上田良二「科学と技術」



自然の法則、天然と人工

私は人間を含む宇宙の万物を自然と考えている。原始そのままの天然のみでなく、ビルに埋まる大都市も、ロボットが主役の工場も、ナノの世界を覗き見る実験室も、みな自然である。これらは人工の産物ではあるが、いずれも自然の法則に支配されているという意味である。

人間は自然を征服して近代文明を打ち立てたと言われるが、これは天然にない人工物を作って生活に役立てているという意味である。天然の産物も人工の産物もすべてが自然の法則にしたがって産出されるのである。自然を征服したと言っても、自然の法則を制御できるようになったのではない。人知がいかに進歩しても、人間は自然の法則を変えることもできないし、自然の法則に反する技術を成功させることもできないのである。


科学と技術の定義

通説によると、科学を基礎、技術を応用と考えるようである。また科学は知識を求める道楽、技術は生活に役立てる実用とも言われている。しかし、私はそのようには考えない。

まず、私の頭の中に自然に生まれた科学と技術の定義から始める。人間は、自然について新しいことを知りたいという欲望を持っている。それを満足させるのが科学である。また、人間はこの世の中で新しいことを実行したいという欲望も持っている。それを満足させるのが技術である。

この定義では、科学と技術は並列である。通説のように、両者が基礎と応用の関係にはなく、また、一方が道楽で他方が実用ということもない。この相違の原因は、私が広義の技術を技術と呼んでいるのに、通説は当世の工業技術だけを技術と呼んでいるためと思われる。


基礎と末梢、純正と応用

私の考えでは科学にも技術にも基礎と抹消があり、また純正と応用がある。その関係を模式的に示すと下図のようになる。


応用――――末梢
  \  /
   \/
   /\
  /  \
純正――――基礎


わかりやすい二、三の例をあげると、湯川先生の素粒子論は純正基礎科学、トランジスタやレーザーは応用基礎科学、私の電子回折は純正末梢科学、数え切れない工業開発は応用末梢技術である。

基礎・末梢、純正・応用の意味は次のごとくである。研究が基礎か末梢かは、後世への影響の大小で判断する。もちろん、影響が大きければ基礎、小さければ末梢である。影響の大小を何で測るかは難しい問題だが、各人の価値観に俟つより仕方がない。注意しておくが、末梢=無用ではない。どんな些細なデータでも、信頼のおけるものなら小さいなりに役に立つ。他方、書き捨て論文のようなものは有害無益である。

純正とは道楽のことである。道楽と言っても、隠居や金持ちのお道楽だけではない。生活の糧を得る目的でないすべての行動を意味する。歴史上にはその道楽に命を賭けた人が数多くいる。また今日では、道楽と呼ばれる純正研究が職業になっている。応用とは実用を目的とすることである。実用とは生活の糧を得ることであり、さらに進んで金儲けをすることである。目的はいずれか一方とは限らないし、つねに一定とも限らない。主観的なことだから、第三者にはわからないこともある。このような訳で、純正・応用は一筋には割り切れない場合が多い。

科学と技術は、一枚の紙の表面と裏面に描かれた絵に喩えられる。それらは表裏で互いに関連しあっている。そして前述のように、その各々に基礎・末梢と純正・応用がある。

通説では科学(=基礎)から技術(=応用)に至る一直線の上にすべての研究・開発を並べるが、私の説では科学、技術の各々に二次元の自由度がある。

定義とか自由度とか、ややこしいことを言ってきたが、これは議論のための議論ではない。それが実効をともなうことを以下に示す。


大学の研究のすべてが基礎研究ではない

一般に、大学の研究は基礎研究と言われている。そして、基礎研究は重要だから大学の研究はすべて重要であるとの論理が通用している。しかし、私に言わせれば、大学の研究は純正であるが、すべてが基礎ではない。その中には基礎もあれば末梢もある。じつは大部分が末梢であり、その中には無用なものが少なくない。


商業の論理か技術の論理か

通説によると、技術は工業技術のみだから、技術の評価は商業優先の論理によらざるを得なくなる。そのために、金儲けに役立たぬ技術には価値を認められない。他方、技術の評価は技術の論理ですべし、というのが私の主張である。すなわち、金儲けに役立たなくても、純正技術としての価値があるものはそれを評価せよ、ということである。

模倣開発にはすぐに役に立つ応用技術だけで足りたが、自力開発には良質な純正技術の蓄積がぜひとも必要である。無駄なようでも、この蓄積に支えられて工業技術が自力で進歩できるのである。

今日になっても、日本の偉い人たちはこのことに気づいていない。その原因は、工業技術だけを技術と考え、技術を商業の論理でしか評価できないからである。彼らは工業技術が科学を基礎として進歩すると考え、科学の振興を促している。それも一理あるが、技術の進歩に直接に必要なのは純正技術の蓄積である。科学と技術の関係は後に論ずる。

