上田良二「西川正治先生のこと」




はじめに

西川正治先生〔1884~1952〕は私の恩師である。直接の指導を受けたのは大学を出てからの10年足らずだが、先生の教えは今日でも私の頭の中でいきいきとしている。先生は学者的で地味な性格だったから一般に広くは知られていないが、日本の近代結晶学の生みの親、育ての親として専門家のあいだで尊敬されている。近代結晶学が何をする学問かについても知らない人が多いが、物質中の原子の配列を研究する学問である。今日のコンピュータの微細な素子は結晶であり、その基礎研究はすべてを結晶学に負っていると言える。

先生のことを書こうとすると、先生の先生である寺田寅彦先生〔1874~1935〕の話から始めなくてはならない。また、先生の高弟で私の兄弟子にあたる菊池正士先生〔1902~1974〕にも触れなければならない。話の筋は、結晶学の研究手段であるX線回折と電子回折の発展に沿っている。最後に西川先生についての私の思い出を述べる。


寺田寅彦と西川正治

1912年の初夏に、ラウエ〔Max von Laue, 1879~1960〕らは結晶によるX線の回折を発見した。X線はレントゲン〔Wilhelm Conrad Röntgen, 1845~1923〕による発見以来の10数年間、その本質が古典的な意味での粒子か波動かが不明だった。ラウエらの発見で、X線が短波長の電磁波であることが証明されたのである。

ラウエらの論文が日本に届いたのはその年の秋だったが、これに直ちに反応したのが当時、東大物理学科の助教授だった寺田寅彦である。ラウエらは写真法で「ラウエの斑点」と呼ばれる回折図形を撮影したのだが、寺田は蛍光板で結晶からの回折線を観察した。そして、今日「ブラッグの法則」と呼ばれている関係式を、ブラッグ父子〔William Henry Bragg, 1862~1942/William Lawrence Bragg, 1890~1971〕とは無関係に独自の方法で結論したのである。当時の日本の貧しい実験設備を考えると、わずか半年の間にこれだけの実績をあげた寺田がいかに練達な実験家であったかが窺える。

私が東大物理の学生になったころには、寺田は地震研究所の教授であり、X線などの原子物理とは縁の薄い、いわゆる「寺田物理」でその名を知られていた。物理学科では授業担当教授として、統計の講義をしていた。私もそれを聞いたが、特に印象に残るものではなかった。それでも、とにかく直接に講義を聞いたのだから、以下では寺田先生と呼ばせていただくことにする。

寺田先生がX線の実験をしておられたころ、西川先生は大学院生で、木下季吉教授〔1877~1935〕の下で放射能の研究をしておられた。西川先生は、寺田先生が研究中のX線回折の実験を偶然のめぐりあわせで見ることができたという。先生は、その時の感激を次のように述べておられた。

「ある日のこと、少し遅くまで実験して帰りがけにその部屋の前を通ると、ヒョイとドアが開いて中から人影が薄暗い廊下に飛び出した。見ると寺田先生が何か嬉しそうに君々と僕を呼びとめられ、まあ入りたまえと手を取らんばかりにしてその部屋の中に連れ込まれた」

「先生は片手に岩塩のかなり大きい結晶片をつまんで、その孔(X線の出口)のすぐ前にかざし、片手に持たれた蛍光板を少し離して覗きながら、「そら見えるだろう」と言われた。……しかし、てんで何も見えなかった」

「そのうちに眼が次第に暗黒に慣れてきたのだろうか、結晶を動かすと同時に、フト蛍光板の上に、光るものが動いたような気がした。ハッと思ってよく見ると、見える見えるたくさんの光斑が随所に見えて、それが結晶を動かすとともに動いて行き光を増したり消したりする」

「先生は「こうやって見ているとじつに面白い。色々な結晶でそれぞれ特徴があり、また結晶に限らず他のものでも面白い模様が見えることがある」とおっしゃって、いろいろ説明して下さった」

西川先生はこれを契機に、寺田先生の勧めによってX線回折の研究を開始されることになった。そして、半年の後には、繊維状、層状、粒状の物質による回折図形を写真に写し、その論文を発表された。これは考えようによっては寺田先生の研究の延長線上のものだが、その翌年(1914年)に発表されたスピネル属結晶の構造解析は西川先生独自のものだった。この研究には後に述べるように独創的な手法が使われていて、じつに素晴らしいものであった。このときの先生はまだ大学院生で、この論文が先生の学位論文となった。先生はこの業績によって、1917年の帝国学士院賞を受賞された。

