上田良二「運のよい人は偉い人」



日本物理学会誌(第31巻第7号、1976年)の座談会「春宵放談」に、故・熊谷寛夫氏〔1911〜1977〕と芳田奎氏〔1922〜〕の独創性に関する面白い討論が載っています。その大筋は次の通りです。

熊谷「オンネス〔Heike Kamerlingh Onnes, 1853〜1926〕が超伝導を発見した年(1911年)が私の生まれた年なんです。あれは独創的でしょうね」

芳田「ぶつかったんでしょうね。その後も実験的な研究はずっと絶え間なく進んでましたね」

熊谷「超伝導を見つけた仕事は独創的なのかどうか」

芳田「偶然であって、独創性じゃないと思いますよ」

熊谷「デビソン〔Clinton Joseph Davisson, 1881〜1958〕とガーマー〔Lester Halbert Germer, 1896〜1971〕の電子の波動性の発見も偶然の発見であって、意図したことではないんです。芳田先生に言わせると、そういうのは皆、独創的ではない(笑)」

芳田「けがの功名。あるいは偶然的な発見というのは物理学の進展に極めて重要な推進力になっていると思いますよ」

皆さん、これを読んでどう思いますか。大科学者の話のすぐ後で自分の話を持ち出すのは恥ずかしいけれども、私は評論家ではないから、何でも自分の身に置きかえて考えるのです。私が超高圧電子顕徴鏡で発見した現象に、臨界電圧効果と呼ばれているものがあります。私は理論的予測によって意図的にこの効果を発見したのではなく、芳田氏の言う通り「ぶつかった」わけです。「偶然」と言われてもその通りですから、文句はありません。しかし、「けがの功名」には少々抵抗を感じます。ぶつかったと言っても、正面衝突ではなく軽くかすったときに第六感を働かせ、うまく糸をたぐったから成功したのです。これは馬鹿者にはできないし、ちょっと利口な者にだって無理かもしれません。

仕事の大小を別にすれば、デビソンとガーマーの発見は私の場合に似ています。彼らは実験中の事故で大発見のきっかけをつかんだのです。その後の考え方が正しく、それを実行する優れた実験技術を持っていたからこそ、成功したと言えます。おそらく、この幸運をつかみ得た人は、当時の世界には彼ら以外には誰もいなかったでしょう。

幸運と正面衝突した場合でさえ、それをつかむのは決して易しくはありません。私は1950年頃、転位に興味を覚え、その一つひとつを電子顕徴鏡やX線顕微鏡で見る可能性を検討して、学会で講演したくらいです(1954年)。ところが、それよりずっと前に(1952年)、日比忠俊氏〔1910〜1994〕からいただいた雲母の電子顕微鏡写真に、はっきりとした転位の像が写っていたのです。私はその写真を自分の論文に引用して、「ここに見られるV字形の線は結晶の欠陥によるものである」と書きながら、それが転位の像とは気づきませんでした。その理由は、転位を見るのは難しいという当時の通説が頭にこびりついていたからです。もし私の頭がそんな通説にとらわれていなかったら、私は「けがの功名」で日比氏とともに転位像の発見者になっていたはずです。

超電導の発見がどのようにしてなされたか、その経緯は知りませんが、このようなまさかと思われる現象を素直に受け入れた人は、よほど非凡な人だと思います。私は転位像に正面衝突していたにもかかわらず、まさかと思って逃してしまったのです。オンネスの発見を凡人の「けがの功名」と言うなら、私は凡人以下、つまり阿呆ということになります。私は自分を凡人とは思いますが、阿呆とは思いません。だから、オンネスが非凡だと言うのです。

ギリシャ神話のオポチュニティの神を御存知ですか。私が中学時代に習った西洋史で覚えているのはこの話だけです。オポチュニティの神は、長い髪を顔の前に垂らしてやって来る。そのため、近づいてくる時はたいていの人は気がつかない。通り過ぎると頭のうしろが禿げていてよく見えるが、つかまえようとしてもつるつる滑ってつかまらない。凡人は、光る頭の遠ざかるのを見て残念がる。オポチュニティをとらえたい人は、近づいてきたときに長い髪をつかみなさい、という話です。

私は、自然の研究を宝探しと考えています。神様が万物を創造し給うた時、どこに何をお隠しになったかは、われわれ人間にはわからない。そこで、研究と称して宝探しに出かけるのです。もちろん目標を立てて出発するのですが、浅はかな人間の予想はめったにあたりません。予想が外れて思いがけず大きな宝物にぶつかることもありますが、それは一生にたかだか一度ですから、それをつかまえるのは難しいのです。

小さな運には5年か10年に一度はぶつかります。私はそれを、「犬も歩けば棒にあたる」と言っています。われわれの頭は犬と同じだから、歩き回ることが大切だという意味です。しかし、いくら歩き回っても舗装道路の上では絶対に棒にはあたりません。棒にあたりたいなら、人の歩かないところに出て行かなくてはだめです。そう言うと、いわゆる新分野への進出を考える人が多いのですが、それで成功することはむしろ稀です。「棒にあたる」ような分野は自分で開拓すべきもので、他人の後を追ってもだめなのです。

実験物理の発見には三つの段階があるようです。第一段階は、未開の荒野を歩きまわる。第二段階は、幸運にめぐりあう。第三段階は、その幸運をつかむ。オンネスは、極低温という荒野の開拓者です。今日でこそ極低温は新現象の宝庫になりましたが、当時は原子物理の勃興期でしたから、低温のような巨視の世界に何があるかとの批判さえあったと聞いています。オンネスは、勇気をもってその中に踏み込んだからこそ、幸運にめぐりあえたのです。オポチュニティの神がにこやかな顔でオンネス先生に握手を求めたとしても、その幸運をつかみ得たのは、先述の通り非凡の一語に尽きるのです。

さて、独創的という言葉の意味ですが、字義に忠実に解釈すれば、自分ひとりの考えで新しいものを創り出すこと、となるでしょう。理論物理ではそのような場合もあるかもしれませんが、実験物理では違います。偉大な自然のなかに微力な人間が出かける以上、神様のお引き合わせがなければ出会うことのできないような宝物のほうがむしろ多いのです。何もかも人間の頭脳だけで発見できると思うのは、研究者の思いあがりです。そう考えれば、独自の考えで未開の荒野を開拓し、幸運に恵まれてそれをつかんだ人を、独創的と言ってもよいと思います。

そんなわけで私は、「運のよい人は偉い人」と信じて疑わないのです。

(「半導体研究所報告」第4号、1978年)


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