上田良二「電子回折40年」



私は物理以外の人から専門を聞かれると、「電子顕微鏡」と答えることにしている。しかし、それは誰にもわかってもらえるからで、本当は「電子回折」なのだ。電子回折についてもいくつか雑文を書いたが、どれもやや専門的で本書には向かない。それでも一つくらいは自分の真顔を見せたいと思って本稿を書いた。これによって私の研究生活の一面をお伝えできれば幸いである。


初期の研究(1934~1942年)

私は1934年に東京大学を卒業し、すぐに西川正治先生〔1884~1952〕の助手になって電子回折の研究を始めた。西川先生は、X線結晶学の黎明期に最も基本的な道を開いた学者の一人であり、また物理の分野で知らぬ人のない菊池正士の電子回折実験の指導者でもあった。

ちょうど私が研究を始めた年に、菊池先生は電子回折から原子核物理に移ってしまわれた。たぶん、電子回折にはもはや重要な問題はないと考えられたためだろう。私も原子核に興味を持っていたから、山口太三郎先輩のお古の装置で電子回折の実験をせよと先生から言われたときは、正直なところがっかりした。それでも、反射スペクトルを写し、その結果をベーテ〔Hans Albrecht Bethe, 1906~2005〕の動力学的理論で解析した。このような研究法は西川門下では新しいものではなかったが、実験結果を量子力学の難しい理論で説明できたので、終わりのころには大いに得意だった。

その後は電子回折の応用がより重要になると思い、結晶表面での薄膜の成長を積極的に研究した。私の学位論文は、蒸着金属薄膜のエピタキシャル成長――当時、ドイツのキルヒナーが発見した効果――だった。

私は新しい電子回折装置を設計し、結晶面に蒸着を行ないながら回折図形の変化を観察し、次々に撮影できるようにした。これは今日盛んに行なわれている「その場観察」の第一号である。この仕事で得た最も重要な結果は、最初から一様な膜ができるのではなく、島状の微細な結晶が成長することだった。私は電子回折だけからこの結論を出したのだが、ヨーロッパでは10年も後に、電子顕徴鏡の観察で初めてこのことが知られるようになったのである。

私は、エピタキシャル成長の研究を1950年頃にやめてしまった。それは、次節に述べる問題に熱中したせいでもあるが、この現象がエレクトロニクスで今日のように重要になるとは予想しなかったからである。しかし、この分野の研究は日本国内で引き継がれ、今日の若手がじつに素晴らしい業績をあげるに至っている。私は今日でもこの分野に興味を持っているから、彼らの成果を聞くのが楽しみであり、そのきっかけを作ったことに満足している。

昔のことをかえりみると、私の考え方は今日の人たちと全く同じだった。しかし、汚れた真空で実験をし、表面が清潔だと信じて疑わなかったのは、今となっては滑稽と言わざるを得ない。


ダイナミカル・ベスト(1945~1955年)

私は1942年に名古屋大学に移り、そこでまずフリーデル則の反則と取り組んだ。これは三宅静雄〔1911~1999〕が実験的に発見した現象だが、X線回折で重きをなしていたこの法則が電子回折で破れるとすれば、ことは極めて重大である。

この問題は非常に難しかったが、三宅と私は、当時九州大学の大学院で篠原健一教授の指導を受けていた高良和武〔1921~〕の協力を得て、動力学的理論によってついに解決することができた。彼はこの理論の虜になり、九州から名古屋、東京への遠路もいとわず、ほとんど毎月われわれとの討論に出かけてきたものだ。当時の交通事情の困難を思うと、彼の情熱はじつに大したものだった。われわれはその結果を国際誌アクタ・クリスタログラフィカに投稿したが、当時の定説に反していたためになかなか受理してもらえなかった。しかし、今日ではそれは当たり前の常識になっている。

この研究の成功は、われわれの仲間に旋風を巻き起こした。それをわれわれはH・ワイルの「グルッペン・ペスト」(量子力学に群論が導入されたとき、研究者の間にこれがペストのように流行したこと)にまねて、「ダイナミカル・ペスト」と呼んだ。

