上田良二「物理学との出会い」



近所の子どもたちと外で遊んでいたときのことである。ガキ大将の大きな子が「地球はまるいんだぞ」と得意げに言った。私は小石を拾って地面に大きな円を描き、「僕たちは上に乗ってるからいいんだ」と円の上側に人の絵をかき足した。そして「下の人はどうするんだ?」と下の側を指したが、大きな子は何も答えなかった。そのときの私の考えを大人の言葉で説明すれば、宇宙には上下の方向性があって、すべての物体が下に向かって落ちるのだから(地球は例外)、下側の人は無限のかなたに消えていくではないか、ということだった。

その後、ニュートンのりんごの話を習ったが、この疑問とは結びつかなかった。真正面から回答をつきつけられても、心がそちらを向いていなければ役に立たないものだ。ところがある日――それは中学の上級になってからだと思うが――、突然、宇宙の等方性に気づいた。それで年来の疑問が解けた。つまり、字宙は等方だから地球には上も下もない。りんごは万有引力に引かれて地球の中心に向かって落ちる。その落ちる方向をわれわれは下と呼ぶのだ、ということが実に釈然と理解されたのだ。私はこの大発見が嬉しくて友達に説明したいくらいだったが、自分の幼稚さが恥ずかしかったから誰にも話さなかった。考えてみると、私にとってはこれが物理学との最初の出会いだった。

これからもっと順を追って、物理学との出会いについて述べることにしよう。


小学時代(1918〜1924)

私は小学校に入ってから高校を出るまでの13年間を、私立の成蹊学園で学んだ。成蹊小学校には理科教室があって、理科の専門の先生がいた。私は岡本長三郎先生に習った。とてもおもしろい先生だった。ビールを1ダース飲んで、何回も出る小便をあきびんにつめてみたら、ちょうど12本目でいっぱいになった、という類の話をされた。理科教室で先生の見せて下さる実験はとても楽しかった。鉄線を酸素の中で燃やしたときの不思議な輝きは、今も忘れられない。太いガラス管を上手に切り、ゴム栓などを使って真空ポンプを作り、フラスコの中の空気を抜いて、ぬるま湯を沸騰させたり、しぼんだ風船をふくらませたりした。先生はこの実験に熱中し、何度も同じことを繰り返されたが、次々の改良を期待して、私は目を輝かせて見守った。

私はいわば理科少年で、物理や化学が大好きだったが、もっと好きなのが生物だった。カイコだけでなくアゲハチョウの幼虫も育てた。小鳥やハツカネズミも飼った。ニワトリも何種類かを飼った。トリが交尾をすると、雄から雌に小球が送り込まれると思っていた。それが小豆大かごま粒大かといろいろと観察をしたが、何も発見できなかった。庭で野菜を作ったり草花を咲かせたりもした。野や山の植物を見ることも大好きだった。植物の趣味は年をとってから復活したが、少年時代がよみがえったような気がして楽しい。

私は幼年時代に病弱だったので、両親は本を読むより屋外で遊ぶことをすすめた。東京の目白で育ったが、当時は全く田園的だったから、その環境に恵まれて理科少年になったわけだ。他方、読書には親しまなかったから、国語や地理、歴史は駄目だった。そんな次第で、全般的に見て劣等生ではなかったが、優等生にはほど遠かった。


中学時代(1924〜1928)

中学では、物理化学を加藤藤吉先生に習った。この先生もいろいろの実験を見せて下さったが、特に静電気の実験は手際がよかった。また、頭が悪くても根気がよければ立派な仕事ができることを強調され、課外で気象観測を指導された。この観測は私の卒業後も長く続けられ、戦時中の空襲で中央気象台が被災したときは貴重なデータを提供したと聞いた。

私は実験は好きだったが、頭のめぐりが遅く理論には弱かった。加藤先生は重量と質量の区別を熱っぽく説明され、生徒はその熱弁の口真似までしたものだが、私にはその意味が理解できなかった。先生からの感化は、もっぱら「根気よくやれ」ということだった。

また、当時はラジオづくりが大流行だったが、私は全く手を出さなかった。工作も電気も大好きだったが、自分に理解できるのは静電気と直流までと思い、ラジオは難しいとあきらめていた。実を言えば、私が難しいと思っていた交流理論や電波の伝播は知らなくても、本さえ開いて書いてあるとおりにすればラジオは鳴ったのだ。本を開くことを面倒がる悪癖は私の一生を通じてついに治らず、研究のうえでずいぶん損をした。


