙服の首が自由に回っても空気が漏れないのは、枠が磁石でできていて、そのすき間を強磁性流体でシールしてあるからだ。われわれのコナでそれも作ることができそうである。

《電気材料》

最近の計算機はますます小さくなってきている。その回路は高級な導電性インクで印刷して作られるが、そのインクには銀その他の金属の超微粒子が必要である。この用途は比較的早く実現するかもしれない。

電気材料は他にもいろいろあるが、目立ったものに超電導材料がある。超電導というのは、金属を極低温に冷やすと電気抵抗がゼロになる現象である。目下計画中の第二次東海道新幹線にはこの現象が利用されるとの話もあって、これの利用はまさに未来技術の一つといえる。その材料の製造にわれわれの方法が使われる可能性がある。

《粉末冶金》
従来の粉末冶金では粒径ミクロン(1000分のミリメートル)以上の粉末を使っている。したがって、それを押し固めるには、ものによっては相当の高温、高圧を必要とする。われわれのコナを使えば、粒径がはるかに小さいので、より低い温度、圧力で焼結できる。特に超硬材料などにこれが使われることになるだろう。

《ロケット燃料》
現在、アルミニウムの微粉が使われているとの話である。その目的にはわれわれのコナが優れている。採算さえ解決できれば、まず確実に利用されていくだろう。…

このように数えあげていけば、塗料や潤滑剤など、まだまだいろいろなものがあがってくる。そのなかには、実用に近いものからホラに過ぎないものまである。いずれにしても、各々の利用の状況に応じた技術的問題の解決が必要である。

われわれの方法は、たんに金属を溶かすだけでなく蒸発させるのだから、膨大なエネルギーが必要である。したがって、技術的には優れていても、経済面がネックになる。それでも12年前に数ミリグラムしか作れなかったものが、年前には数グラムになり、最近の開発で現在は数キログラムにまでなっている。さらに6年後には数トンにしてみせるという大山師もいる。そうなると、日本のような電力料金の高い国では採算がとれないから、外地に立地条件のよいところを探しているという話だ。

私は、神様の美しい創造物が山師たちによって掘り返されたとしても異議はない。本来、神様は自らの創造物に縄を張ることをお許しにならないからである。しかし、金もうけだけを目的とする人間に、美しい環境まで破壊されてはかなわない。

外国の技術を導入するには膨大な特許料が要るが、勤勉に働きさえすれば成功はまず間違いがない。他方、日本で新しい技術を育てるには勤勉だけでは不十分である。失敗をおそれて自らは手を下さず、他人の仕事が成功しかけたときに素早く横取りしようとする者がいたら、それは人間として許すわけにはいかない。


独創力、着想力伸ばす教育を

以上、私の超微粒子研究がささやかながら夢のある未来技術であること、そしてそれが実用に近づくにしたがって、井の中に住む大学人の守備範囲を越えていくことを説明した。それで最終回は、私の守備範囲内の教育について所感の一端を述べることにしたい。

一つの技術が基礎研究から工業化に達するには、多くの段階を経ねばならない。第一段階は技術のきっかけになる現象の発見であり、第二段階はその現象を工業と結びつける着想である。発見は独創的な研究者によって、着想は勘のよい技術者によってなされる。第三段階は、その着想を確かめる研究である。これは独創者たちを含め、ごく少数の研究者で行なわれる。そのようにして一応の見通しが立つと、計画的な技術開発が始まる。その前半、つまり第四段階は実験室で、後半、第五段階は中間工場で行なわれることになる。

独創力や着想力が本当に必要なのは、第三段階までであろう。もちろんどんな技術者にも創意工夫が求められるが、第四段階以降になると、計画の指導者は、独創力よりも円満な人格と技術的常識の持ち主が適格者だといえる。その下で働く技術者も、新鮮な着想をもつ人よりも、指導者の指示にしたがって間違いなく開発を進めていく人のほうが望ましい。