西川先生の業績の独創性を説明するには、理屈っぽい結晶構造の話を多少しなければならない。結晶の中では、原子は周期的に並んでいる。X線の回折図形を解析すると、まずその周期(三次元)の最小単位(単位胞)の形と大きさが決められる。さらにその中のそれぞれの原子の位置をも決めることができるのである。この操作を結晶解析と呼んでいる。

西川先生が研究を開始されたころには、岩塩(NaCl)や蛍石(CaF2)などの簡単な結晶の構造はすでに解析されていた。しかし、スピネル属の結晶は遥かに複雑である。その属の代表はMgAl2O4であり、その中には磁鉄鉱のような重要な鉱物が含まれている。現在では単位胞に何万という原子が含まれる蛋白質の結晶構造が解析されているのだから、スピネル属が複雑と言えば滑稽に聞こえるかも知れないが、先生のころにはそれが大変に複雑であって、その解析への挑戦は極めて野心的なことだったのである。

西川先生以前の構造解析は、大まかに言えば物理屋の常識と勘で行なわれていた。しかし、スピネル属くらいの複雑なものになるとそう簡単にはいかない。そこで先生は、空間群の理論を導入して系統的に解析する方法を開発されたのである。その方法は単にスピネル属のみでなく、この後の構造解析の常套手段として広く使われるようになったのである。

そこで誰もが抱く疑問は、どのような発想で空間群の理論が導入されたのかということである。その裏に寺田先生の知恵があったことは、広くは知られていない。当時、空間群の理論は物理には縁のない純正数学に属し、西川先生はもちろん寺田先生も御存知ではなかった。私の推察も入るのだが、寺田先生は西川先生の直面している困難をよく理解しておられ、それを突破する手段を数学の先生に相談されたのだと思う。その討論中に空間群の適用に気づかれ、西川先生に助言されたのではなかろうか。物理の雑然とした問題を純粋な頭脳の数学者と討論することは、並の物理屋にできることではない。寺田先生にして初めて可能だったのである。

当時の東大教授は、昼時になると山上御殿(今日の山上会館のところにあった職員の集会所)の食堂に集まり、昼食をとりながら、専門を越えて討論を楽しんでいたのである。寺田先生は山上御殿で空間群の考えを拾われたという話は、確かに聞いた覚えがある。

西川先生は寺田先生の助言に従って数学教室の図書室に行き、誰ひとり開いた形跡のない空間群の本を探し出して読まれた。最初は退屈に思われたらしいが、間もなくその重要性を理解して研究の突破口を開かれたのである。これは私のような者には想像もできないことであり、西川先生の才能の高さに今さらのように驚くばかりである。


西川正治と菊池正士

菊池先生は理化学研究所の西川研究室で電子回折の実験に成功して、今日でも「菊池パタン」と呼ばれている回折図形を発見された(1928年)。理研は日本の科学技術の近代化を目標にして1917年に設立された半官半民の研究機関であり、数年後には本格的に活動し始めた。西川先生は、原子模型で有名な長岡半太郎〔1865~1950〕や、「寺田物理」で誰もが知っている寺田寅彦のような大家とならんで主任研究員に就任された。当時の理研は科学技術の実力者を集めて自由の気風に満ちていた。

西川研究室の研究主題は当然のことながらX線結晶学だったが、研究者数人のうち約半数が物理、半数が化学の出身者だった。さらに生物への放射線効果を研究する医学者や生物学者もいた。先生の感化を受けた者の大部分は大学教授に巣立ったが、企業の技術主任者になった者もいた。

これから菊池先生の電子回折研究の話をするのだが、その前に粒子・波動の二重性の実験的証明の歴史を紹介する。アインシュタイン〔Albert Einstein, 1879~1955〕が光電効果の説明に光(光波)の粒子性を提唱したことはよく知られている(1905年)。他方、ルイ・ド・ブローイー〔Louis de Broglie, 1892~1987〕は波動の粒子性とは逆に粒子(例えば電子)の波動性を提案したのである(1923年)。波動の粒子性では光電効果の実験事実があるが、粒子の波動性にはまだ実験事実がない。そこで実験家がその実証に挑戦しそうなものだが、ド・ブローイーの提案があまりに画期的だったせいか、それが行なわれなかった(今から考えると、やる気さえあれば当時の技術でできたのに)。