技術の評価を技術の論理ですることは、大学工学部の教育にも極めて重要である。商業の論理が優先しては、卒業生を金儲けの奴隷に仕立てることになるからである。


私の経験

末梢の話で恥ずかしいが、私の超微粒子研究は純正科学で始まり、応用科学で終わった。引き続き学外で技術開発が行なわれ、それにも参加した。いろいろと苦労したが、結局は工業開発に失敗した(金儲けに失敗!)。これを通説の論理で評価すれば、税金の無駄使いでしかない。しかし、私の説によれば、純正技術の蓄積にはいささかの貢献をしたことになる。我田引水かも知れないが、税金の無駄使いだけでは安心して死ぬこともできない。


飛行機と蒸気機関

以下に、科学と技術が並列であること、技術が工業技術のみでないことを歴史上の実例で示す。特に、技術が科学に基づいて開発されるようになったのは最近のことであり、必然ではないことを強調する。

人間には空を飛んでみたいという夢があった。何百年か前に道楽者がその夢に挑戦した。飛行機の技術開発は、出発点において紛れもない純正技術だった。ライト兄弟(1903年)のころになると、応用にも色気が出ていたのだろうか。

ライト兄弟以前でも、多くの科学的な実験が行なわれ、その結果が開発に応用された。しかし、今日習うような流体力学が応用されたのではない。それは、技術開発の間に集積された知識が体系化されて生まれた科学と見るべきであろう。

蒸気機関の古い話は知らないが、ニューコメン(1711年)の時代にはすでにれっきとした応用技術になっていた。これはもっぱら発明論によったのであって、科学によったのではない。

カルノー(1824年)は、英国にまさる蒸気機関の開発を目的にして有名なサイクルを発見したのである。今日の大学では、熱力学を教えてから蒸気機関に進むが、歴史上は蒸気機関が完成に近づいてから熱力学が確立されたのである。


実験技術

アリストテレスが否定したと言われる真空の存在や、大気の圧力を証明するために真空技術の開発が始まった(〜1650年) 。真空技術はごく最近まで科学研究のための技術、すなわち実験技術だったが、今日ではハイテク産業に欠かせない工業技術に発展している。

真空技術と並んで科学の実験に使われるものに、写真技術がある。写真技術では材料の作製が経験技術の段階で工業化され、その後に感光や現像の機構が科学的に解明されたのである。

印刷技術となると経験の伝統が主流であり、最近のゼロックスなどで初めて近代科学が応用されるようになったのである。

以上の例を見渡すと、技術に先導されて科学が発達した場合が大部分である。


電気磁気と原子力

ファラデー‐マックスウェル(〜1850年) の電気磁気学は、エネルギーと情報の両分野でじつに広範囲の技術開発に応用された。その例は説明するまでもない。それらは、明治以来の日本が輸入した技術の大部分である。

原子力も科学の成果に基づいて開発された。加速粒子による原子核の破壊が1932年、ウラン核の分裂が1938年に発見された。広島・長崎への原子爆弾投下が1945年である。私は青年時代にその経過を身近に見聞し、そのすさまじさに驚いた。

多くの日本人が科学を基礎、技術を応用と考えるのは、明治以後の強烈な印象によるのではなかろうか。そして、もはやその逆はありえないと信じている人が多い。しかし、私は逆もありうると思っている。今日の微細加工技術(コンピューターなどの微細素子の作製に使われている)の後を追うようにナノ物理学の新分野が生まれつつあると思うが、いかがだろうか。


常温核融合

これはフライシュマン‐ポンズ(1989年)に始まる錬金術である。現在の理論物理では説明のつかない不思議な現象である。私は否定論者と肯定論者の熱戦を見物席から眺めている素人だが、最近は実験の科学的な信頼度が非常に上がってきたと見ている。

肯定論者はこの現象によるエネルギー開発を計画し、日本の政府ならびに企業は1992年度にすでにいくらかの投資を行なった。これに対して、科学的な基礎が疑わしい現象に基づく技術開発はすべきでないとの批判がある。

私は、これを時期尚早とは思うが、「すべきでない」とは思わない。以上に述べた例から明らかなように、技術開発の多くが科学に先立って行なわれてきたからである。また、開発の現場では、今日でも傍観者が考えるほど科学万能ではないのである。常温核融合のような場合に、技術開発が科学的確証を待たなければならない理由はないと思う。

さて、常温核融合の開発に好意的なある実業家が、「人類が分かちあうべき最も偉大な資産となることを私は確信する」と述べたという。実業家の「確信」はわれわれの確信とは意味が違うのだろうが、とにかく「確信」には反対である。

上述のように、科学的な確証に欠けるということは、この開発が自然の法則に反している可能性もあるということである。その場合は、人間がいかに努力しても成功はできないのである。第一種永久機関の開発の失敗はその例である。その点をわきまえずに「確信」することは、自然を征服したという人間のうぬぼれでしかない。


結語

科学と技術に関する私の素朴な考え方を述べた。私はこれを教育、研究、開発などの諸問題の整理に役立ててきた。また、現在、直面している基礎科学振興や常温核融合の問題の検討に役立てている。読者諸氏の御批判をいただければ幸いである。

(1993年)


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