上田良二「ぜんまいとはぐるま」



基礎と末梢、純正と応用

たいていの人は応用が基礎に相対すると思っているが、私はそれには不賛成なのだ。基礎に相対するのは、当然、末梢でなくてはならない。そして、応用には純正が相対すべきである。基礎は幹で、それから大枝が出て小枝が出て末梢にいたるのだ。純正、応用の定義は議論の分かれるところだが、私は簡単に割り切っている。研究費を使うだけなのが純正、研究費を使ったら金儲けをするのが応用である。私はいまだかつて金儲けをしたことはないが、その魂胆があるから自ら応用物理学者をもって任じている。

応用はしばしば末梢で行なわれるが、つねに末梢とは限らない。応用でいて基礎であるものもある。もちろん、純正でいて基礎であるものもあるが、純正がつねに基礎とは限らない。純正末梢研究をして、純正なるがゆえに基礎と錯覚してはならない。

基礎研究なら必ず枝が出て発展するはずだが、10年経っても20年経っても枝が出ないのは末梢研究の証拠である。定年近くなると、自分のした研究が基礎か末梢かがよくわかってくる。私もずいぶんたくさんの純正末梢研究をしたものだ。しかし、純正末梢研究が全く役に立たないわけではないと思う。花が咲き実がなるのは末梢ではないか。これは少々冗談になったかもしれないが、私は応用物理の学生に「応用基礎研究を志せ」と真面目に言いたいのである。


独創的研究の三段階

私は、いわゆる独創的研究には次の三段階があると思っている。

(1)着想に飛躍のあるもの
(2)理詰めで客観的なもの
(3)新データの蒐集

文部省、国大協、学部の論文審査会などでは、この三つのすべてを独創的研究と呼んでいるらしい。しかし、私が独創的と思っているのは(1)だけである。飛躍はしばしば外れるから、それを実行するのは賭けに等しい。失敗を恐れる人、勇気のない人にはこの型の研究はできない。(2)は理屈がわかっているから、地道に努力すれば必ず成功する。このようなものは、独創的というよりは創意工夫といった言葉がよく合うような気がする。

もっとも、頭のよい人には当然と思われることが、他の人には飛躍的に見えることがある。私などの下手な考えはしばしば落とし穴にはまるから、自分では理詰めのつもりでも実現するまでは賭けである。そんなわけで、(2)の先頭は(1)につながるが、その尻尾から(3)になると、これはむしろ研究と言うより知的労働と言うほうがよさそうである。もちろん、それが易しいわけでも価値が低いわけでもないが、たんに新しい知見を得たというだけで「独創的研究」と言われると、私はつい反発したくなる。

大きな研究には(1)から(3)までが揃っているようだが、(1)がつねに大研究につながるとは限らない。私は、小さくてもよいから自らの着想による研究を尊重したい。新輸入の着想を見せびらかし、その先の詰めしかできない連中や、テカテカの装置を並べてデータ集めだけをしている連中が、いかにも前衛的研究者のような顔をしているのには感心しない。こうしたことには研究特有の賭けはなく、全く安全である。

役人が安全を好むのは当然としても、学者先生までがそうなってしまっては研究はできない。先生がそうなると、若手もみんなそれに従う。彼らは着想のない二番煎じ三番煎じの仕事を真面目にするのが研究だと思っている。「研究には夢や直観が必要だ。勇気をもって賭けをせよ!」などと言っても、てんでイメージが合わない。そんな雰囲気では、知的労働の量は増えても、研究らしい成果は全く期待できない。

先日ある学会で、大家と呼ばれる先生が自分の着想を発表するのに、「これは見当違いかもしれませんが」と付け加えた。本当の大家というものは、先の見えない着想を自信を持って実行するものである。欧米にはその強引さに驚くような人を見かけるが、日本の先生方は皆おとなしい。賭けをして負けたら引っ込むくらいの覚悟がないと、日本から指導的な研究者は現われないのではあるまいか。若手の中からそうした意気込みの人が出てほしいものである。先生方は、そのような若手の骨を抜かないように気をつけてほしい。


ぜんまいとはぐるま

私はかねがね、着想を得る能力をぜんまいに、理詰めで物事を処理する能力をはぐるまに喩えている。現在の日本の教育は、はぐるまを磨くことに集中され、ぜんまいを巻くことは全く忘れている。はぐるまを磨いたり検査したりするのは比較的易しいが、ぜんまいを巻くのは桁違いに難しい。

