上田良二「談話会と会誌」



最近の会誌を開いて見ると、巻頭の短い文章に続いて《談話室》がある。ここには「IBM研究所における江崎君」とか、「文革後の中国の物理事情」といった表題がならんでいる。私はこの欄をよく読むが、これは物理の話ではない。その次の《解説》で物理の話になるが、おおむね難しく堅苦しい。《最近の研究から》は全く専門的で、何のことかわからない。多くの筆者は、自分の専門仲間のみを意識して書いているのではあるまいか。

そんな理由で主要部はあまり読まない。読むのはむしろ周辺の雑談だ。ここで一つお願いがある。学問の話をもう少し楽しく読ませてもらえないだろうか。これに対して、「学問は骨を折って学ぶべきだ、楽しく読ませろとは何ごとだ」と反論されるかも知れない。しかし、必ずしもそうではあるまい。


長続きしない談話会

話は少々まわりくどくなるが、最近の私の経験から始めよう。私の属している名古屋大学の応用物理教室では、談話会が長続きしない。そのくせ事務的な会議はますます頻繁になっている。学部全体のものも含めると、毎週一回ではすまない。しかも一回の平均時聞は三時間以上だ。会議の席では研究の問題が役人のセンスで、大学院の問題が感化院のセンスで論じられたりするから困惑する。学生が組合の発想で要求を出せば、教授は企業家の発想で対策を練るといった調子である。教官はそうした会議には万難を排して出席するが、毎月一回、わずか一時間半足らずですむ教室の談話会には足を運ばない。事務会議に欠席すると責任を問われるが、学問を話しあう談話会を忘れても誰からも文句を言われない。

本来学問をするはずの大学の先生が、叱られないからといって学問を怠けてもよいものだろうか。これは先生だけの問題ではない。若い連中も似たものだから、談話会が長続きしない。「なんと情けない教室だろう!」 私がそんな発言をしたら、待ってましたとばかり談話会の係に任命された。以来、私は毎月一回の談話会を企画し、その座長を務めている。

談話会が長続きしない原因の一つは、話が面白くないからである。面白くない理由は、専門的すぎてわからないことだ。最近は各研究室で談話会と称する会合をやっているが、それは専門的な情報交換の場で、広い意味での学問の談話ではない。それと同じことを教室全員の前でやられるのだから、聞き手にわからないのは当然である。年をとった人は学問の話をしないで、外国旅行の話などをする。これは談話会ではなく、談話室だ。談話会はのんきで楽しい会であってほしいが、その内容は学問そのものでなければならない。


講義と学会発表と談話会

談話会の係を引き受けた私は、話し手に対して、他の研究室の人たちにわかるようにしゃべってくれと頼む。そのために、まじめな話し手はABCから講義調で始め、順序を追って解説を試みる。しかし、そんなことが40分や50分でできるはずがない。結局は、講義の部分はわかっても堅苦しく、研究に関する部分はわからず仕舞いということになる。これでは、話し手の努力には感謝するとしても、談話会は面白くならない。談話会の話し手には、まず談話会というものが講義とも学会発表とも異質なことを理解してもらわねばならない。

講義の場合は順序を追って解説することが必要だし、聞き手は理解するために努力をしなければならない。多少肩が凝っても、それは聞き手の責任である。学会発表は専門家の前で行なわれるから、一応の予備知識は期待してもよい。専門家向けだから、序論は必要だが、一番重要なことは新しく発見した事実を客観的に述べることである。

では談話会はどうか。私の考えでは、順序を追って解説する必要も、客観的である必要もない。談話会では、話題の研究がいかに面白く、いかに重要で、いかに役立つかを聞き手にわからせる努力をしてもらいたい。順序立てた説明がないから、物理的内容の詳細は伝えられないかもしれない。それでも、話し手の姿勢を示すことはできる。これはもちろん私一人の考えだが、それが談話会の特質ではあるまいか。

私は最近、講義、学会発表、談話会の三つを三角形の頂点として、某氏の特別講義はどのあたりの座標だったかと考えてみる。ほかにも、セミナー、輪講、シンポジウムなどと呼ばれる集会がある。こうした成分を考えると、私の三角形では次元が足りないかもしれない。ちなみに、シンポジウムはdrinking party with philosophical discussionだそうだ。私は談話会(コロキウム)を、tea party with scientific discussionにしたいと思っている。


