上田良二「小学校時代の思い出に寄せて」



私は大正7年に小学校に入り、昭和6年に旧制高校を出るまでの13年間を成蹊学園で学んだ。小学校時代には学園の創立者で園長だった中村春二先生〔1877〜1924〕が御存命で、直接間接に感化を受けた。そのなかで「人を引きずる人になれ」と教えられたことが、今も心に刻み込まれている。昔の思い出によせて、最近の感想を述べることにする。


汚い仕事を卑しむな

「人を引きずる人」とは、高い地位の人という意味ではない。百姓でも魚屋でも労働者でもよいと教えられた。成蹊小学校には上層階級の子弟が多かったから、このことだけは口だけでなく実地でしつけられた。

学校には小使さんが一人いたが、校舎校庭の掃除は先生と生徒の仕事だった。しかも上級になると、教室や廊下だけでなく、便所までも受け持たされた。それも単に用を足す場所だけではなく、当時の汲み取り式のかめの中にまで及んでいた。

かめの中身は、学園内の畑のすみの肥溜に運んだ。小学生には園芸が正課で、大根や茄子を作ったが、肥料はその肥溜から汲んだ。華族様のお坊ちゃんも大金持ちのお嬢さまも、みんなおあい汲みをさせられたのだから、こんな仕事も学園内では卑しいとは思わなかった。ところがある日、堆肥にする馬糞を近所の馬車屋に取りに行かされた。湯気の立つ馬糞を山と積んだ車を引いて帰る途中で、近所の子供から「くせえな!」と嘲られたときはさすがに恥ずかしかった。

そんな教育のおかげで、私は汚物を扱うのを卑しいとは思わない。戦時中は自分の排泄物の処理に困った人も多いが、私は得意の腕をふるった。実験室の掃除も苦にならないから、若い者の汚したところにせっせと雑巾がけをしたものだ。今でも実験室が汚れていると手を出したくなるが、迷惑と言われるので遠慮している。

私はいま名城大学で物理を教えているが、学生の行儀の悪さが気になる。夕方になるとたばこの吸殻や踏みつぶされた紙コップが教室に散らばっている。清掃会社の人がそれを大袋につめて運び出すのだが、学生はそのおじさんおばさんに挨拶さえもしない。こんなことは子どものうちに体で覚えさせなくてはだめらしい。大人になってから口で教えても効果はあがらない。


周囲の人に引きずられるな

1年生か2年生のころ、園長先生が教室に来て昔話をして下さった。そのあとで生徒全員を起立させ、「これから小さな声で合図をするから、それに従いなさい」と言われた。合図は「シー」と「スー」で、「シー」なら右を、「スー」なら左を向けとのことだった。そこで全員に目をつぶらせて、次々に合図を出された。小心な私は右と左を間違えないように、園長先生の合図に全精神を集中した。最後に「目をあいて」と言われて見ると、友達どうしの向きがまちまちだったので、「ワアッ」と声があがったのを思い出す。

じつを言うと、合図を受けるたびに薄目をあいて隣の子を見たかったのだが、園長先生の前でそんなことはできない。どうしても自分ひとりで向きを変えなければならなかったのだ。今から考えると、あの授業は人に引きずられない習慣をつけさせるための実習だったのである。

私は大学での講義中に「はい」か「いいえ」で答えられる質問をして、学生に手をあげさせてみる。ところが、ほんの少数がこそこそと手をあげるだけで、大部分は顔を見合わせて小声で相談をしている。こんなときには、大学生に目をつぶらせたくなってしまう。

周囲の人を気にするのは、名城大学の学生だけでなく日本人の一般的傾向と言える。むしろ、周囲の状勢を見極めてから行動するほうが賢明、と思っている人が多い。もちろん事と事情によってはその通りだが、自分で判断すべき時に周囲を気にしていては人を引きずることはできない。日本人のこの傾向は2000年におよぶ島国的環境の結果と思うが、この欠点は教育によって直さなければならないと痛感している。


艱難辛苦に耐えよ

成蹊では小学1年から断食をさせたり、真冬の吹きさらしに裸にさせたり、ずいぶんひどいことをした。夏には夏休みがなく、「夏の学校」があった。そのなかの一番重要な行事が箱根仙石原でのテント生活だった。今の人は「なんと素晴しい!」と思うだろうが、当時の感覚では「なんと野蛮な!」だった。

1年生のときは、湯本から宮の下まで歩いて一泊したが、その登り坂でものすごい雨に降られた。レインコートのフードから流れ落ちるしずくで、前が見えない。下を見ると、滝のような水が流れていた。私はべそをかきながら登ったのが、今も忘れられない。