他方、理論家のエッカルト〔Carl Eckart, 1902~1973〕は過去のさまざまな実験の中に物質波を支持する結果がないかと詮索し、その一つに米国のベル研究所で行なわれたデビソン〔Clinton Joseph Davisson, 1881~1958〕とクンスマン〔Charles Henry Kunsman, 1890~1970〕の実験(1923年)を見いだした。彼らは金属表面での低速電子の散乱を研究し、その角度分布に原因不明なこぶを観察した。この研究は全くアカデミックで、背景の技術に真空管の類があったことを考慮しても、実利的目標があったとは思えない。エッカルトは彼らの観察したこぶが物質波の回折効果ではないかと指摘したのだが、デビソンらはそれを無視し、独自の見解で実験を続けた。

ところがあるとき、実験の失敗が原因で問題のこぶが明確に現われたのである。そこでデビソンはエッカルトの意見を入れ、電子波の証明に目標を転換し、ガーマー〔Lester Halbert Germer, 1896~1971〕とともにじつに念入りでしかも精緻を極めた実験を行ない、ついにその証明に成功したのである。その結果がネイチャー誌に発表されたのは1927年の春のことだった。英国では電子の発見者J・J・トムソン〔Joseph John Thomson, 1856~1940〕の息子のG・P・トムソン〔George Paget Thomson, 1892~1975〕が最初から電子の波動性の証明を目的とし、陰極線(高速電子)の薄膜透過の実験を行なった。彼は得られた回折図形を解析してド・ブローイー波を証明した。その発表はデビソンらにわずかに遅れた。

「彼はJ・J・トムソンの息子だから、陰極線は父からもらった。苦労したのは薄膜(最初はセルロイド膜、後に金属膜)を作ることだけだった」という話を聞いたことがある。デビソンらが企業の研究所で長年におよぶ他目的の研究の後に図らずも波動性の証明に立ち至ったのに対して、トムソンは大学で最初からその証明を目的として短期間に結果を出した。デビソンとG・P・トムソンはともにノーベル賞を受賞した。

菊池先生はデビソンらの論文を読んで、そのような実験をしたいと西川先生に申し出、実験を開始した。しかし、真空技術の経験が浅く、その困難に悩まされている間に、トムソンの論文が出てしまった。その実験にはデビソンの実験のような高度の真空技術は要らないのである。そこで菊池先生はトムソンのような実験に変えたいと思われたが、西川先生が許されるかどうか心配されたということである。ところが、西川先生はその変更に積極的に賛成されたのである。

デビソンらの実験法は今日ではLEED(低エネルギー電子回折法)と呼ばれ、1960年代に超高真空の技術が確立されて初めて一般の研究者に利用可能になったものである。それ以前は、デビソンのような真空技術の達人でなければ不可能な実験だったから、若い菊池先生が手こずられたのはむしろ当然である。西川先生はそのあたりの事情をよく承知しておられたので、計画変更に進んで賛成されたものと思われる。

トムソンは陰極線を父からもらったというが、西川研究室にはそれはなかった。しかし、組立型のX線管球を自作していたから、陰極線の発生には大した苦労はなかったようである。試料の薄膜には最初から雲母が使われた。これは誰でも考えそうなことだが、トムソンはそれに気づかなかった。もし雲母を使っていたら、彼は薄膜作りにも苦労しないて済んだのである。

さて、当時の日本の一般的な技術水準は、今日では想像もできないほど低かった。工作機械のような生産機械は曲がりなりにも国産されていたが、真空ポンプのような理化学器械はほとんどすべてが輸入品だった。そのような事情のもとで、菊池先生の電子回折装置が理研の工作室でできたことには説明が必要である。

