上田良二「科学論文における主観と客観」



自然科学の情報は客観的でなくてはならないが、『パリティ』〔1985年創刊の物理科学月刊誌〕のような雑誌の内容が平面的な客観ばかりになったら面白くない。客観的な中にも著者の個性がいきいきと読み取れるものであってほしい。客観的なものに個性を求めるのは矛盾していると思う人もあろうから、その点を説明しよう。

戦前の話だが、私が初めて専門の論文を書いたときには、第一人称は使ってはならない、また、「明瞭な」「興味ある」などの主観的な言葉は避けるように、と習った。今日ではそんな固いことを言う人は少なくなったし、それを固く守る必要もあるまい。読者にわかればそれでよいのだが、論文の内容が客観的でなければならないことは当然である。

そこで、科学の成果は客観的なのだから誰が書いても同じだ、と思われては困る。もちろん、同じ内容でも表現の上手下手があるから、上手すなわち明快なほうがよい。しかし、もしそれだけなら、直接に成果をあげた研究者に書かせるより文章を専門とするジャーナリストに頼むほうがよかろう。研究者が同時に練達な文章家であるなら文句はないが、むしろ逆のことが多い。その下手な文章を編集者が手間をかけて校訂するより、餅は餅屋に注文するほうが能率がよいということになる。私はこの論理に反対だということを、ここで主張したい。

なぜかというと、成果は客観的でも、出発点の研究題目を選ぶこと自体は主観的判断である。研究の進行にともなって、分かれ道につきあたるたびに、どちらに行くかを決めるのも主観的判断である。もちろん、世の中にはそのような判断を必要としない研究もある。そこではすべてが理詰めで進んでいく。最近はその類の研究がますます増えているせいで、研究とはそんなものと思っている人もいる。しかし、それは研究というより、むしろ調査と呼ぶべきものである。その成果は、ハンドブックに載せれば有用だが、『パリティ』などの題材にはならない。一方、本物の研究なら、決して理屈だけで進むものではない。そこに研究者の個性が表われるから面白いのである。

例えば、実験をして一連の結果を得たときに、月並みな研究者はそれを並列に記述してしまう。他方、個性のある研究者は、自分の経験を背景にして洞察力を働かせ、その各々に軽重をつける。実験の結果は、本質的に重要なものと、見かけ上の無意味なものとが複雑に絡み合って出てくるものだ。それを取捨して記述するのが、有能な研究者である。この仕方に個性が発揮されるのである。最後に到達する結果は客観的でなくてはならないが、その途中は判断の連続と言ってもよい。ジャーナリストがそのようなことまで理解してくれればよいが、それができるのは本物の研究者であって、すでにジャーナリストではない。いわゆるジャーナリストにそれを望むのは無理だろう。

『パリティ』のような雑誌には、原著論文より総合的な解説が多くなると思う。それは研究の進行が一段落したときにまとめられるものだから、主体となる客観的な部分がしっかりしていなくてはいけない。しかし、それがいかに整然としていて明快であっても、それだけでは平面的でもの足りない。内容に軽重の差をつけて、全体としての山あり谷ありの景色を見せてもらいたい。また、客観のすき間に著者の主観的な意見も述べてもらいたいものである。

現在の日本では、そこまで要求する読者は少ないかも知れない。平坦な記述でも、明快であればよく売れる可能性がある。それは、日本人が科学の新しい知識に飢えていて、食べられるように料理されてさえいれば、味などは気にせずに何でも呑み込んでしまうからである。私自身も、山や谷の景色がわかるのは専門のごく近所に限られている。そこを一歩でも外れれば、とても味などはわからない。それでも、一流の著者が遠方の景色を素人にも美しく見せてくれるのは事実である。先日の創刊記念座談会でもデバイ〔Peter Joseph William Debye, 1884〜1966〕の講義は何度聞いても面白いだろうとか、朝永振一郎〔1906〜1979〕のエッセイは何度でも読む価値があるという話が出たが、それらこそ私の求める個性の表われた最高の作品にほかならない。

以上で『パリティ』への希望は終わりだが、最近刊行されている「フロンティアサイエンスシリーズ」にも同じことを望みたい。両者の違いは、いわば短編か長編かにある。おそらく読者層は共通だろう。このシリーズの一つ、外村彰『電子波で見る世界――電子線ホログラフィー』(丸善、1985年)を読んだが、これは私の要求をかなりよく満たしている。著者自身の業績が背景となっており、その個性が十分に伝わってくる。著者以外の誰に頼んでも、このような本は書けなかっただろう。

ここで重要なことの一つは、著者の業績の背景としてではあるが、関連した世界中の流れが無理なく描かれている点である。著者に言わせれば、欧米の先輩の業績に基づいて自分の研究を進めたのだからそれを引用するのは当たり前ということだろうが、日本のジャーナリストによる報告にはしばしばそれが欠けている。テレビの技術番組を見ていると、光ファイバーでも超LSIでも、日本が世界一と宣伝するだけで、その原理的な構想を打ち立てた先進国の研究者に触れることはまずない。それに引きかえ、この著者は自分の研究上の苦心を語る以上に、外国の先輩のひらめきや努力を称えている。また、日本の研究水準をここまで高めた国内の先輩にも感謝している。かつて英国のサッチャー首相が来日したとき、「いま日本はエレクトロニクスで栄えているが、エレクトロンを発見したのは英国人だ」と言ったのが耳に残っている。NHKあたりの技術番組の担当者にこの著者なみの教養があったら、あんな嫌味は言われなくて済んだのではあるまいか。

この本を読んで、著者が大学教授ではなく企業の研究者である点にも興味を覚えた。私もその一人だが、大学教授とはおめでたい商売である。自分の持ち合わせの知識を学生にばらまいて、それを理解しない者は頭が鈍いとか、勉強が足りないとか言っておけば話が済む。そのせいか、大学教授の書いたものは、読者の気持ちなどおかまいなしに専門的なことがくどくど書かれていて説教がましい。この本を読むと、そのくどさが全くない。著者の実験には電子顕微鏡や微細加工の近代的な技術が駆使されているが、それを専門的に書かれたら多くの読者は本筋について行けないだろう。また、理論的な面では量子力学の基礎と関わっているから、これも立ち入って説明されたら難解になっただろう。著者が大学教授だったらそんなことを長々と書いたに違いないが、そのあたりが適当にさばかれている。くそ真面目な読者には不真面目と評されるかもしれないが、多くの読者にはこれで十分である。これは、著者の情報提供の相手が学生ではなく、企業内の部長や社長だったためではあるまいか。

だからと言って、企業の研究者なら誰でもこんな本を書けるというわけではない。要は著者の才能である。このような才能をもつ学者が日本に大勢いるかどうかが問題である。そのような著者を見つけて本を書かせることが編集者の務めだろう。

(原題「科学における主観と客観」。「学燈」3月号、1986年)


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