それをするには、教師が学生と親しくなり、その学生の発想の仕方を理解して、良いところを絶えず激励してやるようにしなくてはならない。ぜんまい的能力の評価は親しく交わった教師のみにできることで、当然、主観的になってくる。主観には誤りが避けられないし、親しくなれば人情としてえこひいきも生まれるであろう。それでも、はぐるまのみを見てぜんまいを無視する教育は片手落ちと言わなければならない。

なかでも大学院生の選考にあたっては、ぜんまい的能力を大いに重視すべきだと思う。ところが当今は、民主的と称して主観を嫌う傾向が強い。大学院がただ単に知的労働者の養成を目的とするならいざ知らず、独創的研究を目標とするならば、そんな形ばかりの民主的がのさばるようでは先が思いやられる。

そもそも、主観を信用しかねるような教師のもとで独創的研究をしようという考え方が根本的に間違っている。日本の科学が進歩したのにいつまでも追従的性格が強いのは、ぜんまいの強化を無視したはぐるま本位の不信に満ちた教育に原因があると思う。私がこんなことに気づいたのは二、三年前のことで、それ以後は学生のぜんまい的要素を尊重するように姿勢を正しているつもりである。

今日のような教育では、ぜんまい的能力のある人物は次第にふるい落とされて、大学院までたどり着けるものは極めて少ない。先生も学生もその能力のある者は五人か十人に一人と見ればよかろう。そこで、ぜんまいがその素質を発揮するにはどうすればよいかを考えてみよう。

まず、先生と学生の両方がその能力を持っている場合は極めて少数だから、セカンドオーダーとして無視する。次に、先生も学生も能力を持たない場合は半分以上だが、そこから独創的研究が現われる可能性はない。

問題は20〜30パーセントのクロスタームである。そのうち学生に能力がある場合は、先生がそれを認めて伸ばしてやればよい。ところが実際は逆が多いから困る。ぜんまい的学生はしばしば強情で非妥協的なうえに、はぐるまの欠けていることも多い。先生はそのような学生を欠陥学生と判断して落としてしまう。

どんなに着想のよい人でも、本当に役に立つ着想は十に一つか、五つに一つである。大学院生にはまだその選別ができないから、教師は学生との討論によって役に立たないものを整理し、役に立つものを伸ばしてやらなくてはいけない。それが大学院で最も重要な仕事なのだ。学生から見当違いの着想を聞いて、非常識と批判してはいけない。経験豊かな大家でも、他に類のない着想には「見当違いでは?」と不安を持つくらいなのだ。

次に、先生に能力がある場合には、学生に着想を与えてどしどし研究させればよい。ところが、研究が賭けであることを知らない最近の学生は、先の見えない問題を好まない。こんなことになった原因の一つは、能力に対して与えるべき課程博士の学位を、論文博士と同様に業績だけで評価する点にある。本来の趣旨が保たれていれば、先生の着想が外れて業績が上がらなくても、その研究中に発揮された能力によって学位を与えることができる。しかし現状ではそれができないから、よほど勇敢な先生でない限り、危険性のある着想は学位の課題に出せないのである。

いずれにしても、ぜんまいが発揮されないようにできている。そして、役人的な安全第一の仕事がはびこっていく。その種の仕事も必要なのだが、そればかりでは大学とは言えない。


私の場合

ふり返って見ると、私のはぐるまは正確だったが遅くて力が弱かった。つまり、めぐりが悪くてあまり難しい問題は解けなかった。しかし、ぜんまいは確かにあったから、小さいながら他の人と違う着想を持っていた。勇気がなかったから賭けはできなかったが、日和を見ながら少しずつ実行に移した。

文献を読むのが下手で嫌だったから、文献から着想を得たことは一度もなかった。実験をしていると、うまいものにぶつかって着想を得ることが多かった。私はこれを「犬も歩けば棒にあたる」と言っていた。5年か10年に一度は棒にあたったのが幸いだった。棒にあたると熱中する癖があって、何らかの結果を得た。じつにささやかな仕事だったが、その中のいくつかは研究と呼ばれても恥ずかしくないと思っている。

大きな仕事ができるかどうかは各人の素質によることで、私は私なりに小さな仕事で満足してきた。しかし、もし私の研究に対する出発点の姿勢が狂っていたら、そうした小さな研究もできなかっただろう。私はその姿勢を、西川正治先生〔1884〜1952〕やその他の諸先輩から無意識のうちに教えられた。これらの方々に感謝を捧げて、この拙文を終わることにする。

(原題「退官雑感」。「日本物理学会誌」第30巻第9号、1975年)


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