理研では創立に際して、優秀な職人さんを欧米の研究所に留学させ、工作室の幹部養成から始めたのである。そのために、街の技術水準は低くても、理研工作室は欧米なみの能力を持っており、真空ポンプなどの部品だけを輸入に頼れば、実験装置の本体(回折装置)は所内で完成させることができたのである。もし、この工作室がなければ、研究者がいかに優秀でも「菊池パタン」の発見はあり得なかったと思われる。裏方の育成に地味な努力を払った創設者の先見性には、心からの敬意を表すべきである。

装置ができると、実験はほとんど最初から成功だったという。「あまりうまくいったのでびっくりしました」と西川先生から伺ったことがある。また、この成功を寺田先生がとても喜ばれた、という話も聞いた。その第一報は1928年6月12日の帝国学士院で寺田先生によって紹介された。それに引き続き第四報までが発表され、それらをまとめた本論文もその年のうちに発表された。それらはすべて菊池先生の単名で出されている。

「西川先生はどうしても連名を承知されなかった」と菊池先生から伺った。西川先生は若手激励の意味で、御自身の発意で行なわれた研究でなければ連名にされなかったようである。それにしても、ノーベル賞すれすれの研究発表に連名を辞退されたところに、西川先生の御性格が表われている。

実験はじつにものすごい速さで進んだのである。菊池先生によると、「無我夢中で実験をして、結果(回折図形の写真)を西川先生にお見せすると、待ってましたとばかりに解釈をされた」とのことである。この実験で最も重要なのが「菊池パタン」の発見である。このパタンは雲母膜がやや厚い場合に現われ、入射電子がまず非弾性散乱を受け、さらに回折されて生ずる図形と解釈された。電子線の回折図形は大体においてX線の回折図形に対応しているが、このパタンは電子線に特有である点に興味がある。また、このパタンは単結晶だけに現われるものであって、トムソンの実験法では発見される可能性がない。とにかく、試料に雲母を選んだことが大成功の原因だった。

後に西川先生が英国に行かれたときに、「雲母を薄くはがすのに秘伝があるのか?」と聞かれ、「秘伝などないと言って雲母を持ってこさせ、手ではがして見せたら驚いていましたよ」と伺ったことがある。「薄く」を常識で考えれば、雲母を手ではがせるのは当たり前だが、「電子線を通すほど薄く」と厳格に考えると特別の道具が必要と思われてしまう。イギリス人はそのように難しく考えて雲母を試みなかったのかもしれない。

菊池先生の業績はノーベル賞にはならなかったが、電子回折に結晶学への道を開いた点では、前の二者に遥かに優っていた。西川研究室ではその後、菊池先生を中心とし、新たに中川重夫、篠原健一、山口太三郎らを加えて、電子回折の結晶学的研究が集中的に行なわれた。その中には透過法のみでなく世界最初の反射法の実験(今日RHEEDと呼ばれている)も含まれている。これだけが西川・菊池の連名になっているのは、これが西川先生の積極的な発意で行なわれたためだと思われる。連名でなくても、先生が全般の指導をされたことは当然である。数年間にわたるその成果は、この分野で世界を圧倒する勢いだった。これは私の主観だが、1937年に出版されたG・P・トムソンの本の著者索引を見ると、引用数が西川2、菊池17、中川8、篠原9、山口9、三宅8のように極めて多い。他に1、2は数名ある。私の最初の論文も引用されている。

あるとき西川先生が「研究には運もありますよ」と言われたのが耳に残っている。そのとき「やはり実力ではありませんか?」と反論したが、先生はそれに答えられなかった。考えてみると、菊池先生が「菊池パタン」を発見されたのは28歳のときである。先生はその後、大阪大学の教授になられ、大研究室を組織して原子核の研究をされたが、その後は菊池効果と呼ばれるほどの業績は残されなかった。つまり、菊池先生はお若いときに運がついたのである。西川先生が独り言のようにつぶやかれたその一言は、後の私の研究哲学に大きな影響を与えた。


西川正治先生と私

西川先生は御自身の業績においても、また研究室の指導においても学生たちの尊敬の的だったが、先生の講義をほめた人はいない。先生は日常の会話でも口の中でモゴモゴと言われ、語尾がはっきりしない。講義も聞き取りにくかった。しかも、学生を相手に一人前の研究者に対するような調子で話されたから、私のような幼稚な学生にはついて行けないことがしばしばあった。先生の「X線・結晶」の講義を聞いたが、ほとんど理解できなかった。幸い必修ではなかったので、試験は受けなかった。