ここで一言、当時の情況に触れておきたい。それは、第二次大戦後の最悪の時代、食べるにも着るにも住まうにも事欠いたひどい窮乏の時代に、動力学的理論の研究を続けたということである。その貧しさの中でこんな研究ができたのは、優れた多数の大学院生がいたからなのだ。戦時中、日本には特研生の制度があって、優れた学生は兵役を免除され、大学で勉強を続けることができたのである。

ダイナミカル・ペストの第一番目の患者は、もちろん高良だった。これに真っ先に感染したのが、現在、国際結晶学連合の理事長をしている加藤範夫〔1923~2002〕である。彼は、私の研究室で格子定数の精密測定をしてその結果の解釈のために理論的研究を始め、以前には平行平面板にしか適用できなかった動力学的理論を多面体結晶にまで拡張した。そこで私は、その結果をラウエ教授(X線回折の発見者)に送った。その返事が届いたとき、われわれはじつに嬉しかった。その最初の数行は次の如くである。

"Haben Sie herzlichen Dank für freundlichen Brief von 23.4.50 der Sonderdruck von Norio Kato und das Manuskript von Kato und Ihnen! Ich freue mich, dass die Erforschung der Elektronenbeugung auch in Japan betrieben wird, und dass insbesondere die dynamische Theorie dort gepflegt wird."

第三番目の患者は飼沼芳郎〔1922~〕だった。彼は、エピタキシーの研究で注目すべき結果を得た後、菊池パタンの理論をやりたいと申し出た。私は、それが西川先生から受け継いだ最も難しい問題だと話し、相反定理の適用が必至だろうと示唆した。それ以上は何もしてやれなかったが、彼は量子力学の正統的な手法でこの問題と取り組み、多数の複雑な方程式と格闘した後、ついに菊池パタンの強度式に到達した。

それは菊池線に対応する対称的な項と、菊池バンドに対応する反対称的な項とから成っていた。菊池による古典的な解釈では、直接波と反射波とを強度で加えたので、後者の説明がつかなかった。飼沼の理論ではそれらが振幅で加えられていたので、そのクロス・タームとして菊池バンドが出てきたのだ。私は、振幅で加えるといういとも簡単な考えになぜ西川先生が気づかれなかったのかと不思議でならなかった。とにかく、飼沼は私の尊敬する先生が糸口さえつかめなかった難問を解いたのだから、私は彼の業績を最高に評価した。

名古屋での最後の患者は吉岡英〔1922~〕だった。彼は戦争中に鉄の腐蝕の研究をして、不安定な緑色銹を2FeO・Fe2O3・H2Oと同定し、結晶構造を解析した。その後、彼は動力学的理論の問題と取り組んでいたが、全く無口な人で、1953年にプレプリントを作るまで、彼がそんなに重要な理論を開発しているとは知らなかった。彼の理論は専門家の間ではよく知られているから、これ以上の説明はやめておこう。

ダイナミカル・ペストは東京へも広がって、三宅静雄研究室の本庄、美浜、高木夫妻、神戸などに伝染していった。この流行は1955年には下火になったが、なお、藤原、藤本による研究が続いた。

戦後、日本で理論的研究が開花した理由は何か。才能のある学生にとっては、戦前型の旧式装置で実験をするよりも理論的研究のほうが楽だったことは確かだ。しかしまた、私はもう一つの理由を忘れずにつけ加えておきたい。それは、ラウエ、エヴァルト両先生による激励である。私は両先生へのお礼の言葉を知らない。

特にエヴァルト先生は、われわれの論文をじつに念入りに校訂して下さったので、私にとっては西川先生亡き後の本当の意味での先生だったのである。1972年に京都で国際会議が開かれたとき、感謝の意を込めて招待状を書いたが、先生はその返事に次のように述べられている。

"I am touched by your statement that I was of help to the Japanese crystallographers―this help―if needed―would have come from anyone acquainted with the beautiful work on X-ray optics which was performed in Japan. I was perhaps early in recognizing this, owing to the talk you gave us at the Polytechnic Institute in 1950 or 51 (I don't remember which) which was the first time I met anybody who was fully familiar with the details of the dynamical theory (excepting, perhaps, Laue and his group in Dahlem), and who made the detailed confirmation of the theory his subject of research."


