上田良二「科学と神様」



日本人は邪馬台国の時代から、圧倒的な文化を持つ中国大陸に学んできた。彼らから学んだことを日本化して上手に使うほうが、下手な独創性を発揮するよりはるかに役立ったのである。一人前の男性は漢文を書かなければならない時代が長く続いた。紫式部は女性だったからかな文学で独創性を発揮できた、との話を聞いたことがある。

明治になっても、中国大陸が欧米に置き換えられただけで、追従的な性絡は変わらなかった。というより、むしろ強められた。日本人が自主的行動を控えるのは、他にも理由があろうが、第一にその追従性のためと思う。特に、若者が独創性を発揮することは不遜と戒められてきた。これは3000年の歴史の結果であり、社会のすみずみまで根を張っているから、10年や20年で簡単に改められるものではない。

かつて大平正芳首相がテレビ鼎談をしたとき、曽野綾子氏が「日本もこれだけ発展したのだから、政治でも国際的なリーダーシップをとってほしい」と要望したところ、首相は「私は日本人だから、そんなことはできない。日本の歴史を考えてみて下さい」と答えた。私には、首相の率直な一言が強く印象に残った。日本の政治家が世界の先頭に立ちうるのは、日本の社会が変わり、教育が変わった後のことだろう。科学者や技術者はすでに先頭に立っているとの見方もあるが、それはうぬぼれでしかない。日本には超一級の学者が、欧米に比べてはるかに少ない。

聖徳太子の頃から仏教や儒教が輸入され、それに基づいて日本の精神文明が形成された。明治の日本人は、その精神文明によほど自信をもっていたと見える。西洋文明が輸入されてもそれを物質文明と呼び、和魂洋才を理想とした。当時、西欧の哲学や宗教を勉強して大きな感銘を覚えた学者もいたのだが、それが技術者に及ばなかったのは専門馬鹿のせいだろうか。

日本人は自然科学や近代技術を自分の手で育てなかったから、和魂の中にはそれらを支えた精神が欠けている。今日でも日本人は、技術を金儲けの手段としか考えない。例えば、日本の半導体や光ファイバーの技術が世界一になると声を大きくして宣伝するが、その基礎になった研究のプライオリティは尊重しない。英国のサッチャー首相がNHKテレビで演説したとき、「日本はエレクトロニクスで繁栄しているが、エレクトロンを発見したのは英国人だ」と言った。これは日本人の無礼を指摘した皮肉と思うが、それに気づいた日本人が何人いたろうか。

技術開発は食うか食われるかの世界だから、現場の若者に多少の無礼があっても致し方なかろう。しかし、国の指導者に人類共有の知識を尊重する精神が欠けているのは、困ったことである。彼らはハイテク製品開発の成功が日本の独創性の証明だなどと豪語しているが、金儲けの独創性と人類共有の知識の独創性とは違う。いま問題になっているのは後者である。その区別がつかないから、外国の先輩に無礼な振舞いをするのみでなく、そのような人が独創性を発揮せよと太鼓を叩いても、踊るのは仙人のような学者だけである。

文芸復興にはいろいろの面があったと思うが、われわれにとって重要な点は、自然のからくりを知ろうとする西洋人の知的好奇心がキリスト教会の教義を打破したことである。その好奇心はじつに凄まじいもので、牢屋はおろか火あぶりの刑さえも恐れなかった。日本人には考え及ばぬ精神の強さである。そのような経験を経ていない日本に、基礎研究尊重の精神がないのは当然かもしれない。最近は日本も先進国の列に入っているが、本質的には開発途上国と変わりがない。違うところは後進性の位相差だけである。

そこで、日本人に今から文芸復興をしろと言われてもできないし、またその必要もない。なぜかと言えば、日本にはキリスト教会の支配がなかったからである。もし300年の鎖国に失敗していたら、日本中が十字架になり、西欧に類のない和魂(2000年来の日本人の精神)までが失われていたと思う。学校で習った歴史とは正反対だが、キリシタンに血を流させても、西欧の文明に立ち遅れても、鎖国は成功だったと思う。なぜかと言えば、先祖伝来の和魂が保たれたからこそ、その美点を生かし欠点を補って立派なものに育てる機会がわれわれに与えられたからである。それが達成されたとき、切り花のような輸入文明に和魂の根が生え、日本も本格的な先進国になれるであろう。

何となく抽象論に走ったから、次に具体例をあげる。最近、新人類と呼びたい人たちが、「神さえも造りえなかった新素材を人間の手で開発した」などと宣伝している。私に言わせれば、人間が神を超えたというのは、思い上がりにもほどがある。全知全能の神様が新素材の製法くらいご存知ないはずはない。成功したのは、神様の御意に沿うていたからである。

西洋人は文芸復興で教義を打破したが、キリスト教的な原罪を心に留めているから、神の前には謙虚である。日本人も謙虚でありたいが、キリスト教の神は歴史の違いが大きすぎて、私を含めた一般の日本人には親しみにくい。私が「全知全能の神様」と呼んだのは、キリスト教の神様ではなく、和魂の中に潜んでいた神様である。いずれの神様もともに全知全能だが、両者には大きな違いがある。前者は人間に原罪を背負わせただけでなく、人間と契約を結んだり、人聞を愛したり罰したりする。他方、後者は人間に自由意志を与えただけで、それ以外は人間に何も干渉しない。宇宙の万物と同様に、人間を自然の法則によって支配するだけである。東洋的で空気のような神様だが、絶対に服従しなければならない権威者である。日本人にはこの神様が適していると思うが、いかがだろうか。以下に私が神様と呼ぶのは、この神様である。

知育偏重の日本では、独創性とは、人間の頭脳で新しいものを創造することと考えられている。しかしその前提として、自然に対する強烈な好奇心、未知に挑戦する勇気、徹底的に追究する根性などが必要である。また、X線や超伝導など、超一流の発見に見られるような、運のめぐりあわせも重要である。運は人生のいたるところにあるが、人力の及ぶところではないから、神様の采配に俟たねばならない。幸運に恵まれたければ、人の後を追わずに新分野を自分で開拓するがよい。それでも、神様は気まぐれだから(神様の法則が人間にはわからないから気まぐれに見える)、運を恵んで下さるとは限らない。恵まれた運をつかむには、平生の努力で実力を蓄えておくがよい。

私の場合、一生に一度の大運に恵まれたが、実力不足でそれを逃した。小運は二、三回あったので、それはつかんだ。運を逃したのは自分の責任だが、めぐりあわせは神様の責任である。私自身は無我夢中だったから、そんなことを考えながら研究をしたわけではないが、振り返って見れば研究は賭けだった。独創的な研究を志す若手に、知力のみに頼ることなく野蛮で荒々しくなれ、と注意したい。そして、賭ける勇気と、賭ければ当たるとの自信と、外れても悔いない楽天性を持ってほしい。そのなかで、神様にお任せする気持ちを失わぬようにしていただきたい。

国際化とは、世界中が一様化することではなく、各国がその伝統を守りながら協調することである。日本人の優秀な知能は証明済みだが、今日のように傲慢になっては先が思いやられる。伝統的精神の中で謙虚になり、さらに強靭な精神を養ってほしいものである。

(原題「日本人の独創性――素人の放談」。「応用物理」第57号、1988年)


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