学生時代に講義以外で先生と接触したのは2年生の実験の時だった。最初に先生の説明があり2週間か1ヶ月後にレポートを出すという、普通の実験だった。多くの先生は最初の説明の後はレポートを受け取るだけだったが、西川先生は実験の途中でよく見回りに来られ、しばらくのあいだ、学生たちといろいろな話をして行かれた。しかし、それが例のモゴモゴだったので、偉い先生とは聞いていたが当時の私にはそう感じられなかった。

物理学科を卒業したとき、教室主任の寺沢寛一先生〔1882~1969〕から呼び出しを受け、西川先生の助手に採用する旨を伝えられた。当時、物理出身者の就職は困難を極めていたから、誰がどこに決まったというようなことが小使室の話題でもあった。私の話を聞いた小使のおばさんが「西川さんならいいよ」とお祝いを言ってくれた。そのおばさんは教室の主のような顔をしていて、教授連の悪口を平気で言う人だったが、そのおばさんにも西川先生は評判がよかった。

後になって考えてみても、なぜ先生が私を助手に採用されたのか、その理由がわからない。先生の課目の試験は受けなかったし、全般の成績がよかったわけでもなかった。まさか学生実験での会話を参考にされたとは思えない。これは私にとって解けない謎になって今に至っている。

1934年に私が助手になると間もなく先生は、大阪大学助教授に栄転された山口太三郎先生の残して行かれた電子回折装置を示され、「これはまだ捨てるには惜しいと思うのですが、これで何かできないでしょうか?」と言われた。その言葉は、あたかも私を有能な研究者と見なして、古い装置の有効な利用法を相談するという調子だった。私は、先生が新鮮な目的を明示して「これこれの実験をせよ」と指示されることを期待していたから、あてが外れてがっかりした。先生はその装置のすべてを私に任せ、その扱い方についても何も教えて下さらなかった。

仕方がないから山口先生の上京を待って、使い方を教えていただいた。研究題目も見当がつかないので、とりあえず山口先生がその装置で発見された「山口効果」の実験を続けることとし、その理論的解明を目標にした。そのために、ベーテ〔Hans Albrecht Bethe, 1906~2005〕の動力学的理論という難しい論文を2ヶ月もかかって読み、理論的解明に必要な実験を必死でやった。この理論をここで解説するわけにはいかないが、電子回折のもっとも基礎的な概念を含むものであり、この勉強は後々の研究に大いに役立った。

西川先生はしばしば実験を見に来られたが、結果をお目にかけると、時には「面白いですね!」とか、また時には「なぜでしょう?」とか言われたが、いっこうに要領を得なかった。私は先生がはっきりと指示されないのが不満で、先輩の福島栄之助先生〔1902~1975〕に「先生が何も教えて下さらないから心細い」といったら、「西川先生は日本一の教育者だ。そんなことをいうと罰があたるぞ!」と叱られた。

私が助手になった年の夏から先生は国際会議出席のために渡欧され、約半年の後に帰国された。私はその間に仕事をまとめ、英文の論文を書いて、その原稿を帰られたばかりの先生にお渡しした。先生はにっこりとして、「もうできましたか」と嬉しそうに受け取られたが、その後、何のお沙汰もなかった。先生は私の原稿を2年以上も机の引き出しに寝かせておき、私が忘れたころになって校訂すると言われた。その校訂はじつに厳格で、私の一生に受けた最大の教育だった。

菊池パタン発見のころは、先生も発表に一刻を惜しまれたに違いない。それはプライオリティーが重要だからである。私も早く発表したかったが、先生は時間を問題にされていない様子だった。たぶん、プライオリティー以上に私の教育を重視されたのである。

若いころのことを思い出すと、私はものごとを深く考えない性格ではあったが、とにかく題材だけは自分で見つけだして実験をしていたから、先生は私のするに任せて口をはさまれなかったのだと思う。他方、研究全般についての考え方の粗雑さを、文章の校訂を通して徹底的に鍛えられたのであろう。今にして思えば、先生は私の長所、短所を見ぬいて知らぬまに教育されたのだ。そのことは、私自身が学生を指導する身になってやっとわかった。福島先生が「日本一の教育者」と言われたのもこの点だったのである。