結晶のモアレ模様(1950~1960年)

1950年に私は高分解能の電子回折装置を設計した。これは自家製というわけにはいかなかったから、日立中央研究所の電子顕微鏡グループに援助を求めた。

ある日、彼らとの討論の際、このグループのメンバーだった光石知國と長崎博男から石墨の電子顕徴鏡写真を見せられ、その中に現われている指紋のような不思議な模様の解釈を求められた。私はまだ電子顕微鏡の経験はなかったが、一見してそれが未知のものだと確信した。そして、何とかしてその原因を突きとめたいと思い、この模様に取りつかれてしまった。名古屋に帰る列車の中で、私の頭の中にはさまざまな解釈の可能性がひしめき合った。そして、この縞は互いに小さな角をなす二本の電子線の干渉によるものとの結論に達した。

観察された縞の間隔や電子線の波長からその角度を推算してみると、非常に小さく、一枚の結晶ではどうしても考えられない。そこで、二枚の結晶が重なっていると仮定して、何とか解釈をつけることができたのである。そのことを書いた短い論文は、間もなく西川先生によって日本学士院で発表された。

その論文を書いた時点でさえ、私はモアレという言葉を知らなかった。その後、数ヶ月経って届いたG・I・フィンチ教授〔George Ingle Finch, 1888~1970〕の手紙によって、私は初めてこの言葉を知ることになったのである。モアレは元来、織物の言葉で、カーテンなどが揺れると波立って見える模様を指している。じつは止まっていてもよいので、二枚の細い網が重なったところに見える粗い模様である。私はじつにまわりくどい道をたどって二枚の結晶によることを結論したのだが、もしモアレ模様を知っていて薄い石墨結晶が原子の網だと気がつけば、何も難しいことはなかったのだ。当時の電子顕徴鏡では原子の網はとても見えなかったが、その数十倍も粗いモアレ模様が見えたのだった。

結晶モアレの二度目の観察は、大平鉱業研究所の関義辰によって行なわれた。結晶は絹雲母で、この場合は二枚の間の回転角までが正確に測定された。また、二、三年後に、橋本初次郎〔1921~〕が硫化銅の結晶による美しいモアレの写真を提供してくれた。

私は、1956年にワシントンで開かれた電子物理の会議に招待され、電子線の干渉について講演した。その時の司会者はG・P・トムソン〔George Paget Thomson, 1892~1975〕(電子回折の発見者。ノーベル賞受賞)だったが、日本で撮影された多数の見事なモアレの写真を紹介することができて幸せだった。

その後、引き続きハーバード大学を訪問してモアレ模様の講演をしたが、そのときのスクリーンがとても大きかったことが強く印象に残っている。と言うのも、そこに橋本の写真が写された時、目の前のモアレ縞の線が途中で止まっていることに気づいたからである。私は壇上であっと驚いた。この不思議な現象についても、取りつかれたように考えたが、さきのようなまわり道はせずに、それが転位によるものであることに気づき、模型で示した。私はこれをスライドにして内外の講演で何度も見せたが、ムービング・スライドと呼ばれて好評を博した。ついでながら、このハーバード訪問はラング博士〔Andrew Richard Lang, 1924~2008〕の招待によるもので、このときに私は先述の加藤範夫を彼に推薦したのだった。この二人の見事な協力の仕事は、結晶学者で知らぬ人はないだろう。

ハーバードの次は、ペンシルベニア州立大学を訪問した。そこでは粘土鉱物で有名なブリンドレー教授〔George William Brindley, 1905~1983〕に会った。彼は蛇紋岩の一種の岫巌石の電子顕微鏡写真を私に示した。その中に間隔が約100オングストロームの平行な縞模様が見えていた。彼は、それがモアレかと私に尋ねた。私はその像について一晩中考えた結果、モアレではなく長周期の格子の像だとの結論に達した。これが私の見た最初の格子像、すなわち原子の網の像だったから、日本に帰ったら50オングストロームくらいの格子像に挑戦したいと思った。