テント生活というが、1年生はじつは宿屋に泊った。2年生になって初めてテントに泊るとき、熊が来るか狼が来るかと心配で、とても恐かった。そのせいか、夜にうなされて寝ぼけ、テントの外にふらつき出てしまったことさえある。

テント生活は粗食の訓練でもあった。じつにまずい食事がくり返されたので、うちの食事の夢を見て、早く帰りたいと泣いた子もいた。

人を引きずる人は他の人より先にへこたれてはいけない、と言って鍛えられた。戦場にこそ出なかったが、弱虫の私が戦中戦後の貧しい時代を生きぬけたのはこの鍛錬のおかげと感謝している。


趣昧を豊かに

中村先生は趣味の豊かな方だった。御父君が歌人だったこともあって、和歌は趣味というより先生の教養そのものだった。当然のことながら書もよくされ、絵も非常にお上手だった。また、謡曲もされ、ピアノも弾かれたという。さらに、植物がお好きで、牧野富太郎博士〔1862〜1957〕と親交があった。

その牧野先生が、箱根のテント生活に参加されたことがある。採集から帰って来られた先生の胴乱からは、植物がはみ出していた。その翌日、4年生か5年生だった私は、先生のあとについて採集に行く幸運に恵まれた。

おかとらのお。虎の尾のような形の白い花。岡の上に多いからおかとらのおという。

こまつなぎ。赤い花の豆科植物。子どもが引いても茎が切れない。馬をつないでも大丈夫という意味。

ともえそう。中輪の黄色い花。花びらが巴のようにねじれている。葉は対生。

今でも先生の声が聞こえると思うほど、記憶が鮮明である。近年、学会の遠足などで山道を歩くと、私の植物通に驚く人がいる。と言っても子供の趣味以上のものではないが、植物は名前を知っているだけでも楽しみになる。例えば、某年某月、K先生と戦場ヶ原を歩いたとき、「いぶきとらのお」 が点々と咲いていた、というような美しい思い出が名前とともによみがえってくる。70歳を越えたこのごろ、しみじみと植物への愛着を感じるのは、牧野先生のあとをついて歩いたときの楽しさが忘れられないからである。


徹子の兄弟子

一組が30名。担任の先生は1年から6年まで持ち上がり、というのが成蹊小学校のしきたりだった。私の担任は子吉武次先生。今でも子吉会という同窓会があって、毎年集まっている。

『窓ぎわのトットちゃん』〔1981年刊〕が出た年の集まりで、小林宗作先生〔1893〜1963〕のことが話題になった。われわれは徹子より先にこの先生に習ったのだから、「俺たちは徹子女史の兄弟子だ」と大笑いをした。髪の毛が波形で縁なしの眼鏡をかけ、きちんとしてハイカラな先生だった。ピブラートのついた声で唱歌を教えた。先生は小学生に三部合唱も教えたし(当時としては画期的なこと!)、女子との合同授業で社交ダンスも教えた。

学芸会の前になると、子吉先生が台本を書き、小林先生が作曲をして、歌劇ができあがった。組中が手わけをして、舞台の背景を描いたり飾りつけを作ったりした。自分自身が何の役をしたのか記憶はないが、しゃがれ声のN君が亀になり、居眠りをしている兎を追いぬく場面が忘れられない。四つんばいになり声をしぼり出して唱いながら、舞台の中央に差しかかったとき、背中に乗せていた甲羅が落ちてしまった。そこでN君は落ちた甲羅を乗せ直し、しゃがれ声の歌も唱い直して名演技を終わった。

「胡蝶の舞」とかいう派手な作品もあった。子吉会でそんな話が出ると、「T君が美しいOさんの相手役で、うらやましかったな!」などと言う人もいる。しかし、今から考えると、先生方は生徒の性格をじつによく見ぬいて配役を決めて下さったものだ。「今日のような民主教育」では、こんなことは難しかろう。

人を引きずる人になるには、自らを厳しく鍛えなければならないと同時に、豊かな情操を伸ばさなければならなかった。こんなに良い教育を受けながら大した貢献もできずにこの年になってしまったのは恥ずかしいが、教育が私を幸福にしてくれたことにはいくら感謝しても感謝しきれない。

豪雨の中で小さなぬれねずみを励まして下さった先生、テントの中で夜も眠らずに見守って下さった先生を思い出すと、ありがたさに涙が流れる。

(「蟻塔」4月号、1983年)