一つのたとえ話

ヒマラヤ登山に行ってきた人が、談話会で話をしたとしよう。岩や氷の技術はヒマラヤ登山に欠くことはできないが、話し手が自分の技術のことばかりをこまごまと説明したら、一般の聞き手には全く面白くない。そのような話は学会発表には適していても、談話会には不向きである。その技術が登山に必要であるとしても、それを全部理解させなければ話を進められないというわけではあるまい。聞き手は素人なのだから、技術のことはほどほどにして、登山そのものの面白さや意義に重点を置いてほしい。それでこそ聞き手に感銘を与え、興味深く話を聞かせることができるのだ。要するに、話し手が自分の専門からぬけ出して、より広い立場に立てばよいわけである。


物理での具体例

ある人が電子顕微鏡による相転移の研究について話したとしよう。この研究は、

(1)試料の製作
(2)電子顕微鏡による観察
(3)像の解釈
(4)温度変化と状態変化の関係
(5)理論との比較検討

から成り立っている。たいていの話し手は、1、2、3あたりを詳しく説明する。話し手が一番苦心したところだからついそうなってしまうのだが、それは専門家以外の聞き手には大して興味はない。もしその中に新考案でもあればスライドなどでうまく見せ、話がつながる程度にさらりと片づけるほうがよい。4は実験結果だから十分に時間をかけるべきだ。そして5で、これまで知られていたことと比較して、得られた結果の重要性を強調すべきである。もちろん、はじめに十分に時間をかけて研究の動機や目標を説明しておき、最後に序説と結論の結びつきを明らかにするのを忘れてはならない。そのように話してくれれば、電子顕徴鏡や相転位の専門家でなくても、物理屋なら誰でも面白く聞けるだろう。


一つの余談

最近よくある話の形式として、実験の結果が某々の理論と一致したというのがある。この種の話は概して秀才に多く、整然と語られるが大した興味はない。遠い町の何丁目何番地の太郎君と、別の町の何丁目何番地の花子さんの生い立ちがこまごまと説明され、成人した二人が結婚して、めでたしめでたしといった話のような気がする。

見知らぬ人である太郎君と花子さんが結婚したというくらいの話ならどこにでもあるから、面白くないのは当然である。その結婚が普通の結婚に比べていかに際立っているかとか、結婚した二人の活動がいかにめざましいかを話せば、こうした話も面白くなるはずだ。談話会では住所や学歴は簡単にしてよいから、聞き手に訴えるべきところを浮き彫りにして見せなくてはいけない。


会誌に書いて自分の姿勢を見る

談話会でうまく話ができるようになり、それをうまく文章にまとめられるようになれば、会誌も面白くなるのではなかろうか。もちろん会誌のすべてを談話会的にせよというのではないが、各号にそうした記事が一つか二つは欲しい。

物理学会の会員が一万人を越すといっても、それはみんな物理の専門家ばかりなのだ。私が「一般」とか「広い立場」といったことが、すでにかなり専門的なのである。こうした中でさらに小さい分野にしか通用しない話が多いのは、常識人から見たらずいぶん偏ったことである。会誌への寄稿者が、物理学者一般の談話会に臨む気持ちになってほしいものである。

私は、論文の表現について本誌に書いたことがある(「西川先生の論文校訂」)。文章を書くことは、あたかも自分の頭の中を鏡に写して見るようなものである。最初は鏡が歪んでいるから、中身の様子がよく見えない。ところが、鏡を磨いていくとそれが次第に見えてきて、最後には欠陥までが見えてしまう。そこで中身自体を直さなければならないことに気がつく。文章を書くことは、たんに発表のためだけではなく、論理を改善することにもつながるのである。

談話会で話したり会誌に書いたりすると、物理全般という大きな鏡に自分の姿勢を映してみることになるから、自分の視野の狭さや発想の誤りを発見できる。したがって、会誌を良くしようと努力することは、会員に読ませるためだけではなく、自分の物理学を良くすることにも通じる。私自身、何かを書くたびに自分の姿勢を反省させられている。

(「日本物理学会誌」第29巻第11号、1974年)


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