高校時代(1928〜1931)

高校に入ってまず驚いたのは、鈴木一郎先生の数学だった。最初の試験で32と朱書した答案を返され、「お前のは良いほうだ!」と言われた。60点以下が落第だからぞっとしたが、優等生が軒並み10点台だったから少しばかり自信をつけた。その後、先生の純正数学の講義、たとえばデデキントの切断などにすっかり魅せられ、口には出さなかったが、数学に進みたいと思ったことさえある。

物理の金光正道先生は、当時の理化学研究所を中心に活躍していた理論物理学者の一人で、朝永先生の回想などにも名前の出てくる方である。ハイゼンベルクの不確定性原理の発見が1927年、私が金光先生の講義を最初に聞いたのが1928年である。当時30歳そこそこだった先生の講義は、とても難しかった。

私は高校生になっても加速度がわからなくて苦労した。先生に質問したところ、位置に対する速度がわかれば、速度に対する加速度は同じ関係だとのことだった。そこで、xyを軸として円軌道を描き、その接線を引いて速度Vx、Vyを求め、次にVx、Vyを軸にして速度の軌跡を描き、それに接線を引いて加速度ax、ayを求めた。さらにそのax、ayをxy軸の図に赤鉛筆で書き込んでみたら、すべてが中心を向いていた。そのようなことを何度も繰り返して、やっと加速度が納得できた。

こんな幼稚な私の苦悩とは無関係に先生は講義を進められたが、実に熱心な方で、講義録をガリ版刷りにして配って下さった。当時は良い教科書がなかったから、これは大変なお骨折りだったと思う。今でも先生の「幾何光学」や「熱学」を保存しているが、そのまま単行本にできるほど整然としている。その中の術語には英独語が付記されており、しかも独語はdas Brechungsgesetz、die Warmelehrcのように冠調が必ずつけてある。若いうちから外国語の本にも親しませるための親心だった。私もプランクのThermodynamikを買って高校生の気分になったが、とても難しくて歯が立たなかった。

さて、生物学はどうなったかと言うと、記憶が薄い。高校の生物学は主として医学進学者のためで、その気のない私には縁がなかった。しかも、テニスに熱中したり、音楽をかじったり、登山に出かけたりで、園芸も養鶏も放棄していた。

ここで書き落とせないのが、地学への興味である。福田連先生という方が、平生は会社勤めだったが、週に一回、成蹊に教えに来られた。この先生の授業はすべてが実験で組み立てられており、実に面白く、岩石の検鏡用薄片を作ったときなどは、時間の経つのも忘れるほどだった。多少の無軌道はあっても、このような授業は奨励する価値がある。


物理への進学

私の進路は3年の夏休みを過ぎても決まらなかった。数学や物理に魅力を感じ始めてはいたが、秀才が集まるというそんな分野に踏みこむ心臓がなかった。化学は化合物の名前を覚えるだけでも記憶力が足りないとあきらめていたし、正統的な生物学は私の興味から外れていた。地学はいいと思ったが、同級生に私より好きな人がいた。そんな次第で、もし自分一人で決めたとすれば、おそらく農学部を選んでいたと思う。広い自然の中で新種の作物を育てることは少年時代からの夢だったし、新しいものを作り出したいという当時の私の野心を満たすにも十分だったからである。

ところがある日、1年のときの担任でドイツ語の教授だった片山尚先生に呼び出され、「物理をやってみないか」との意外な勧めを受けた。そこでおそるおそる金光先生に相談した。自分の幼稚さを素直に述べて、無理と思いますがと言ったのだが、これまた意外にも、「勇気を出して、やってみなさい」とのお言葉だった。この勧めが心の底から嬉しかったので、不安もあったが、迷うことなく物理への進学を決心した。そして、一気に試験勉強に突入し、好きも嫌いも言わないで計算問題の練習に専心し、無我夢中の数か月の後、難関の入試に合格した。後で聞いたところによると、合格はすれすれだったというが、とにかく東大生になった。


大学時代(1931〜1934)

残念ながら、大学時代には楽しい思い出は少ない。当時の東大物理のことは、一年先輩の永宮健夫〔1910〜2006〕、三宅静雄〔1911〜1999〕両氏がこの欄に書いている。三宅氏のような読書家が「入学をしてまず悟ったのは、自分が世間知らずであるということだった」というくらい、当時の東大物理には秀才が集まっていた。物理の東も西もわからぬ私は、「物理数学」でしぼられ、真正直に勉強したが、今になって考えると実につまらぬ努力だった。物理学は、基礎方程式で計算問題を解くだけの学問ではないのである。2年になって清水武雄先生〔1890〜1976〕の「電磁気学」を聴き、物理学の姿が少しずつわかってきた。3年では量子論を習えるのが嬉しかったが、予備知識が皆無だったせいもあって生半可で終わってしまった。

