上田良二「一人ひとりに合った教育を」



嫌われるエリート

戦前には、出来のよい子を激励して立身出世させること、すなわちエリートの育成が教師の大きな生きがいだった。ところが最近は、エリートといえば良い学校を出て良い地位につき、大衆に思いやりのない横柄なやつと嫌われるようになってしまった。そのため、良心的な教師はエリートの育成より落ちこぼれの救済に熱情を注いでいるということだ。

他方、今の日本に一番欠けているのがエリートではあるまいか。政治や外交でも同じと思うが、私にとって身近な技術開発も例外ではない。日本の技術水準が上がったといっても、基礎的な骨組みはいまだに欧米に負っている。これは、国際的に指導性のあるエリート技術者が日本に現われないからである。

これでは将来が心配ということで、エリート教育が話題になり始めているそうだが、今日のようにエリートが世の嫌われ者になっているままで、それに踏み切るのは明らかに間違っている。


正しいエリート

正しいエリートは、その優れた才能によって一般大衆に奉仕する精神を持つ者でなくてはならない。戦前の日本には「お国のため」というお題目があった。これは善意に解すれば、日本の大衆に奉仕せよということである。そのため、当時のエリートはうわベだけでもそう見せかけようとしたのだが、戦後はこのお題目さえなくなったから、才能のある者が大っぴらに私欲に走るようになったのである。

そこで、戦前のほうがよかったから昔に帰れというのではない。「お国のため」は、日本人のことしか考えないという点で視野が狭すぎる。日本人の「愛国心」も同じである。これは二千年の歴史に由来する島国根性で急には直るまいが、これからのエリートは、日本人でも世界の大衆に奉仕する精神を持たねばなるまい。技術開発でも、日本人の儲けだけを目標としていては大したことはできない。一流の発明というものは、昔も今も世界中の人々を潤している。


素質の重要性

私は、人間の一人ひとりが異なった素質を持って生まれると信じている。生まれ落ちた赤子はすべで同じとする説もあるが、これは信じがたい。私に歌手や相撲取りの素質がなかったと言っても、誰も疑うまい。商人になっても細々と食べていく程度だったろう。それが物理学者になって大学教授がつとまったのは、その素質に恵まれていたからとしか考えられない。

カラスウリの種ではキュウリはならないし、キュウリの種ではメロンはならない。人間も同じである。ただ、人間の素質は複雑でしかも隠されているから、ウリの種のように簡単には見分けられないところが違っているのだ。

説明があまりに簡単すぎたかもしれないが、とにかく素質に差のあることを認めるなら、それに合った教育をすべきだろう。小学校は一つの課程で我慢するとしても、中学以上にはいくつかの異なった課程を設けねばなるまい。同じことが今日の通説になり始めているようだが、私は対策としてではなく、原理的にそうすべきだと主張しているのである。

生徒を異なった課程に分類するのは平等の原理に反すると言う人もいるが、私はそれに反論する。人間の素質はいわば天からの授かりものであって、人間の力ではどうすることもできない。だから生徒を分類するのは天の采配に従う道であり、天が平等に与えたものを人間が差別するのとは話が違う。「天は人の上に人を作らず」という言葉を馬鹿正直に理解してはいけない。


主観の重要性

素質が隠されている以上、生徒の一人ひとりに適した課程を選ぶのは容易ではないが、これが教育の最も重要な部分なのである。教師は生徒をよく観察して、愛情を込めてこれを行なう任務を持っているのだ。今日のように偏差値だけでこれを行なうべきではない。

筆記試験には表われない重要な要素がたくさんある。誠実、温厚、友情というような徳性もあるし、宗教的感受性も芸術的感覚もある。並列列記は適当でないが、知的向上心、社会や自然への好奇心、自主性、独創性、目的達成への執念、集団的指導力、連想力、決断力、等々、いくらでもある。これらの大部分が客観的に評価できない以上、適性の判定は教師の主観に俟つよりほかに道はなかろう。

教師がいかに良心的に努力しても、主観に誤りは避けられないから、その責任を教師に負わすのは酷だと言う人もいる。しかし、天の采配に従って良心的に行なった判断の誤りは、人間どうしで許すべきではあるまいか。誤りのおそれがあるからといって、主観的方法を放棄すべきではない。


