上田良二「基礎研究の恩返し」



石田さんの言葉

トヨタ自動車の育ての親といわれる石田退三さん〔1888〜1979〕が、こんなことを言っている(石田泰一編『軌跡九十年――石田退三』文化評論出版、1980年)。

「人から受けた恩義を誰も立派にちゃんと返せばよいが、それがなかなか返せない。返そうと思っても返しきれないのが恩義というものだ。だから、わたくしは返せずともよい。借りっぱなしでもよい。ただ絶対にこれを忘れないでいくようにしたいというのである。それ以上の無理は望まない。つまり、お互いに忘恩の徒にならなければよいのである。それというのも、われわれはじつにさまざまな恩を受けて今日を生きている。天の恩、地の恩、社会の恩は今さらに申さずとも、個人対個人を何一つ身に覚えないという人はあるまい。もしありとすれば、それはきわめて不幸な人であり、恩を恩と感じない人、恩を忘れ果てた哀れな人である。」

新聞記事でしか石田さんを知らなかったころ、金儲け一点張りの成り金みたいな奴だと思っていた。ところが、ある仕事で石田さんにお会いするようになってから、一転して大好きになった。じつを言うと、最初は自分の先入主を確かめようとしていたが、あの好々爺のような顔には、どうしても悪人の相は見つからなかった。当時すでに80歳を越えておられたが、じつに綿密で勤勉で、人のため社会のために尽くそうとされる姿勢が印象に残った。

その石田さんの没後、この文章に接して思いあたることがあった。今日の日本は技術の繁栄を謳歌しているが、果たして何人の日本人が科学技術の基礎を築いた先達への恩を知っているだろうか、ということである。


ニュートンの恩

成り金とは、時流に乗って大金を儲け、自らの苦心や努力は大げさに宣伝するが、石田さんの言う恩を恩と感じない哀れな人のことである。彼らの多くは、父祖伝来の毛並みにも恵まれず、尊敬に値する先生にもめぐりあわずに、独力で成功した人である。そんな人でも、天の恩、地の恩、社会の恩は受けているはずだが、それを知ろうとする教養に欠け、うぬぼれが強くて自分のことしか考えないから、彼らは世間から嫌われるのだ。いくら金持ちになって本人は得意でも、じつは哀れな人である。

日本はいま技術大国になり、自動車でもエレクトロニクスでも世界一を誇っているが、日本人の何人がニュートンの恩を知っているだろうか。ニュートンの運動方程式を使わないで技術開発はできまい。それを使うたびに使用料を払う必要はないが、だからといってあの方程式がただで人間の手に入ったのではない。あの方程式に達するまでには、多くの先達が血を流したのだ。牢屋につながれた人もいるし、火あぶりの刑に処せられた人さえいる。その恩は、返そうと思ってもとても返せるものではない。借りっぱなしにするより仕方あるまい。それでも、ただ絶対に、その恩を忘れてはならないのである。日本の各地にニュートン神社を建てて、技術繁栄のお礼参りをしなくてはならないところなのだ。これは冗談としても、この恩を恩と知らせる教育に欠けているから、よほど教養のある人でないとこのことを意識していないようである。


技術繁栄の裏の恩

ニュートンは昔の話だが、今日の話も同じである。トランジスタ、ファイバー通信、超LSI等々、日本人はすでに欧米の技術を追い越したと鼻を高くしている向きがあるが、どれをとってもその基礎は彼らに負っている。私の専門の電子顕微鏡もその例にもれない。電子顕微鏡は、ドイツ人によって発明され実用化された。しかし、戦後の日本の開発に押され、最近ドイツはその製造を放棄してしまった。つまり、電子顕微鏡の商売では日本が勝ったのである。これは日本人として喜ばしいことだが、その基礎を築いたドイツ人への恩は忘れてはならない。私は3年ほど前、電子顕微鏡の専門書〔上田良二編『電子顕微鏡』共立出版、1982年〕を編集し、基礎的開発への日本人の寄与が皆無に近いことを再認識して、この感を深くした。一般論として、日本の科学技術は欧米のように父祖伝来の遺産に恵まれていない。

明治時代にはクラーク〔William Smith Clark, 1826〜1886〕やベルツ〔Erwin von Balz, 1849〜1913〕やユーイング〔James Alfred Ewing, 1855〜1935〕などの優れた先生の教えを受け、当時の人たちはその恩を深く感じていた。しかし最近は、いわゆる自主開発ができるようになったから、個人的な恩を感じなくなった。それでも、文献その他の情報によって欧米から学んだ基礎の上に高度化、精密化をして技術大国になりえたのだ。彼らなしにわれわれの成功は考えられないのだから、その恩を忘れてはなるまい。

もちろん、技術開発は厳しい競争の世界だから、そこで勝つには頭脳と勤勉が必要であり、その間の苦心や努力は当然高く評価されるべきだろう。しかし、勝ったからといって相手を見下すようなことがあれば、成り金、アニマルと呼ばれても致し方あるまい。日本人はいま、石田さんの言う忘恩の徒になりつつあるのではあるまいか。恩を忘れた哀れな人になりつつあるのではあるまいか。それが私の心配の種である。


恩返しの道

日本人が欧米の文化から受けた恩は、返そうと思っても返しきれるものではない。しかし、少しでもそれに報いるにはどうすればよいだろうか。それは科学技術に関するかぎり、世界中の人に役立つ基礎研究の成果をあげることだろう。

今日の日本の基礎研究は、確かに低調である。そのための官民の予算も、欧米に比べてはるかに少ないという。それを増して基礎研究を振興せよとの声はある。しかし、そのねらいは、多くの場合、今日の技術繁栄を10年の将来に確保するためである。つまり、日本人だけのためと言える。それでは、私の考えと手段は同じでも目標が違う。

基礎研究と一口に言うが、その内容は千差万別でピンからキリまである。しかし、基礎的であればあるほど、その成果は世界の万人に共通の財産なのである。それを企業秘密、国家秘密にしようとしても至難なことは歴史が示している。特許などによって発明者の利益を守ろうとしても、実際はそれ以外の人びとにより多くの利益がもたらされる。これまでの日本はその恩恵だけに浴してきたのだから、これからは世界に役立ちうる基礎研究の成果を生むことが報恩の道ではあるまいか。


勤勉を捨てるな

基礎研究にはお金も必要だが、それよりも必要なのは人である。勤勉な人が必要である。最近、日本人は勤勉すぎるからもっと怠けよという声を聞くが、私は正面からこれに反対する。日本人の勤勉が嫌われるのは、自分たちの金儲けだけに勤勉だからである。世界中の人の役に立つ基礎研究のためなら、いかに勤勉でも誰からも後ろ指をさされることはあるまい。この思想が普及すれば、欧米の文化への恩の万分の一にでも報いることができよう。そうなったとき初めて、日本も一人前の風格を備えた技術国になれるのである。

(原題「基礎研究の恩」。「蟻塔」7・8月号、1985年)


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