こんなにつまらぬ大学生活の中で、ただ一つ印象に残ったのが、嵯峨根遼吉先生〔1905〜1969〕の「放射能」だった。これは今日なら「原子核」と呼ばれるべきものである。前世紀末の三大発見(放射能、X線、電子)が原子物理学への扉を開いたというが、1932年――私が大学2年の年――は、まさに原子核物理学への扉が開かれた年だった。それまではすべての物質が陽子と電子からなると考えられていたのだが、中性子と陽電子が発見され、さらに原子核の人工変換が初めて行なわれたのだ。この感動の年の翌年に、新進助教授の嵯峨根先生が最初の講義をされたのだから実に活気があり、しかも、実験を主として話されたので私にもよくわかった。この刺激で、卒業後は原子核の研究をしたいとさえ思ったが、大学進学のときと同じ気持ちで、そんな大それたことは口に出さなかった。


助手時代(1934〜1942)

卒業のときの成績は決して良くなかったが、何かの理由で、一生の恩師となった西川正治先生〔1884〜1952〕の助手に推薦された。その理由を強いて探すと、先生は私の実験好きを買われたのだ。例えば、当時よく使われた清水式電位計の調子が悪くなると、くもの巣のように細いガラス糸を作り、それに銀づけをして張り換えねばならなかった。たいていの学生はこの種の仕事を嫌ったが、私はそれが大好きで、時間を惜しまずに根気よくやったのだ。

先生の助手として電子回折の研究を始めたが、その手始めとしてベーテの論文(電子回折の基礎理論)を読むのに4ヶ月もかかった。他方、実験は手早く、自分の構想を次々に実行した。後になって院生を指導してみると、彼らのめぐりの早さには驚嘆する(例えば私の4ヶ月を数日で片づける)が、実行すべき構想をもっていない。せめて自分がしたぐらいの工夫をしてくれないかと思ったこともある。

西川先生は研究の進行について細かい指示はされなかったが、私は8年間に一連の実験を行ない、その成果が学位論文になった。私も年をとって昔の自慢話をするようになったが、この論文は『論文にみる日本の科学50年』(岩波書店、1980年)に引用されている。これは『科学』(岩波書店) の発行50巻を記念して、その間のごく少数の優れた業績を紹介したものだから、自慢話は私の一人よがりではない。

さて、東京での修業の後、名古屋大学理学部の物理学科に26年間、同工学部の応用物理学科に7年間、さらに名城大学の理工学部に9年間勤めて、研究と教育にあたった。研究に関するその後の話は専門的になるので省略し、残った紙面を教育に関する話題にあてて、責を果たすこととする。


純正物理と応用物理

純正物理の体系は壮大で美しいから、純心な若者はそれに魅かれる。彼らの多くは応用物理をきたないもの、ときには汚らわしいものとさえ思っている。私にもそんな時代があったが、これは物理学の傍観者の感覚である。どんな人でも最初は傍観者から出発するのだからそれでよいのだが、自分自身が研究の渦に入ってみれば、純正の分野も外から眺めたほど美しいものではない。他方、汗水を流して成果を得たときの喜びは、純正でも応用でも同じである。この辺の感じ方は人によって違うだろうが、これが50年の研究生活を両分野で送った私の実感である。

さて、多くの人々が、応用物理は純正物理を応用するものと思っているが、必ずしもそうではない。ガリレオが望遠鏡を改良したときには幾何光学はなかったのだから、彼は理論を応用して色消しレンズの設計をしたのではない。カルノーが有名なサイクルを考えたのは、熱力学の理論を打ち立てるためではなく、英国に遅れをとったフランスの熱機関を改良するためだったという。湯川理論が原子力を目的としたものでなかったことは明瞭だが、物理の歴史の中には、応用が先で純正が後という例も少なくない。

もっと身近な技術開発でも、純正物理の応用だけで達成されるものではない。有能な応用物理学者は、もちろん純正物理を応用するが、それ以上に発明論的な発想で、新現象を発見したり新装置を発明したりするのである。この場合、純正物理は発見や発明の意味づけを後からすることになる。学校ではまず純正の一般論を教え、その後で応用問題に行くため、多くの人々が応用物理もそのようなものだと誤解しているのだ。