私は、第一、第二段階の独創力や着想力を「ぜんまい」に喩えている。いわばこの「ぜんまい」に蓄えられた力を起動力にして、第四段階以下の「歯車」が動くのである。起動力の方向が正しく「歯車」が正確なら、開発は成功するだろう。しかし、技術的に成功しても経済性で日の目を見ないことがあるから、開発の管理者は、技術、市場の両側面から情報を集めて、第二段階以下の適当な場所にフィードバックする必要があろう。

私は評論家気取りでこれを論ずる気は毛頭ない。本職の教育を考えるために、自分の経験を整理してみただけである。まえおきが長くなったが、以下、本論に移ろう。

日本で未来技術を開発するには、少数でよいから独創力、着想力のある人物が必要である。しかしそのような人物は、一定の課程を経れば養成できるという性格のものではない。このような素質をもつ学生は、少数だがはじめからいるのだ。教師は彼らを大切にし、その素質を押しつぶさないように見守ってやればよいのだ。

独創力、着想力に恵まれた人間は、とかく風変わりで強情なものだ。天は二物を与えずというが、得てして協調性や指導力に欠けているきらいがある。教師にも変わり者がいないわけではないけれども、最近は人格円満、学術優秀型が多くなっている。そのようなタイプの教師は、従順で忠実、勤勉な学生が好きで、強情で非協調的な学生は嫌いのようである。

それだけではない。現在の大学では、与えられた課程をよく覚えているかどうかで人物が評価されている。応用問題などといっても、頭の回転さえ速ければ解ける問題だから、小賢しさのテストに過ぎない。つまり、今の大学は「歯車」を磨いて平凡な問題を間違いなく解けるように訓練はするけれども、「ぜんまい」には目をかけてくれないのである。

この傾向はいわゆる一流大学ほど甚だしく、これでは生まれつきの優れた「ぜんまい」までなまってしまうおそれがある。あまり宣伝したくはないが、この話に登場した三人の若者は全員、私立大学の出身である。彼らの「歯車」が必ずしも正確でないことはさきにも述べたが、その「ぜんまい」がしっかりしていたので、臆病者の私をここまでひっぱってきてくれたのだと信じている。

これまでの日本の技術開発は、大部分が第四段階以下の追求であり、さきにも述べたとおり、外国で見通しのついた技術のあとを追うことが多かった。したがって、小賢しく「歯車」の正確な人間さえ養成すればことが足りたのである。現在でも、企業が卒業生を採用するときには、人格的要素を除けばもっぱら「歯車」だけで人物を評価する。「ぜんまい」の利いた変わり者は、むしろ嫌われているといえよう。つまり、大学も企業も、未来技術といわれるような独創的な工業を自分で開発する意志がないのだ。

甚だしい人は、外国の工業を見渡して一番よいところを日本に集め、総合的に開発することこそ日本人の独創である、とまで高言してはばからない。もちろんそれにも一理はあるが、技術者といえども人間だから、自分らの生み出した技術を他人にさらわれて快く思うはずはない。日本が後進的だった時代にはそれも許されたかもしれないが、今やそうはいかない。日本の企業家がいつまでもそんな考えで進むなら、世界中から総スカンを食うことは目に見えているではないか。

心ある企業家はすでにいろいろと考えているようだが、われわれ大学の教師も大いに考える必要がある。学生数の多い学部課程での教育を改革することは容易ではないが、学生数の少ない大学院では、教師の姿勢しだいで独創力、着想力のある人物を伸ばすことができるはずである。

私は来年、定年で退官するからすでに遅すぎるが、最近は努めて自分の姿勢を変えてきたつもりである。少数でよいから、独創力のある人物が夢を描いて社会に出ていけるようになることを密かに期待して、この話を終わることにしよう。

(原題「超微粒子」、日経産業新聞1974122427日)


上田良二「金属超微粒子の応用物理学」(名古屋大学工学部における最終講義、1975年2月20日)(紹介本論ハイライト)。


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