上田良二「新しい装置の開発」



新しい装置を考案し、それを改良して多くの人々が使えるまでに仕上げるのは容易なことではない。私は1934年に電子回折の実験を始めて以来、何台かの装置を設計し、自分でも使い、ほかの方々にも使っていただいた。その経験を振りかえって、私の考え続けてきたことをお話ししてみよう。

私が最初に設計した電子回折装置には、電子の速度フィルターを取り付けてあった。結晶面で反射した電子のうち、弾性的なものだけを取り出そうという考えからである。これは確かに新しい試みだったが、完全に失敗した。着想はよいとしても、それを成功させるだけの知識に欠けていたからだ。青二才の無鉄砲さが失敗に導いたというわけで恥ずかしいから、これについては今まで一度も話したことがない。

次に設計したのは横型の大きな装置で、試料室に蒸発源とヒーターとを組み込んだものである。これも、当時としては新しい構想だった。この装置にはさんざん苦労したが、最後には一応の成功をおさめ、真空蒸発によるエピタキシャルな結晶成長の様子を、回折によって連続的に観察撮影することができた。じつに使いにくい装置だったが、同型の装置は二、三の人々によっても使われ、またこの構想がもとになって電子顕微鏡の加熱冷却ステージへと発展した。

三番目に設計した装置〔現在、名古屋大学博物館に展示されている〕は前回の反省をふまえて、使いやすい小型のものとした。電子回折写真を撮るのが一般にはかなり困難な時代だったから、この装置は使いやすいと多くの人々に喜ばれた。私もこの段階で設計術を身につけたような気分になったものだが、この装置には何ひとつ新しい機能はなかった。

それ以後の装置は、とても私一人の手には負えなかった。というのは、電子回折と電子顕微鏡とが融合して、複雑な電子幾何光学の技術が必要になってきたからである。戦後、朝日の奨励金で作った高分解能電子回折装置は、明山さん、只野さんたちの協力を得てはじめてできあがった。その後、東洋レーヨンの奨励金で50万ボルトの超高圧電子顕微鏡を建設したが、これには只野さん、木村さんをはじめとして、日立中央研究所の電子顕微鏡グループが総力を結集したのである。

そして今、名古屋大学で100万ボルト超高圧電子顕微鏡の建設が進行中だが、これは多くの若手の協力のもとに進められているから、私はほとんど傍観者に過ぎない。

さて、私のささやかな経験から言っても、新構想の装置を開発するのは難しいことだ。しかし、新構想でなくても使いやすく故障のない装置を仕上げるのは、新構想の開発以上に難しいかもしれない。超高圧電子顕微鏡のように大きな装置になると、じつに手が込んでいるので、手ぬかりなく事を進めるだけでも容易ではない。このような仕事は私自身は不得手だが、平均的には日本人の得意とするところだと思う。「日本製の理化学器械は故障がない」という評判は、残念ながらまだ耳に届いてはいない。しかし、いずれはその定評を聞かせてもらえるものと楽観している。

それに反して、新構想の装置は日本では生まれにくいような気がする。新構想を描くのは多くの場合に若い人だから、管理の立場にある人は、その構想をよく吟味して、それが実行に値するかどうか、その人に構想実現の能力があるかどうかを判断しなくてはならない。私の第一回試作のときは両方とも落第だったから、有能な管理者だったらそんな仕事はさせなかったかもしれない。しかし、西川正治先生がそれをさせて下さったので、私はじつによい経験をし、それが私の成長にどれだけ役立ったか計り知れないものがある。

そのあたりが管理者の難しいところなのだ。装置の開発に限らず独創性のある研究は、いかに優秀な管理者のもとでも成功もあれば失敗もある。極端な言い方をすれば、100点もあり0点もあるというわけだ。日本人はとかく、すべての仕事の各々を70点以上に仕上げようとする。それを改め、0点が出てもよいから120点も出すように考えを切りかえないと、独創性のある仕事は期待できないのではあるまいか。特に、若者の失敗は成功の母になることを忘れないでいただきたい。

(「The HITACHI Scientific Instrument News」第4号、1972年)


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