大きな憧れをもって純正物理の新分野に入っても、一人前の研究者になったときは古くさくなり、末梢的な仕事しかできない人が多い。そのような仕事もすべてが無用ではないが、どうせ末梢なら、応用的研究のほうが実用に役立つ楽しみがある。純正にとらわれて末梢的な研究をし、それが応用より高級だと思っている人もいるようだが、私の価値観から見るとつまらぬ錯覚でしかない。

とにかく、物理学は本質的に応用と結びついて発達してきたし、今後もそれに変わりはなかろう。若者が純正物理の美しさに誘われるのは良いことだが、それを眺めているだけではプロの物理学者にはなれない。プロたる者は、自分で美しいものを作り出すのである。その入り口は純正とは限らず応用のこともあろうし、途中には泥沼もあろう。とにかく、研究者を志す者は既成の体系の美しさに甘えてはいけない。


物理の教育

物理に限らず一般に理科の教育は、読み書き算盤とは違って、教えられたとおりに習わせるだけでは足りない。さらに、自分の目で見て、自分の頭で考えるように仕向けなくてはいけない。ところが日本では、例外は別として、教えられたとおりに習う生徒が真面目で、自分の意見をさしはさむ生徒は生意気とされている。ある高校の試験問題で、学校側の示した正解以外にも物理的に正しい解が指摘された。しかし学校側は、正解が出るように教えたのだからという理由で他の正しい解を認めなかった例がある。これでは自分で考える意欲を封じ、物理を暗記物にしてしまう。まことに困ったことだが、これが今日の日本の一般的傾向だろう。

ニュートンの三法則を暗記するのは簡単だが、自分の頭で考えれば大変に難しいものである。名城大学で調べた結果によると、電気学科3年生百余人の少なくとも25パーセントが、投げ出された小石にはなお投げ出したときの力が働いていると思っている。また、第三法則を正しく理解している者はわずか5パーセントに過ぎない。この結果を見て、なんと阿呆な!と言う先生が多いが、私はそうは思わない。自分で考えさせるように問題を出せば、これが当然の結果なのだ。アリストテレス以来、頭の良い人はたくさんいたと思うが、ニュートンに至って初めてできた三法則が、今日の凡人にそう簡単に理解されるはずがあるまい。

自分の目で見よ、自分の頭で考えよと教えても、生徒にできるはずがない。これは興味を引かせて、自発するのを待つより仕方がない。その最良の手段は、まず実験を見せることである。名城大学の学生に聞いてみると、高校での実験は細々としか行なわれていないようだ。そこで、手のかからない実験、例えば磁石の力をばねはかりで測定する実験をして見せると、大学3年生の多数が興味を示す。小学校でも大学でも、演示実験は効果が大きい。また、その用意をしてみると、上のような簡単なものでも一回では成功しない。そこで、なぜかと考えて工夫する。そこから先生自身の物理が始まるのだ。実験を繰り返し、成功した喜びをもって授業に臨んでこそ、生徒の興味を引き出せるのだ。既成の演示実験装置でも、上手に使いこなせば生徒によい影響を与えうると思う。

さて、物理教育の本質をいかに説かれても今日の入試制度のもとでは何ともならない、というのが、高校・中学側の意見だと思う。これに対して意見がないわけではないが、ここでは省略し、私の苦い経験を述べる。私は入試問題作成のたびに、もっと易しくし、量を減らすことを主張したが、なかなか容れられなかった。大学教授の大部分は私と違ってめぐりが速く、より高度な入試問題を作ろうと努力する。その後を受験産業が追いかけてくる。この傾向にささやかな抵抗を示し、実験と関連のある問題を出そうと苦労したが、あまり成功しなかった。

毎年、問題作成の時期になると受験の夢を見て、「とてもできない!」と投げ出した途端に目が覚める。そして、「ああよかった。俺はもう受けなくてよいのだ」と気がつく。この3月で名城大学も定年だから、これからはこんな夢からも解放されるだろう。私のような性格の者には、今日の受験戦争はとても勝ち抜けない。たとえ少数でも、彼らが落ちこぼれるのは残念である。他方、私自身はよい環境、よい先生に恵まれて幸いだった。気長に見守って下さった先生方に心から感謝を捧げて、筆を擱くこととする。

(原題「私と物理学」。「物理」第222号、1984年)