上田良二「敗戦の日の思い出」



戦争の終わり頃、私は研究室とともに信州の田舎に疎開しており、そこで原爆投下の発表を聞いた。彼我の科学技術に大きな格差を感じたのみでなく、彼らの研究精神に敬意を表し、完全に負けたと脱帽する気持ちだった。私は物理を勉強していたから、核分裂の発見を知っていたし、それで爆弾を作る計画があることも聞いていた。しかし、実験室で発見されたミクロな原理が実用化されるのは遠い先であり、戦争中に実現するとは夢にも思っていなかった。

その感想をお世話になっていた疎開地の村長さんに話した。お寺の住職で、ときどき世間話をする人だった。私が「偉いもんですよ!とても勝負になりませんよ」と言ったら、「情けないね!だが貴君の言うことは本当らしいな」と嘆かれた。

玉音放送は役場で聞いた。それが終わったとき、村長さんも私も周囲の人たちに調子を合わせて悲しそうな顔をしたが、二人とも心の中では敗戦を待っていた。あとで顔を合わせたら、「情けないね!しかし竹槍の決戦をしないで済んだな」と言われた。

その日の夕方、役場の若手が人目を避けて「生き延びたぞ!」と飛び上がっていた。赤紙が今日か明日かと恐れていた彼は、生き延びた嬉しさを体で表わさずにはいられなかったのだ。それを見て、私も心の底から「原爆で助かった」と思った。

今日の新聞論調では残虐な原爆の使用が罪悪としてのみ訴えられているが、日本人として、それは一方的に過ぎるのではなかろうか。本土決戦ともなれば、犠牲者は軽く百万を超えただろうし、悲惨な集団自決も各所に起こっただろう。その超大惨事に比べると、広島、長崎の大惨事はより小さい。被災された方々には申し訳ないが、その犠牲によってわれわれは救われたのだ。私は敗戦の日から今日まで、そのことを思い続けている。

1995815日)






上田和子「終戦の日の思い出」



当時、名古屋大学の上田研究室は、長野県南佐久郡切原村字中小田切に疎開していた。教室の方々は、少し前に出発滞在していたが、夫と私は最後に名古屋を後にして、昭和二十年八月五日に中島喜章氏方の一間を借りて落ち着いた。

それより早く、上田の母は軽井沢千ヶ滝の別荘に、末妹の向笠富子叔母と二人で疎開していた。私たちはいちおう荷物も片づいたので母を訪ねた。夫は一足先に切原村へ帰ったのだったか、とにかくその時は私一人で山を下り、沓掛駅の構内で小諸乗り換えの、小海線三反田(現・臼田市)への汽車を待っていた。今なら何でもなく往復できる距離だが、そのころは何時に汽車が来るのか、いつ目的地へ着けるのかさっぱり見当がつかず、半日でも、またそれ以上でも気長に待っていたものである。

そんな有様だったので、私は比較的のんびりと駅のベンチに座っていた。すると周囲の人が「大切な放送があるから聞かねばならぬ」と、駅前の食堂(といっても当時は何も売ってはいない)のほうへ駆けていく。「天皇陛下の放送だって」と言う人もある。「えっ、そんなものがあるはずはないわ」。私は否定的な思いだったが、そちらのほうへ行ってみた。

店の中には五十人くらいもいただろうか。いっぱいの人がラジオを囲み、もう放送は始まっていた。あの終戦の御詔勅は、ほんとうに今まで一度も聞いたことのない、暗く重々しいお声で、これが天皇陛下のお声かとびっくりした。おまけに普通でも聞きにくい山あいの町のラジオでは、お言葉の意味は全く聞き取れなかった。

「戦争は終わってしまったのだ」。前のほうで聞いていた人たちが出てきてそう言った。まさか!私はまだ信じられない気持ちで駅のほうへ戻っていった。ほどなく駅へ入ってきた列車を見たとき、私はほんとうに終戦を、敗戦を信じなければならなかった。列車には屋根の上まで鈴なりの兵士たち、それも機関車にまですがりつくようにあふれ、釜の上にまでまたがって、何かわめきながら乗ってくるではないか。一番はじめに軍隊から脱出してきた人たちだと私は思い、「負けたのだ、負けたのだ、これではとても私の乗れる列車など来ない」と、千ヶ滝の母のところへ取って返したことを覚えている。

1995812日)