上田良二「楽しむ理科教育」



理科の時間に先生が虹の演示実験をして見せた。生徒の一人が過剰虹が出ていることに気づいて質問したが、先生は答えられなかった。放課後に、先生はその生徒と討論したが、二人の意見は一致しなかった。そこで、どちらが正しいかを実験で試すことにして、いろいろと試みたが決着はつかなかった。他の先生に相談したり、専門書を調べたりしたが、問題は解けなかった。その不思議さに二人は魅せられて、夢中になって考え、討論や実験を繰り返した。そして数か月の後に、互いに納得のいく結論に達した。二人はついに、教科書に書かれていないことを発見したのである。

(1)過剰虹はかすかだから、先生も見逃していた。それに気づいたのは、この生徒が稀に見る個性に恵まれていたからである。このような個性は生まれつきであって、教育の結果ではない。しかし、先生が討論や実験をしてくれたから、育てられたのである。

(2)この生徒の発見は、学術的には幼稚でも、私は独創的と評価する。独創性は小学生にも中学生にもある。その多数が育てば、その中からノーベル賞も現われるだろう。

(3)演習問題を考えさせて独創性を育てるという教育家がいるが、決まったことを考えさせても独創性は育てられない。独創性は、生まれつきの個性が何かに触発されて目覚め、環境に恵まれて育つものである。

(4)普通の先生なら、生徒の質問を何とかかわして教師の権威を保とうとする。この先生の場合、答えられないことを恥と思わなかったところが立派である。生徒と一対一で討論した姿勢はさらに立派である。日本中の先生に見習っていただきたい。

(5)この先生はたぶん、過去の実験中に不思議なことにめぐりあい、苦心の末にそれを解明した喜びを味わっていたのだろう。自然のからくりの巧妙さに魅せられたり、自分の小発見に感動したりした経験がないと、この先生のように素直にはなれないものである。

(6)質問に答えられないで、かえって生徒の個性を育てることができたのは、怪我の功名である。教える教育には知識が最重要だが、育てる教育には知識より重要なものがある。先生が自然との触れ合いを楽しみ、人間的に素直だったことが良かった。

(7)過剰虹はカリキュラムの外である。そのようなことに夢中になる先生は、今の日本では父兄にも校長にも受けが悪いだろう。それでも、私はこの先生を最も良い先生と評価する。社会全体がそうした評価をするようになれば、良い先生が増え、独創的な人材が育つと思う。

私の知る限り、最近の理科教育の議論はカリキュラムに偏っている。カリキュラムも大切だが、いかにカリキュラムを精選しても理科離れの問題は解決しない。ましてや、独創的人材の育成はできない。

私は、まず先生が理科を楽しまなくてはいけないと思う。先生が楽しむためには、カリキュラムを選ぶ自由と物を考えるゆとりを先生に与える必要がある。先生が楽しみ、詰め込みをしなければ、生徒も自然に楽しくなる。

「先生は教える人、生徒は習う人」という通念を捨てて、先生と生徒が一緒になって楽しめば、必ず良い個性が育つ。理科教育の振興には、カリキュラムの精選に熱を入れるよりも、大らかに楽しむことを奨励するほうが有効ではなかろうか。平均的人材は、大まかに決めたミニマムエッセンシャルの教育で確保できる。それ以上については、自分で勉強して伸びてもらえばよいではないか。一見杜撰に見えるが、教育に自由の気風さえあれば毎年のノーベル賞も夢ではあるまい。

私は今日の教育現場の実情を知らないから、今すぐ自由教育に移れとは言わない。管理教育でないと教師がだらけてしまうようなら仕方がないが、それは悲観的に過ぎるのではあるまいか。日本も生活程度が上がり、先進的になりつつあるから、自由教育の下地ができつつある。国全体でなくても、日本のどこかに理科が好きで好きで仕方がない先生が集まり、理科が好きで好きで仕方がない生徒を集めて、理科を楽しむ学校を創設できないものだろうか。昔の貧乏日本ではそんなことは夢の夢だったが、今日の日本では哲学次第で実現可能と思う。

(1996年頃)


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