上田良二「応用基礎研究のすすめ」




日本の技術のすばらしさが欧米諸国でも評判になり、われわれも胸を張って海外旅行ができるようになった。それで最近、日本人は日本が先進国になったと自負しているが、一皮剥がせば骨組みはすべて借り物で、いたるところに後進性が見られる。日本人は自信を強めると同時に、身のほども知らなければならない。


基礎と末梢、純正と応用

一般に、大学の研究は基礎的、会社の研究は応用的と思われている。しかし、大学の研究がすべて基礎的ならその各々から大枝小枝が出て発展するはずだが、そうした例は極めて少ない。つまり、大部分は基礎的ではなく末梢的なのである。そこで、金儲けと縁のない研究を純正的と呼ぶことにしよう。私は、研究費を使うだけの研究を「純正研究」、使うだけでなく金儲けの魂胆があるものを「応用研究」と呼んでいる。基礎と末梢、純正と応用の関係は、下図のごとくである。


応用――――末梢
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純正――――基礎


湯川先生のような研究が「純正基礎研究」、トランジスタやレーザーの発明が「応用基礎研究」、大学の研究の多くが「純正末梢研究」、会社の研究の多くが「応用末梢研究」である。顧みると私も、基礎研究のつもりでたくさんの純正末梢研究をやってきたものだ。末梢研究は基礎研究には及ばないが、そのすべてが役に立たないわけではない。適当な剪定をすれば、花が咲いたり実がなったりするのは末梢である。現在の日本の工業の繁栄が大量の応用末梢研究に負うていることは間違いないだろう。


学理から技術へ、技術から学理へ

日本人の多くは、学理を応用して技術を開発するものだと思っている。しかし、歴史上の大発明にはその逆が少なくない。ガリレイは望遠鏡を改良したが、彼は幾何光学を勉強してからその仕事をしたのではない。年表を見ると、彼の仕事はスネルの屈折法則にさえ先立っているから、望遠鏡や顕微鏡の開発が幾何光学を生んだと見るほうが正しい。蒸気機関の発達の後を追って熱力学が確立されたことはよく知られている。ブラウン管の発明も、電子の発見よりわずかながら先だった。学校では基礎の学理を教えてから応用の技術に入るが、それは教えやすくするための方便に過ぎない。今日でも、一見泥臭い応用のなかから美しい学理が生まれる例は少なくない。

残念ながら日本人は、学理を生むような技術を開発したり、技術のなかから学理を育てた経験に乏しいから、教壇に立つ先生まで、学理が先で技術が後と思い込んでいる。このあたりに日本の科学技術のくちばしの黄色さが窺われる。


基礎勉強、基礎演習、基礎研究

日本人は勤勉で、基礎勉強をよくする。大学でも会社でも、外国の基礎研究の文献をよく読んでいる。読むだけでなく、追試などして理解を深めている。私はこれを基礎演習と呼んでいる。頭のよい連中はそこで多少のくふうを凝らし、自分で研究したと思っている。末梢研究はこのようにして行なわれる。

基礎研究も最初は基礎演習から出発するが、どこかで飛躍して、質的に新しい構想をもつのである。液晶による表示、ファイバーによる通信、オージェ電子による表面分析、希釈冷凍による超低温の発生など、大小さまざまな例がある。もっと小さい専門分野の構想でもよい。日本人の業績は優れていると言っても、その多くが外国人の構想の発展で、精緻を極めてはいるが基礎演習の域を出ない。

私の専門の電子顕微鏡は日本人の得意とする分野だが、それでも新構想による基礎研究は極めて少なく、数え方にもよるが世界全体のたかだか一割に過ぎない。自分の研究が基礎演習の域を脱したと思う読者には、挙手をお願いしたいものである。


ほめる人、ほめられる人

基礎演習に毛の生えたくらいの仕事をすると、外国の御本尊からほめられることが多い。ほめるほうは協力者を激励するつもりなのだが、ほめられた日本人は自分が一流の研究者になったような気になってしまう。ほめるほうは一流、ほめられるほうは二流、または先生と生徒みたいな関係であることは小学生でもわかるが、それが大学の先生にはわからない。「○○国際会議で好評を博した」とか「高い評価を得た」というのが最近の自薦他薦の最高の形容詞になっている。これは、日本人が自分の業績の価値を自分で判断できないからである。