その構想に胸をふくらませて帰り着いたところ、さっそく見たのがメンター〔James Woodham Menter, 1921~2006〕のあの有名な論文だった。そこにはフタロシャニンの12オングストロームの格子像が見事に写し出されていたのである。それで、私は小さな間隔への挑戦を諦め、そのかわり岫巌石の長周期を使って格子像のコンストラストを研究することにした。図〔省略〕は1958年のベルリン会議に出した写真だが、ピントの合わせ方によって黒白が反転したり、半周期の縞が現われたりしている。この効果は、当時は異様と思われたが、今日では電子顕微鏡家の常識になっている。

その後、電子顕微鏡の分解能の向上にも努力し、神谷芳弘とともに、モリブデナイト上の銀のエピタキシャル膜による間隔17オングストロームのモアレ縞を写した。この結果がバセット〔G. A. Bassett〕を刺激し、私の提供した試料で彼はエピタキシャル成長のその場観察をした。私の以前の研究は電子回折による遂次撮影だったが、彼は電子顕微鏡による映画を撮影したのである。それを見て、私は20年前の夢が実現されたような気がした。バセットの映画は私の夢の実現だったが、最近の日本の成果は夢を越えている。この間にまた、20年の歳月が流れた。


超高圧電子顕徴鏡建設の発端(1961~1970年)

1961年に京都で開かれた結晶学会議で出席者の注目を引いた問題の一つに、結晶中での電子線の吸収があった。これは理論的――吉岡や藤原の理論による――で実験家には難解なものだったが、それがとりわけ金属物理学者の関心を引いたのは、背後に超高圧電子顕微鏡があったからだ。

普通の電圧(10万ボルト)では吸収が大きく電子線が透過しないから、極めて薄い試片しか見られない。そこで電圧を上げることにより、吸収を減らしてより厚い試片を見てみようというのが超高圧電子顕微鏡の発想だった。

この考え方に基づいて多くの努力がなされてきたが、どれも見るべき成果を得られぬままに終わっていた。会議の当時、フランスのデュプイ〔Gaston Dupouy, 1900~1985〕が100万ボルト電子顕微鏡の運転を開始したとの情報は得ていたが、その結果については何も発表されていなかった。唯一の具体的データは、橋本初次郎が京都大学の30万ボルト顕徴鏡で得たものだけだったのである。

100万ボルトともなれば莫大な建設費がかかるから、実験家はその効力を理論によって予測しようとしたのである。すなわち、どれだけ電圧を上げればどれだけ吸収が滅って、どれだけ厚い試片が見えるようになるかを知ろうとしたのだ。

会議の後に、私は超高圧電子顕徴鏡の必要性を痛感し、東レ科学振興財団の援助を得て50万ボルト装置の建設に取りかかった(1962年)。この仕事は名大グループ(上田、榊、丸勢、美浜、神谷)と日立グループ(只野、木村、片桐、西永)の共同で進められ、1965年に一応の完成を見るに至った。そして、その年の夏にメルボルンで開かれた電子回折の会議で、新装置の概要を報告することができた。

他方、私はデュプイ博士に吸収測定の重要性を説得し、名古屋で開発した測定法を世界唯一の彼の装置で実行したいと申し出た。彼はこれに応じて、フィラデルフィアでの電子顕微鏡会議(1962年)の後、私をトゥールーズの彼の研究所に招待してくれた。

大西洋上を飛びながら、私の貧しいフランス語でどうなることかと内心とても心配だった。しかし、あちらに着くとデュプイ所長のみでなく、若い研究者のエロル君〔Rene Ayroles〕やマゼル夫人に温かく迎えられ、何の心配もなかった。

私の滞在はわずか3ヶ月余りだったが、その間に定着した測定法が私の帰国後も続けられ、1965年末には120万ボルトまでの測定値が発表された。それによると、高電圧での吸収は当初の理論値より大きかった。