画一教育

今日の画一教育は天の采配に反している。天が人間の一人ひとりに異なった素質を授けているのに、それを無視して一定の枠に押し込めるからである。これでは、教師がいかに努力しても落ちこぼれが絶えないのは当然の理である。例えば、現行の高校物理は素質のある者には簡単かも知れないが、これを消化できる者は全生徒の20パーセントにも満たないだろう。これほど難しい教科書を高校生全員に課すことは、天の采配をわきまえず、自分たちの教授能力を過信した先生方の無謀と言っても過言ではない。

繰り返して言うが、画一教育は天の采配に反して国が犯した大きな誤りであり、人間どうしで許しあえるような誤りとは質が違う。最近の校内暴力はその大きな誤りへの報いと見ることができる。これにはいろいろの対策が講じられていると聞くが、天の采配の厳しさを認識せぬ限り、この問題の解決は困難であろう。

他方、今日の教育は科学的という美辞に惑わされている。科学的教育法は技術や知識の切り売りには大いに役立つが、人間の精神の教育には無力である。

偏差値となると一点もおろそかにしない忠実な教師が、先述のような人格的要素には目もくれない。これでは象の研究に、尻尾の毛の本数を数えて頭も足も見ないのと同じではあるまいか。このような教育が広く行なわれて誰も疑わないのは、受験準備に適し、管理に容易で、しかも格好がよいからであろう。親も教師も早くこの点に気づいて精神の重要性に目覚めないと、事情はますます悪くなるばかりである。


道徳教育

昔から、強者は弱者を助けよと言われている。強者は優れた素質を天から授かったから強くなれたので、自分だけで強くなったのではない。だから天の恩に報いるために弱者を助けよ、という意味であろう。単に強弱だけでなく、人間にはいろいろな才能があるから、その質と量に応じてより弱い者に奉仕する精神が必要である。

このことを小学一年生から教え、口先だけでなく実践させるべきである。身体の不自由な子をかばうだけでなく、成績の上位の者は下位の者を助ける習慣をつけさせるべきである。

出来のよい子の才能はほめてもよいが、子供自身をほめてはいけない。才能は自力で得たものではないからである。逆に、出来の悪い子供自身を責めてはいけない。彼らは努力する素質さえ授からなかったからである。これは「罪を憎んで人を憎むな」というのと同じことなのだ。


エリート教育

出来のよい子に天の恩を教えたら、激励して努力させ、才能を伸ばすとよい。特に優れた者には賞を与えて表彰し、飛び級をさせて上級に編入することが望ましい。そのような子どもには、特に奉仕の精神を叩き込み、人の嫌がる仕事を率先実行するように躾けることが大切である。

また、特定の才能に優れた者を集めてエリート教育をすることも有意義であろう。今日、これが行なわれているのは芸能とスポーツくらいだが、これらは権力と結びつかないからだろうか。私は権力と結びつきうる一般の分野でもこれを進めよと主張するのだが、そこに集められたエリートの卵が奉仕の精神を身につけていることが条件である。

ついでながら、大学はエリート教育の場だから、各々に特徴があり格差があって当然である。格差是正を徹底したら、大学らしい大学はなくなってしまうだろう。そんな無駄な努力をするよりも奉仕の精神を教えるほうが、困難はあっても希望が持てるではないか。


おわりに

「言うは易く行なうは難し」と言うが、ここに述べたことの実現も難しい。しかし、奉仕の精神による道徳教育は、政治家と役人と教師とにやる気さえあれば不可能ではあるまい。「忠君愛国」より筋が通っていると思うが、いかがなものだろうか。もちろん、実行となれば専門家による基礎づけや波及効果の検討が必要だろう。

素人の基礎づけはすでに述べたが、波及効果についても考えてはみた。日本が高収入、高福祉、無奉仕で平和国家というのは虫がよすぎる。どこかの国からうらやましがられ、意地悪をされるのは必至で、ことによると攻め込まれるかもしれない。そこで軍備が嫌なら、国際的な奉仕が必要になる。それには、まず国防費を低開発国の援助費に切りかえればよいが、奉仕の精神は予算だけで満たされるものではない。世界中の困っている人たちのために、心を込めて身分相応の奉仕活動をしなくてはいけない。

満員電車で若者がでんと腰をかけ、誰にも席を譲らない。そんな躾さえできないこの国で、こんな原稿を書いている自分が滑稽にも見える。奉仕の精神を日本の教育に取り入れ、いつの世にか平和国家を実現したいという夢を見ただけである。

(原題「日本の教育について」。「蟻塔」5月号、1983年)


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