私もエヴァルト〔Paul Peter Ewald, 1888〜1985〕ラウエ〔Max von Laue, 1879〜1960〕の激励を受けたときは嬉しかったが、あちらが一流でこちらが二流なことはわきまえていた。最近のように、ほめられた人が一流学者らしい顔をして堂々と通用するのは、日本が後進国であることを証明している。今のところ、ほめる側の日本人には滅多に会わないが、それが当たり前にならなくては本当の先進国とは言えまい。


知力、判断力、勇気

たいていの日本人は、研究は知力でするものと思っている。これは日本人の多くが、現存学理の射程のなかで基礎演習的な仕事をしているからである。その範囲なら知能指数が高いほど、射程が長くよい仕事ができる。しかし本当の研究は、必ずしも現存学理の延長だけではない。むしろ、その外に踏み出すところに基礎研究の本質がある。
日本人学者はみんな無色透明な感じだが、欧米には強烈な個性を感じさせる人が少なくない。例えば、不可能と思われる問題に取り組み、独特な仮説を掲げて、他人の批判をものともせずに強引に自説の証明を試みる。そんな桁はずれの大人物ではなくても、われわれが「馬鹿な!」と思うような問題をとらえ、「未知だから試みる価値がある」と言うくらいの人はざらにいる。

研究は客観的推論のみでするものではなく、その節目節目で主観的判断をし、五年、十年、あるいは一生を賭けなければならない。それには自信も勇気も要る。日本の研究が知力万能、教育が知育偏重なのは、後進性のゆえであろう。先進的になれば、必然的に判断力や勇気が重視されるようになるはずである。


指導開発、追従開発、自主開発

日本人が現在「自主開発」と呼んでいるのは、外国で達せられた技術をその後から、直接の指導は受けずに開発することである。これでも、明治時代の手取り足取りの開発──指導開発──に比べれば数段の長がある。しかし、自主の字に値するほど主体性のあるものではない。

科学でも技術でも、誰かが成し遂げたことをその後からするのは、最初の人に比べれば桁違いに易しい。「できた」と聞くだけで、何も教わらないでも易しくなるのだ。最初の人には未知に挑戦する勇気が要るが、二度目からはそれが要らないからだ。実際の開発ではかなりの情報が入るから、経済力の背景があれば知力だけで足りる。電子顕微鏡でも原子力でも、日本人が「自主開発」と呼んでいるのはすべてがこの類で、厳しく言えば自主ではなく追従開発と呼ぶべきものである。明治大正の時代にはそれさえできなかったのだから、昭和の初期にわれわれの先輩が「自主開発」を喜んだのは当然だが、今日になっても追従開発を「自主開発」と自慢するのは感心できない。

日本人は模倣がうまい。特に最近の日本の技術は、原画にまさる模写画を生産しているみたいだ。どんなに巧妙でも、模写画家が本当の画家のような顔をしてふるまえば滑稽である。少々言葉が過ぎたが、確かに似たところがある。


プライオリティの価値

日本人はプライオリティを尊重する精神に乏しい。自主でも追従でも、物さえできて売れさえすれば、その技術を優秀と評価する。企業家がそう思うのはやむを得ないが、教育者や言論人までがそう思っているところに問題がある。

基礎研究は灯台に火をつけるようなものだから、そのプライオリティが尊重される。それは多くの航行者に恩恵を与えるからで、直接の利益を得るからではない。現在の日本人は、あらゆる灯台を見張っていて、火がつきしだい船団を繰り出し、効率のよい水揚げを狙っている。これは、恩恵を与えることより、水揚げを増すことに大きな価値を認めているからである。

最近では基礎研究の振興が論じられているが、その根拠は資源なき国の技術立国、すなわち将来の生活の糧を得るためである。もし売れる物を作るだけが目的なら、基礎研究を振興するより現在の方式を徹底的に強化するほうが賢明である。独創性を涵養して基礎研究を振興するのは、灯台に火をつけて世界の人々に恩恵を与えるためである。日本人がその価値を認め、それを実行するようにならなければ、日本が先進国になったとは言えまい。

欧米諸国といえども、そんな上品な先進国の理念をもっているわけではない。特に食うか食われるかの技術開発の世界では、水揚げを忘れてなどいられない。しかし、欧米には日本と違う精神的な伝統がある。日本人に欠けているその精神を養わないかぎり、日本を本当の先進国にすることはできない。

(原題「研究開発にみる日本の後進性」。「蟻塔」9月号、1980年)


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