上田良二「物理の才能教育」



素質を見抜く教育

教育論には両極端の出発点がある。第一の出発点は、生まれ落ちた赤子はすべて同じ素質を持つと考え、第二の出発点は、各個の異なった素質を重視する。前者では、教育さえよければ誰でも天才になれるが、後者では、教育の如何にかかわらず素質のない者は駄目である。日本の教育学者にはどちらかと言えば前者に近い人が多いようだが、私は後者に近い。小学校に入ってくる子どもにはメロンも胡瓜も烏瓜もあるのに、同じことを教えて同じ試験をするのは困ったことだと思う。それでは先生がどんなに努力しても、烏瓜が落ちこぼれになってしまう。

アメリカのような国では、人種もまちまちだし、家庭的な教養にも大きな格差があるから、自然に個性を重んじる教育が発達した。それに比べて、日本は恵まれすぎて画一教育になってしまったのだろう。私に言わせれば素質を見抜くことが教育の出発点だが、それは差別の手始めとして嫌われる。人間の素質は複雑で隠されているから、瓜の種を見分けるほど簡単ではない。その困難のために画一に流れていく節もある。とにかく、私は素質無視の教育には反対である。

こんなことは教育の専門家によってすでに論じ尽くされていると思うから、これ以上は立ち入らない。烏瓜を持ち出したのは、子どものころ、裏庭の植木からぶら下がった真っ赤な烏瓜の美しさを祖父に教えられ、その美しさが今でも頭に焼き付いているからである。今日の学校では、メロンの味は高く評価するが、烏瓜の色は相手にしない。


物理の素質

名古屋大学から名城大学に移って、物理の素質に恵まれた学生がいかに少ないかに気がついた。名城大学には物理学科はないので、電気、機械、土木などの学生を教えているが、物理らしく体系的に話をすると、大部分の学生にそっぽを向かれてしまう。そこでいろいろと工夫しているうちに、私の講義は物理という名の見世物になってきた。それでも、学生の興味をつないでいくことのほうが大切だと思っている。

名城大学でも、私の教えているのは理科系の学生で、しかも高校の成績は中以上の者である。それでもこの通りだから、高校の先生の苦労が察せられる。現在の高校の教科書は、力学から始めて曲がりなりにも物理を体系的に教えるようにできている。歴史的に見れば、力でも質量でも運動量でも、多くの天才が長い年月をかけて作り上げた概念である。個体発生が系統発生を繰り返すことを考えれば、教科書を理解するのは難しいことなのだ。それを易しいと思うのは物理屋の思い上がりでしかない。素質のない者は好奇心がないから、受験勉強はしても本当の物理好きにはならない。それ以下の者は拒否反応を起こして物理嫌いになってしまう。物理らしい物理を喜んで受け入れる素質のある者は、高校生の一割以下かもしれない。


教養教育

高校の教科書にしても大学教養の教科書にしても、かなり専門色が濃い。新制大学が発足したころ、教養課程の物理は文系理系の別なく文字通り教養的なものにせよ、という議論があった。そこでは物理学の歴史、物理と社会の関係、特に現代工業の背景などについて教えるので、専門課程の一部であってはならないと主張された。これは今から考えても正論だったと思うが、実行されなかったのは教師にそれを教える能力が欠けていたからだろう。今からでも教師が勉強してこれを実行すれば、物理嫌いが減るのみでなく、日本人の教養が向上し、貿易摩擦の軽減に役立つかもしれない。大学の教養課程だけでなく、高校でも物理をより教養的に切り替えるほうが、多くの生徒にとって有益ではあるまいか。


エリート教育

私は高校の物理が教養的なものだけで十分とは思っていない。物理の素質に恵まれ、将来、研究開発の先頭に立とうとする者には、現在の教科書以上に充実した専門的な物理を教えるべきである。高校ともなれば、生徒の知能に大きな開きができているから、優れた者にそのくらいの追加を課しても負担に耐えられぬことはあるまい。現にスポーツでも音楽でもそれをやっているのだ。

さらに、優れた素質の生徒を探すために、次のようなスカウトを提案したい。それは、物理学者と物理教師の数人が一団となり、相撲の巡業のように各地を回り歩くのだ。そして野心的な若者を集めて10日間ほど合宿し、講義、実験、討論を行ない、本当に優れた者を選び出し、徹底したエリート教育をするのだ。これも、スポーツなどではすでに行なっていることだ。同じことが物理でもできるとは限らないが、試験的にやってみる価値はあろう。


才能の発見と運

以上のような主張には不公平が伴なうとの反論が必至だろう。しかし、何をもって公平と言うかはよく考えてみる必要がある。私は、メロンと烏瓜に同じ肥料を与えることが公平とは思わない。したがって、メロンか烏瓜かを見抜くことが必要で、これは教師の主観的判断に俟つよりほかに手がない。主観である限り、いかに良心的でも誤りは避けられない。同じような二人のメロンのうち、一人が及第でもう一人が落第ということも起こりうる。しかし、それは運と諦めてもらうのだ。

諦めろとはけしからんと食いつかれるだろうが、人生には運が付き物である。どこの国に生まれるかは運だから、日本に生まれた幸運を開発途上国の人々に分け与えることはできない。どんな素質に恵まれるかも運だし、よい先生にめぐりあうのも運である。人生には運があるから面白く、また努力のしがいもあるのだ。ついでながら、研究にも運があるから面白いのであって、理づめだけだったら味気ないものである。教育でも研究でも、大人の議論には運が考慮されるはずだ。これは機会均等とは別のことである。


本当のエリート

エリート教育とはけしからん、という反論もあるだろう。こんな反論が起こるのは、日本でエリートと呼ばれている人たちの道徳が間違っているからである。彼らは自分たちの才能にものを言わせて金を儲けたり権力を振るったり、大衆を犠牲にして自分の利益ばかりを謀っている。これは確かにけしからぬことだ。私に言わせれば、この悪の根源の少なくとも一部は教育論の第一の出発点にある。つまり、生まれ落ちたときは誰もが同等だと考えるから、彼らエリートは自分の才能を自分の努力の賜物とうぬぼれている。そして、自分で獲得した才能を自分のために使ってどうして悪いのか、と思っている。多少謙遜な者が恩師のために謝恩会を開くのが関の山である。

他方、私に言わせれば、どんな素質に生まれるかは運である。言葉を換えれば、人間の力の限界を超えた神の采配である。よい素質に生まれたのは、自分の力によったのではなく神様の恵みによったのだ。彼らがエリート教育を受けるのは、自分たちの利益のためではなく、大衆に奉仕し神の恩寵に報いるためである。このことは小学一年から子どもにも親にも教えなければならない。私は、学業でもスポーツでも、優れた者には賞などを与えて激励すべきだと思っている。しかし、賞を得た者に、自分の努力だけでそれを成し遂げたとうぬぼれさせてはならないし、奉仕の義務も忘れさせてはならない。エリートはこのようにして育てるべきものだと信じている。

今日の学校では、いわゆる公平を旨として賞を出さぬのみか、むしろ才能の芽を摘み取る傾向にあるのは遺憾である。才能を伸ばす教育が道徳教育と並行して進まぬ限り、日本の科学や技術の将来に大きな期待を持つわけにはいかない。

私のような素人が道徳教育に立ち入ったのは僭越と思うが、持論を素直に述べさせていただいた。専門家の御批判を得れば幸いである。

(原題「私の教育論」。「応用物理」第51巻第6号、1982年)


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