ところが、結晶中での電子線の吸収は意外に複雑な現象であって、その理論値は実験値と直ちに比較すべきものではないことが次第に明らかになった。そのために込み入った修正が施された結果、理論がとても難しくなり、一宮彪彦〔1940~〕が論文を書いたときには私はもうついて行けなかった。そんなわけで、フランスで得た最終の結果が理論的に説明できたかどうか、私には今でもわからない。

さて、超高圧電子顕徴鏡の有用性は、デュプイとペリエ〔Frantz Perrier〕や日本の藤田広志〔1926~2008〕らの実験によって次第に明らかにされていった。こうなると実験家は吸収のことなどはほとんど問題にしなくなり、1970年代に入ると、この高価な装置が世界のあちこちに設置されはじめた。

いずれにしても、吸収が減れば厚い試片が見えるという発想はあまりに単純だったのである。像が見えるための条件、すなわち分解能とコントラストが考慮されていなかったからである。そんな次第で、私が熱情を傾けた吸収の測定はいったい何の役に立ったのか、理論的にも実用的にも訳がわからなくなってしまった。


超高圧電子顕徴鏡――一つの成果(1967~1970年)

超高圧電子顕微鏡の建設で私は心身をすり減らすような辛酸をなめたが、この苦労は二次反射消滅効果の発見で報いられた。この効果は、後に一般化して臨界電圧効果と呼ばれるようになった。極めて専門的で具体的な解説は困難だが、加速電圧を上げると相対論によって電子の質量が増すために起こる効果と表現することができる。これは学問的に興味があるだけでなく、その応用技術も開発されたから、超高圧電子顕徴鏡による最も重要な発見の一つと言っても過言ではなかろう。

この効果は1967年に、日立と名古屋のグループで各々独立に発見された。日立では若い研究者の永田文男が渡辺宏の指示で実験中に発見し、福原明が動力学的理論で解明した。一方、名古屋では、私が吸収係数の測定中にある異常現象を観察し、これをきっかけにして多年使い訓れた動力学的理論でこの効果を予測した。ちょうどその時に、東北大学の渡辺伝次郎が流動研究員として名古屋に来たのは幸せだった。私はこの注目すべき効果の実験を彼に示唆したところ、彼は直ちに菊池線によって私の予測を実証した。

これは電子回折発見の40周年を記念したロンドン会議(1967年)の直前だった。私は渡辺の写した一連の写真をロンドンに持って行き、二、三の友人に見せて討論したが、スライドを作る暇がなかったので、公式の会議では発表を差し控えた。

次に私は、これを利用すれば、従来測定が困難だった構造因子の精密測定ができることを指摘した。渡辺伝次郎はこの実験も行ない、鉄、ニッケル、アルミニウムについて極めて正確な測定値を得た。戦後になっても、動力学的効果に妨げられて電子回折はこの種の精密測定には向かない、と一般に信じられていた。しかし、現在ではこの効果によってX線回折に劣らぬ精度が得られるようになった。禍を転じて福となす、とはまさにこのことである。

私はその後この種の仕事を続けてはいないが、新しい発展の道を切り開いたことを小さな誇りにしている。


電子回折装置の開発(1935~1965年)

私は日本の結晶学に対する自分の貢献は、動力学的理論よりも回折装置の開発にあったと信じている。東京にいる間だけでも3台の装置を設計した。

最初のものは数千ボルトの電子線回折、すなわち今日のMEEDを目標にした装置である。これはかなり進歩的な構想だったが、電子幾何光学の常識に欠けていたために失敗に終わった。二番目のものはその場観察の装置である。これは、当時としては甚だ複雑な装置で使いにくく、成功はしたものの苦労に苦労を重ねた。この経験によって、第三番目には小ぢんまりとして使いやすいものを設計した〔現在、名古屋大学博物館に展示されている〕。この装置は言わば保守的で、菊池の構想を破るものではなかったが、種々の改良で小さな乾板に分解能の高い回折図形を撮ることができた。戦中戦後の貧しい時代に、この型の装置は三宅静雄その他の友人にも使われ、大変に好評だった。

名古屋に来てから作った第四の装置は高分解能型で、これはむしろ電子顕徴鏡と呼ぶべきものだった。また第五のものは50万ボルト電子顕微鏡である。これらは日立製作所で作られたが、私が計画を発足させ、私の仲間が設計、予備実験、試験、改良などで重要な役割を果たした。

