上田良二「中国と日本」



本年〔1978年〕6月、中国を訪問する機会を得た。私の専門の電子顕微鏡に関する講演や討論をするため、数人の団員とともに招待されたのだ。われわれが帰ると間もなく日中平和友好条約が調印されたから、今後ますます多くの科学者や技術者が中国を訪問するだろう。その結果が果たして両国の平和友好に役立つかどうかと、柄にもなく心配している。

話に聞いていた通り、中国人は礼儀正しく、われわれを先進国の学者として迎えてくれた。しかし、私にはそれが恥ずかしかった。その理由から説明しよう。

電子顕微鏡という器械の原理が実現されたのは1934年だが、すべてドイツ人の手に成った。その後は日本も加わり実用化が進んだが、その間の十大発明を数え上げると、日本人のものは一つ入るか入らないかというところだ。つまり、今日の電子顕微鏡の構図とも言うべきものは欧米人の手に成ったので、日本人が活躍したのはその上塗りである。したがって、細分化した専門の話をすれば日本が「世界一」と大きな顔もできるが、基礎の話になれば全部が借り物である。つまり、日本は先進国ではない。極めて優れてはいるが、追従国というほうが正しい。私は主として基礎的な話をしたから、先進と追従の違いを痛感して恥ずかしかったのだ。

ここで少し話を変えよう。中国では多くの絵画や彫刻を見たが、その瞬間に日本のと同じだと思うものが多かった。花鳥画や仏像などは全くよく似ていて、私のような素人には区別がつかない。もちろん、元祖は中国で日本のは末流だが、専門家は日本の細かい技法が優れていると言うそうだ。日本人が中国人の構図に従って優れた作品を仕上げた事情は、電子顕微鏡に似ているような気がした。

日本人が万葉の歌などを題材にして彫刻を作れば、文学における源氏物語のような素晴らしい作品ができたと思うが、そんなものは見たことがない。たぶん女性の彫刻家が育たなかったせいだろう。日本は後進的な島国だったから、一人前の男性は中国の文明を学ばされ、すべてのことを中国の構図に従って行なう習慣がついてしまった。明治以後は中国が欧米に置きかえられたが、何ごとも先進国の構図に従って行なう習慣は今日も抜けていない。

それでも「世界一」が写真機、トランジスタから製鉄、自動車へと発展すると、私のような主張に共鳴する人が減り、逆に「日本人よ卑屈になるな、自信を持て」という声が高くなってきた。これに対する反論は簡単である。私は、島国的な環境のせいで日本人が追従的になった事実を指摘しているのであって、自ら卑下しているのではない。日本人の能力には自信を持っているが、うぬぼれてはいけないと警告しているのだ。

日本人は科学でも技術でも、その基礎を先進国からそっくりもらっているから、それにどのくらいの価値があるかを知らない。そのため、末端で強くなると全体が強くなったと錯覚して、「世界一」と言う。専門外に立ち入ると失礼するかもしれないが、自動車も電子顕微鏡と似たものだと思う。自動車が馬車から発達して今日の形になった歴史を一冊の本に書いたら、最近の日本での改良に何ページが費やされるだろうか。いくら売上げが世界一になっても、技術は世界一にはなっていない。

そのあたりの事情を理解しないでうぬぼれるくらい危険なことはない。開戦前に日本の軍備を「世界一」と思っていたら、レーダーにやられ、原子爆弾にやられ、ジェット機でもロケットでも置き去りを食ってしまった。戦争のない今日でも、技術は技術の論理で評価すべきもので、金儲けの論理で評価してはいけない。技術を経済の奴隷のように考える人が多いのも、日本が技術の先進国でない証拠である。

さて、四人組追放後の中国では、「工業、農業、軍備、科学技術の近代化は先進国に学べ」と言われている。そして、「先進国」の一つに日本が選ばれた。私はこの選定が後に悔いを残さなければよいがと心配している。科学技術を学ぶには、その基礎から末端まで、構図から仕上げまでを学ばなければならない。明治の初期に日本人に科学技術を教えた欧米人は、その全部を心得ていた。例えば『ベルツの日記』を読むと、日本人は実用的な技術の習得には熱心だが基礎の精神を省みない、と嘆いている。この悪伝統は今日も続いているから、日本人には基礎を教える能力がない。

もし、中国の指導者が日本人から全部を学ぶつもりなら、それは日本人を買い被っている。またもし、役に立つことだけを学べばよいと思っているなら、一国の大方針としては片手落ちである。日本人の実力を正当に評価して、足りないところは独立自主の精神で補足されることを願っている。

他方、日本人は自らの身のほどをわきまえなければならない。大日本帝国で失敗したのに、経済大国と言って鼻を高くしている。ましてや「先進国」として丁重に迎えられれば、ますますつけあがる。そのうえ、現時点での中国は貧しく、日本は富んでいる。日本人には成り金が多い。成り金というものは歴史をわきまえないから、自分の苦労だけを自慢して、先人の努力には敬意を表さない。その遺産に感謝もしない。自分の富を鼻にかけて、貧乏人を軽蔑する。考えてみれば、これも大局を見ない島国根性の一つである。もし日本人がこの欠点を露出すれば、口では「支那」と呼ばなくても、心の中はかつての不幸な時代に戻っている。

日中永久の友好を願うなら、日本人は科学技術の実用面を中国人に伝えると同時に、島国根性から脱する道を中国人から学ばなければならない。交通機関の発達した今日、日本人もいつまでも島国根性では通用しない。我が与えるものより彼から学ぶべきものがいかに大きくまた困難であるかを知って、謙虚に努力しなければならない。

(原題「日中科学技術交流への老婆心」。「科学朝日」12月号、1978年)


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