私が研究を始めたころには、菊池先生などの活発な研究で電子回折の基礎的な問題はすでに総なぎにされた観があり、多くの人たちがもはやそこには重要な問題は残っていないとさえ考えていた。しかし、西川先生は、電子回折にもなおたくさんの問題が残っているという見通しを持っておられたのだと思う。だから、多くの人たちが原子核に行ったのに、私には電子回折を続けさせられたのである。電子顕微鏡を含めたその後の発展を見れば、先生の先見性と見通しはまさに的を射ていた。おかげで電子回折に限っても、戦中戦後に行なった基礎的な研究、「動力学的効果の実験的証明」で三宅静雄博士〔1911~1999〕とともに朝日賞(1955年)を受賞することができた。そのとき先生がすでに他界しておられたのが残念だった。

戦前の私は、これからは基礎より応用の時代だと考え、真空蒸着膜のエピタキシャル成長に目をつけた。今日ではこの現象がコンピューターの微細な素子を作るために広く応用されているから、理工系の人なら誰でも知っているが、当時はドイツで発見された新しい現象だった。その仕事を続けるうちに、エピタキシャル成長の原因を知りたくなり、今日「その場観察」と呼ばれている新しい実験法を思いついた。

それまでの研究では、まず真空装置で試料を作り、それを回折装置の試料室に移して調べていた。しかし、この方法では成長の途中の過程がわからない。そこで、回折装置の試料室で蒸着を行ないつつ、その場で蒸着の過程を観察するという計画を立てた。私は先生のお許しを得て、そのための新装置を設計した。

装置は理研の工作室でできたが、その実験は技術的にとても難しく、さんざん苦労した。先生はしばしば実験を見に来られ、例の調子で「面白いですね!」「なぜでしょう?」と言われるのだが、困っている私に助け舟を出されたことはほとんどなかった。おそらく実験にそのくらいの苦労は当たり前と思っておられたのだろう。

曲がりなりにも実験をまとめ、論文を書いたのは、名古屋大学に赴任した後だった(1942年)。このころになると、先生は私の文章をそのままにし、わずかに文法的な添削をされるだけだった。その論文が私の学位論文になった。

「その場観察」は今日の電子顕微鏡では広く使われている。その技術も非常に進歩しているから、それを見ると確かに私のやったことはじつに幼稚だったかもしれない。それにもかかわらず、「私がその場観察の元祖だ!」と誇りをもって言うことができる。またひいき目に見れば、この実験法は今日のモレキュラー・エピタキシーの萌芽でもあった。この論文は1942年に発表された物理系論文の最優秀作の一つとして、岩波『科学』の『論文にみる日本の科学50年』(1980年発行)に抄録されている。

1942年にはすでに戦争が始まっており、実験試料などの入手が困難になっていた。諸般の事情で私の後任の助手が欠員だったうえに助教授もいないという状況で、西川先生は大変に苦労されたようである。そこで、私に東京に戻らないかとのお誘いがあったが、私は名古屋での教室の創設に熱中していたので、あっさりとお断わりしてしまった。後で考えると私にはそのほうがよかったのだが、先生には申し訳ないことをしたと思っている。

先生は学問、研究では群を抜いておられたが、戦時中の世の中をずる賢く渡る俗人的才覚はお持ちでなかった。一番お気の毒だったのは東京の大塚坂下町のお宅が空襲で焼かれ、信州に疎開された時だった。敗戦後、埼玉県川口町の旧軍需工場の寮に引き揚げられたが、そこでのお暮らしぶりは見るに堪えないほどひどいものだった。

私は開戦前に父を失い、結婚はしていたがまだ子どももいなかったので、父の代わりに先生に孝養を尽くしたいと思って努力した。と言っても大したことができるはずはなく、わずかの食料を持って疎開地に先生をお見舞するくらいが精々だった。それでも先生はとても喜んで下さった。

戦争が終わり、学会活動が再開されると、大阪や名古屋でも研究会が開かれた。先生は悪条件にもかかわらずそれらの会に出席され、名古屋にも二、三回来られた。当時はわれわれに手の届くようなホテルも宿屋もなかったから、そのようなときは私の家に泊まっていただいた。