最後に、気体電子回折の装置を開発して、森野米三〔1908~1995〕に協力した話をしてみよう。森野は1943年に名古屋大学に赴任し、気体電子回折の研究を開始した。その装置製作は私が引き受けた。戦時中で材料もなく技術者もいなかったから、私は極端に簡単な装置を作った。このみすぼらしい装置で、森野らの最初の約10年間の実験が行なわれたのだ。

第二の装置は大学院生の井野正によって設計され、技術員の高橋重敏によって作られた。これは回転セクター付で、今日でも使われている。これと同じ型の装置が森野研究室の次の10年間を支えることになる。そして、1962年にはさらに時代に即した気体専用の装置が、高橋を長とする名大理学部の工作室で作られた。この三つの装置は長年にわたる設計の進化を端的に示している。1962年型は北大の木村雅男教授〔1921~2005〕、および東大の朽津耕三教授〔1927~〕の研究室に提供された。

日本の気体電子回折の成果に対する評価が高いので、その実験装置を作った高橋重敏〔1918~〕は1981年に吉川英治文化賞を授けられた。


金属煙の粒子(1970年~現在)

私の現在の研究題目は、金属微粒子である。金属を低圧の不活性ガス中で蒸発すると、金属の蒸気がそのガス中で冷え、金属の煙が発生する。私の研究はこの煙の粒子を電子顕徴鏡で観察するのだが、その発端には長い話がある。

戦時中、日本陸軍は誘導爆弾の開発を試みた。これは赤外線の源、例えば軍艦の煙突を狙うものだった。赤外線の吸収体として、亜鉛を減圧空気中で蒸発させて作る亜鉛煤が使われた。この煤が製造直後にはよい性能を示したが、一週間も経つと劣化してしまったのだ。私はその原因を明らかにするため、電子回折による検査を依頼されたのである。

そこで、私の研究室の紀本和男〔1916~2004〕が実験を行なった。彼は、亜鉛煤がじつに複雑なものだということをつきとめた。それは金属亜鉛、酸化亜鉛、さらに加熱用のタングステン線に由来する酸化タングステンから成り立っていた。彼は問題を簡単にするために窒素中で蒸発を行ない、純粋な亜鉛だけの亜鉛煤を得た。そしてデバイ環の幅から粒径を計算し、窒素ガスの圧力を下げると100オングストローム以下になることを確かめた。その間に戦争が終わり、紀本は研究題目を変えてしまった。

それから約15年の後(1962年)、日本の理論物理学者で指導的役割を果たしている久保亮五〔1920~1995〕に会い、彼が金属徴粒子の理論で興味ある結果を得たとの話を聞いた。そこで私は紀本の古い実験を思い出し、技術員の野々山実の助けを得て、直ちにガス中での蒸発の実験を開始した。

新しい実験では窒素の代わりにヘリウム、アルゴンなどを用い、生成物を電子回折だけでなく電子顕徴鏡でも観察した。われわれはマグネシウム、クローム、鉄などの美しい多面体の結晶を見て狂喜した。

このとき私は超高圧電子顕微鏡の建設に集中しなければならなくなったので、この研究を亜鉛煤の実験をした紀本に引き渡した。彼は西田功とともに実験を進展させ、多くの目覚ましい成果を得た。24面体に結晶する新構造のクロームの発見はその一つである。

私は超高圧電子顕微鏡の仕事で、1960年代の終わりには全く疲れ果てていた。そこで、道楽のつもりで始めた金属微粒子の研究に戻り、気楽になった。多くの大学院生とともに、普通の金属のすべてについて形態と構造とを調べた。われわれは種々の美しい多面体、板、棒の電子顕微鏡写真を写した。1975年には名古屋大学を退官したが、名城大学でまだこの仕事を続けている。なぜかと言えば、私は物理学とともに博物学が好きだからであり、多くの金属のウルフの多面体(各々の結晶に個有な最も安定な外形)を作ってみたいという野心があるからである。

(1982年)


目次へもどる

トップページへもどる