私の長女は人見知りがひどく、よその人に抱かれると大声で泣いたが、先生にはすぐになついた。先生はその子を積み木などで楽しく遊ばせて下さった。それを見て家内が驚くと、先生はにっこりとされ、「子供の扱い方は知っていますよ」と言われたのが印象に残っている。

戦後に先生に喜んでいただいたことの一つに、結晶モアレの発見がある。1950年のある日、私が日立製作所の中央研究所を訪れたところ、そこの光石知國、長崎博男両氏がグラファイトの電子顕微鏡写真を示し、その中に現われている不思議な縞模様の解釈を私に問うてきた。その縞の間隔は結晶の格子間隔の百倍程度だったが、一定ではなかった。

その模様は、グラファイトの薄膜を原子の網と考えれば、二枚の原子の網が重なって生じたモアレ縞だったのである。モアレ模様は日常生活でも薄いカーテンの重なったところなどに見られる現象だから、寺田先生のような人ならば即座にそのような解釈を連想されたかもしれない。しかし、当時の私は「モアレ」という言葉さえ知らなかったから、回折を仲介にした難しい考察をして、やっと二枚の結晶膜の重なりによることを結論づけた。

西川先生はその論文を学士院で発表して下さった。私はその論文で1957年に米国で開かれた電子物理の国際会議に招待された。残念なことに、これも西川先生が亡くなられた後だった。当時は国際会議への招待は稀だったから、先生の奥様がとても喜ばれ、私の出発に際して、御生前に親交のあったワイコフ、エヴァルト両博士への先生のお形見を託された。ワイコフ博士は外遊中でお目にかかれなかったが、エヴァルト先生は私をじつに温かく迎えて下さった。

ことさらにエヴァルト「先生」と書いたのは、西川先生が亡くなられた後、面識はなくてもエヴァルト先生を自分の先生と心得ていたからである。先生は国際結晶連合発行のアクタ・クリスタログラフィカへの私の投稿論文を丹念に添削して下さり、あるときは批判を、あるときは賛辞を下さった。その先生に西川先生のお形見を携えて初対面した時は、胸がドキドキした。

先生は私をお茶に誘って緊張をゆるめてから、約20人の前でコロキウムをするように促された。私は朝日賞を受賞した研究の内容を話した。司会は先生。話の途中での質問自由。じつに楽しいコロキウムで、私はたどたどしい英語で2時間近くも話したらしい。そのあとで質素なパーティーが開かれ、エヴァルト先生のグループの人たちと親交を深めた。私は一躍にして国際的学者になったような気分になり、一生で最高の幸福感を味わった。

私は、西川先生がかつて「研究には運もある」と言われたことを思い出した。私が光石・長崎の縞模様にめぐりあったのは、先生が言われた通り、運がよかった結果なのである。


おわりに

以上を書き終わっての印象は、日本の科学は今世紀の初めにすでに欧米と肩を並べたように見えるが、実際は今なお後進的ということである。

寺田先生のX線実験も菊池先生の電子線実験も欧米で生まれた題材を直輸入して得た成果であって、日本の土壌から生まれたものではない。成果だけを見れば最先端ではあるが、両先生の時代は明らかに後進的だったことは否めない。

私の場合は、モレキュラー・エピタキシーの芽を生やしたが、それが日本では成長しなかった。これはひとえに私の見識不足によるのだが、技術家たちもこうした私たちの研究結果を実用の分野へ伸ばしてはくれなかった。その結果、欧米で発達した技術を全面的に輸入することで、今日の高度工業社会の基礎が築かれたのであった。つまり、私の時代も日本はまだまだすべてにわたり後進的だったのである。

では最近はどうか。私に近いところでは、外村彰博士〔1942~〕(日立)の電子線ホログラフィーや飯島澄男博士〔1939~〕(NEC)のカーボンナノチューブが世界の注目を浴びている。これらは外国の題材に便乗したのではなく、日本人が50年以上にわたって耕した土壌から生まれ育ったったものである。その進歩を見ると頼もしいものもあるが、50年程度の土壌ではなお浅く、大きな根はさらにその下に潜んでいる。そこまで耕さないと本当に先進国とは言えない。それにはさらに少なくとも50~60年の努力が必要であろう、というのが私の見解である。

(1996年執筆)